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【所縁の史跡】曽祢神社(大阪府)

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  ■ 曽祢神社  [地図] 大阪府泉大津市曽根一丁目に鎮座する、曽祢神社です。 JR阪和線信太山駅から、西へ800メートルほどのところです。 『延喜式』神名帳の和泉国和泉郡に、「曾禰神社」がみえます。 和泉の国内神名帳に「曾禰 社 」があり、神階は従四位上といいます。 『新撰姓氏禄』の和泉国神別に、曽袮連は采女臣と同祖、つまり、饒速日命の六世孫の伊香我色雄命の後裔であるといいます。 曽袮神社は、この曽袮氏が祖神を祀ったことに始まると見られます。 祭神は、饒速日命、伊香我色雄命、素盞嗚命、住吉四神です。 さらに、明治の神社合併により、近隣七ヶ所の神社の神々も合祀されています。 社殿は鬱蒼と茂る木々のなかにあります。 本殿はブロック塀のなかです。 合祀された神社のなかに、曽祢神社から西に一キロほどの二田町にあった、「二田国津神社」があります。 祭神は、二田物部神ほかです。 国内神名帳に、従五位上二田国津社がみえます。 二田は、『旧事本紀』天神本紀に饒速日尊に供奉して天降ったという、「二田造」と「二田物部」の住地だったと見る説があります。 二田物部は、『新撰姓氏禄』未定雑姓にも見え、饒速日命が天降ったときの従者といいます。 二田造は、孝徳紀の大化五年三月条に、「物部二田造塩」の名が見えます。蘇我倉石川麻呂は異母弟の日向臣の讒言により、自殺に追い込まれましたが、このとき石川麻呂の遺体の首を斬り落としたのが二田造塩でした。 国内神名帳は、同じ和泉郡に物部社も載せます。 一帯に、物部氏の勢力が及んでいたと見ることができそうです。 ↓境内の白山神社です。 白山姫命を祀ります。 この神社境内を含む一帯が、「池上曽根遺跡」です。東隣りが遺跡公園になっています。 直径約300メートルの環濠集落跡を中心とした、弥生時代前期~後期の集落遺跡です。 鳥越憲三郎氏の述べた物部氏弥生時代起源説では、この遺跡も物部氏の原集団に関係するとされます。 ただし、あくまで弥生遺跡なので、物部氏の活動が明らかな六世紀まで、集落が断絶無く継続していたわけではありません。 高殿や竪穴住居の復元建物がありました。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 曽祢神社

【所縁の史跡】阿理莫神社(大阪府)

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  ■ 阿理莫神社  [地図] 大阪府貝塚市久保に鎮座する、阿理莫(ありまか)神社です。 JR阪和線東貝塚駅から、北へ800メートルほどのところにあります。 『延喜式』神名帳の和泉国和泉郡に、「阿理莫神社」がみえます。 物部守屋の配下・捕鳥部万の妻が住んでいたという有真香邑、また和泉志に阿間河(あまか)荘とあるのが、貝塚市東北から岸和田市西南の、この一帯と見られています。 参拝時、境内は新装工事中でした。真新しい社殿です。 『姓氏禄』和泉国神別に、安幕首(あまかのおびと)があります。「同じき神(饒速日命)の七世孫、十千尼(十千根)大連の後なり」といい、物部氏族であることが分かります。 この氏が奉斎していた神社だったようです。 捕鳥部万の妻も、安幕氏の出だったのでしょうか。 「ありまか」の読みのほうが古く、地名表記の好字二字化の影響で「あまか」読みが広まったものの、社号などには古い読みも残ったのではないかと思います。 祭神は、饒速日命です。 また、物部十千根命をあてる説もあるようです。 明治40年ころから、旧麻生郷の各神社を合祀したため、そのときに遷されてきた、たくさんの石灯籠や鳥居が、本来は並んでいるらしいのですが、行った時期が悪かったようです… 工事の邪魔にならないように、一ヶ所にまとめられていました。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 阿理莫神社

