投稿

ラベル(下野国)が付いた投稿を表示しています

【所縁の史跡】鹿古墳群と大和田富士山古墳(栃木県)

イメージ
■ 鹿古墳群   [地図] 【 天神山古墳 】 栃木県真岡市鹿にある、天神山古墳です。 鹿古墳群内では一基だけ前方後円墳。前方部を西に向けています。 上の写真は南から見たところで、右側が後円部、左側が前方部。 下の写真は西北西から見たところです。 規模は現状では、墳長50.5m、後円部径27m、後円部高さ4.5m、前方部幅26m、前方部高さ3.85mになります。 昭和四十年九月に、栃木県の史跡に指定されています。 後円部の裾に、そのとき立てられた碑が薮に埋まっています。 下写真は後円部上から前方部側を見たところです。 内部主体は不明。埴輪は発見されていません。 前方部が発達した墳形などから、6世紀に築造されたものと見られています。 前方部上から後円部側を見たところです。 当地は合併前の物部村、『和名抄』に見える下野国芳賀郡「物部」郷の郷域内にあり、北には隣接して「物井」の地名も残ります。 この付近に置かれた物部管掌者に関係する古墳群でしょうか。 北側の裾の様子です。 墳丘の形に合わせて、道路が蛇行しているのがわかります。 墳丘裾は若干削られてしまっているようでした。 南側のくびれ部付近の様子です。 このあたりから、墳丘上に登れそうです。 周堀の調査が行われたことがあるそうですが、そのときには見つからなかったそうです。 【 庚申塚古墳 】 真岡市阿部品の庚申塚古墳です。天神山古墳の南100m弱ほどの近さにあります。 「円墳」として、町指定の史跡になっています。 現状では、直径20m、高さ4.5mを測ります。裾がかなり削られているようなので、本来はもう一回り大きかったのかもしれません。 大正元年ころ、横穴式石室が掘り出され、瓶の破片と刀剣の金具が出土したとされています。 石室材は、残念なことにそのとき売却されてしまったようです。 【 八幡山古墳 】 庚申塚古墳の東100mほどのところに位置します。阿部品の集落の北に鎮座する、八幡神社の境内です。 社殿の真後ろにあり、墳丘を大幅に削りとられてしまっています。 社殿のあるほうの反対側の裾を観察すると、ゆるやかな弧を描いていることから、円墳と見られるそうです。 規模は、東西44m、南北35m、高さ5m。 埴輪は確認されてい

【所縁の史跡】下野国薬師寺と道鏡(栃木県)

イメージ
■ 下野薬師寺跡   [地図] 栃木県下野市薬師寺の、国指定史跡「下野薬師寺跡」です。 神護景雲四(770)年八月、称徳天皇の崩御によって後ろ盾を失った道鏡は、この地に造下野薬師寺別当としてやってきました。事実上の、配流だったと見られています。 天平勝宝六年には薬師寺僧行信が流されており、ここは高僧の配流先としての役割を持っていたようです。 現在、安国寺というお寺が建っています。 下野薬師寺の創建に関しては、下毛野氏の氏寺として始まったとする説と、当初から官寺として始まったとする説があります。 出土の瓦から、7世紀末の創建と見られ、天武朝の下毛野朝臣古麻呂の関与によるものとする考えもあるようです。 礎石。 近くの民家の人が、東塔跡付近から掘り出したと伝えられています。 ほぞ穴の形式から、白鳳時代のものと見られています。 六角堂。 中には鑑真和上の画像を納めた厨子が安置されています。 このあたりに、受戒の儀式を行うための戒壇が設けられていたと見られています。 戒壇院は東大寺以外では、筑紫観世音寺と、ここ下野薬師寺にのみ置かれました。 一部分が復元された回廊です。 発掘調査の結果、回廊は東西110メートル、南北102メートルにもおよぶことが明らかになりました。壮大な伽藍は地方寺院としては破格の規模で、中央の国大寺にも比肩するものでした。  ■ 道鏡塚   [地図] 道鏡塚古墳です。 宝亀三(772)年に没した、道鏡の墓だと伝えられています。下野国薬師寺別院として建立されたという縁起を持つ、龍興寺の境内にあります。 6世紀末ころに造られたと見られる円墳で、直径は約24メートルあります。 道鏡の時代には合わないようです。 『続日本紀』に、道鏡の死に際しては、庶民としての待遇で葬られたとあります。 このような立派な墳墓が築かれることはなかったでしょう。   天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 下野国薬師寺と道鏡