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【所縁の史跡】石の宝殿(兵庫県)

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  ■ 石の宝殿   [地図] 兵庫県高砂市阿弥陀町生石に鎮座する、生石(おうしこ)神社です。 養和年間の成立かという播磨国内神名帳に見える、「生石太神」はこの神社に祀られる神と見られます。 全山が熔結凝灰岩からなり、古墳時代の石棺の石材産地として有名な、竜山の東中腹に位置します。 祭神は、大己貴神と少彦名神。社伝には崇神朝の創建といいます。 この神社のご神体が、謎の石造物「石の宝殿」です。 拝殿の下を通って奥に進むと、その巨大な姿に圧倒されます。 正面の最大幅は645センチ、 奥行きは546センチ、 最大高は570センチのほぼ直方体です。 背面に角状の突起を作り出しているので、奥行きの全長は720センチ程になります。 両側面とおそらく上面には、幅約160センチ、深さ20数センチの溝が廻っています。 下部は周囲からえぐられ、雨水がたまっているので、石は池に浮かんでいるかのように見えます。 『播磨国風土記』の印南郡大国里条に「作石」「大石」として記されており、8世紀初頭以前から現在の形で存在していたことがわかります。 古代史料と考古学上の遺跡とが一致する、貴重な例のひとつです。 『万葉集』巻三には、生石村主真人の歌として、 「大汝少彦名のいましけむ 志都の石屋は幾代へぬらむ」 が見えます。「しづのいわや」の比定地は島根県などにもあるようですが、石の宝殿をあてる説が最も有力視されています。 比較的早くから信仰の対象になったことがわかります。 風土記は位置と大きさに続いて、 「聖徳王御世弓削大連所造之石也」 という伝説を記します。物部弓削大連、守屋が造らせたものだというのです。 印南郡には法隆寺の寺地が多く、物部守屋が聖徳太子に討たれたという伝承が一帯に広がっていた可能性が高いです。その伝承と未完成に見える石造物を結びつけ、太子伝説の一環として、守屋の遺品という伝えが生まれたものでしょうか。 『兵庫県史 考古資料編』(平成4年)の中で西谷真治氏は、「家型石棺の製作技術との類似から考えると、およそ六世紀代のものとしてよいであろう」としています。 森浩一氏のように、物部守屋の墓として製作されていたものが、未完成のまま、河内へ運ばれることなく放棄されたと見るのも面白いかもしれません。 JR宝殿駅前

【所縁の史跡】物部神社(兵庫県神戸市)

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  ■ 可美真手命神社   [地図] 兵庫県神戸市西区押部谷町細田に鎮座する、可美真手命神社です。 『延喜式』神名帳の播磨国明石郡に見える、「物部神社」の論社といわれます。 元住吉山の雑木林の中の小さなお社。祭神は可美真手命です。 可美真手命神社のお祀りは、県道83号線と明石川を挟んだところにある、住吉神社によって行われています。 この住吉神社は社伝には、摂津の住吉大社から、天平勝宝六(754)年に、津守氏によって勧請したのが創まりといいます。 可美真手命神社のある元住吉山に、かつては住吉神社があったといい、永禄二(1559)年に楯神社・鉾神社とともに現在地へ移遷したと伝えます。 住吉神社本殿の右側にある、楯神社です。祭神は豊磐間戸命。 本殿左側の鉾神社です。 祭神は櫛磐間戸命。豊磐間戸命とともに、『古語拾遺』にみえる殿門を守る神です。 明石川の川辺から雄岡山をのぞみます。左が住吉神社の杜です。 当地「押部谷」は、忍海部に由来する地名です。明石川の上流には、弘計億計伝説に登場する忍海部造細目の邸宅伝承地なるものもあります。生澤英太郎氏は「古代播磨における物部氏と鍛冶・製鉄技術者について」の中で、この地域への物部氏の展開や、鍛冶製鉄技術者としての忍海漢人との関係を述べています。 ■ 惣社   [地図] 兵庫県神戸市西区伊川谷町上脇に鎮座する、惣社(惣社神社)です。 こちらも、播磨国明石郡の式内物部神社の論社です。 阪神淡路大震災により被害を受けた社殿の、再建改修と境内の整備工事は、八年の歳月を要し、平成十六年に完成しました。 祭神は、大己貴尊、素盞嗚尊、経津主尊、武甕槌尊です。 延久三(1071)年に再建したと伝えます。 播磨国の国府は飾磨郡にあり、一般的な意味での惣社(総社)には、同郡の射楯兵主神社をあてるのが普通です。 当社の社名については、ある時期に「物部」を「物心」と記し、誤って「惣」としたという説がありますが、はっきりしません。 本殿の両側に境内社が並んでいます。 左から、山神社、歳徳社、稲荷社… 同じく左から、稲荷社、八幡社、荒神社、猿田彦社です。 この一帯は、明石川流域では最も古墳が多かった地域です。 神社の東側に隣接する丘には宮ノ谷古墳群が、西側には伊川谷中学校を挟