【所縁の史跡】天神山古墳群と捕鳥部万(大阪府)

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■ 大山大塚古墳  [地図] 岸和田市天神山町の大山大塚古墳です。天神山二号墳とも呼ばれます。 天神山古墳群を構成する古墳のひとつで、群にはもと八基の後期古墳が確認されていましたが、多くは破壊されてしまいました。 墳頂に、「捕鳥部萬墓」の墓碑が建っています。 古墳は市の指定史跡になっており、遺跡公園のなかにあります。 直径20メートル強、高さ3メートルほどの円墳で、かつて銀環が出土したと伝えられています。 『日本書紀』によると、捕鳥部万は、物部守屋の近侍で、百人を率いて難波にある守屋の別邸を守っていましたが、守屋が滅んだことを聞き、夜にまぎれて馬に乗って逃れ、茅渟県有真香邑に向かい、妻に会った後、山に隠れました。 朝廷は万に反逆の心があるとして、この一族を滅ぼそうとしました。万は単身、計略をめぐらせて、数百の討伐軍を苦しめ、勇猛に戦い、殺した兵は三十人以上にものぼりましたが、ついに追いつめられて自殺しました。 「万は天皇の楯として、其の勇を効さむとすれども、推問ひたまはず。翻りて此の窮に逼迫めらるることを到しつ。共に語るべき者来れ。願はくは殺し虜ふることの際を聞かむ。」 と、悲痛な叫びをあげたといいます。彼のやりきれない想いが伝わってくるようです。 墓碑の東隣りに、顕彰碑があります。 この古墳が捕鳥部万の墓かどうかは知るすべはありませんが、「物部勢力の古墳である可能性はたかい」(森浩一氏)ともいわれます。 ■ 義犬塚古墳  [地図] 大山大塚古墳の北、約200メートルのところにある、義犬塚古墳(天神山一号墳)です。 直径20メートルほどの円墳です。 墳頂は削平され、「萬家犬塚」の墓碑が立ちます。 和泉志の泉南郡阿間河荘の条には、「捕鳥部万墓、在八田村。狗墓、在万墓北」とあります。 どなたかが、丁寧に祀っているようでした。 『日本書紀』には、捕鳥部万の飼っていた白い犬の話が記されています。 朝廷は、万の死体を八つ裂きにして、諸国にさらそうとしていましたが、そのとき雷鳴がとどろき、大雨が降ってきました。 万の愛犬がいて、死体の側を吠えてまわり、万の頭をくわえて持ち去り、古い塚に納めて、これを守り、ついに飢え死にしたといいます。 河内国司が

【所縁の史跡】宇度墓古墳と西陵古墳(大阪府)

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■ 宇度墓古墳  [地図] 大阪府泉南郡岬町淡輪にある、淡輪ニサンザイ古墳です。宮内庁が垂仁天皇の皇子「五十瓊敷入彦命」の墓「宇度墓」として治定しています。 南海本線淡輪駅を降りて、すぐのところにあります。 盾形の周濠がめぐり、6基の陪塚を従える、立派な古墳です。 宇度墓は、『延喜式』によると和泉国日根郡にあり、墓域は「東西三町、南北三町」、管理にあたる守戸は「二烟」だったとされます。 五十瓊敷皇子は、『日本書紀』に、石上神宮へ千口の剣を納めて神宝を掌ったことが記されます。 武光誠氏は、「物語の起こりに関する言いつたえは、長い期間にわたって語りつがれることが多い」としたうえで、「五十瓊入彦が石上神宮の宝剣をつくった」話は、「きわめて古い時代につくられた可能性が高い」とされています。 雄略紀にある紀小弓の墓の記述には、妻の大海が、大伴室屋大連を通じて、わざわざ天皇に墓所とすべき地を請うて、はじめて墓を造ることが許されたとしています。 この地方の主権者は、皇室であると認識されていたと見ることができそうです。 その背景には、「かつて泉南を拠点とした、有力な王族がいた」という伝承が、古くから存在していた可能性はあるでしょう。 墳丘全長は180メートル、後円部径は100メートル、前方部幅は120メートルあり、くびれ部の両側に造り出しがあります。 築造は5世紀後半と見られているので、実在すれば4世紀の人物らしい五十瓊敷皇子の墓ではありえません。 ■ 西陵古墳  [地図] 岬町淡輪の西陵(にしのみささぎ)古墳です。 南海本線のみさき公園駅と淡輪駅の中間あたりにある、前方後円墳です。西ニサンザイ古墳とも呼ばれるようです。 墳丘全長210メートル、後円部径115メートル、前方部幅108メートルで、泉南地方では最大規模を誇ります。 周濠は盾形にめぐり、水をたたえていますが土橋のようになっている部分があり、墳丘へは進入可能です。墳丘に立ち入れる古墳としては、大阪府で一番おおきいとおもいます。 円筒埴輪には土師質と須恵質のものが両方あり、形象埴輪は盾・短甲・家形埴輪などの破片が出土しています。 ↓くびれ部に近いあたりから、後円部を見上げました。 かつて、後円部の墳頂付近には、長持

【所縁の史跡】 玉田山古墳群と「菟砥川上宮」(大阪府)

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■ 玉田山古墳群  [地図] JR阪和線和泉鳥取駅から西に約一キロメートル、阪南市自然田に玉田山公園があります。 ここに、数基の古墳があります。 玉田山西麓にある、玉田山1号墳です。 直径11.5メートルの上方下円墳です。  横穴式石室が開口しています。 石室の全長は6.4メートル、玄室の長さは2.9メートル、幅は1.7メートルほどあります。 玄室内には敷石が二層に施されており、6世紀後半に築造され、6世紀末~7世紀前半に追葬がされたと考えられています。 須恵器の蓋杯・台付長頸壺など土器類、金銀の耳飾り、ガラス玉などの玉類といった多くの副葬品が出土しています。 ↓西中腹斜面にある、玉田山2号墳です。 封土がかなり流出してしまっています。直径約10メートルの円墳だったと見られています。 築造は1号墳より、やや新しい時期と考えられています。 天上石や壁上部の石材も無くなっているので、両袖の平面形を見ることができます。 石室の規模は、全長が4.8メートルほど、玄室の長さが2.8メートルほど、玄室の幅が0.9メートルほどです。 ↓玉手山の山頂付近です。ここに3号墳があります。 昭和五十五年の調査で、箱式石棺や家型埴輪の破片が発見されたといいます。 墳丘形は不明で、築造は1号墳や2号墳よりも古いと見られています。 ■ 称伝「菟砥川上宮旧跡」  [地図] 玉田山東麓にある、菟砥川上宮旧跡碑です。 戦前に建てられたものらしく、瓦の載った土塀がめぐる立派なものですが、現在はあまり手入れがされていないようです。 朽ちかけた塀が崩れると危険だからでしょうか、フェンスに囲まれて碑には近づけなくなっています。 菟砥川上宮は垂仁天皇の皇子、五十瓊敷入彦命の宮殿とされ、ここで作られた千口の剣が、大和の石上神宮に収められたといいます。 武器庫としての石上神宮の、起源説話です。 五十瓊敷皇子の名を刻んだ小さな碑が、草に埋もれていました。 垂仁紀にある「菟砥川上宮」は、古事記では「鳥取之川上宮」とあります。 ↓「菟砥川」のほとりから、玉田山(左側の丘)を見ました。周辺には「鳥取」の地名も残ります。 鳥取は、物部守屋の資人、捕鳥部万(ととりべのよろず)の出身地とする説もあります。 天璽