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【先代旧事本紀】巻第五・天孫本紀 - 現代語訳

天璽瑞宝トップ   >  先代旧事本紀   >  現代語訳   > 巻第五・天孫本紀 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 《 あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと 》 。 またの名を天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命という。またの名を 胆杵磯丹杵穂命 《 いきいそにきほのみこと 》 。 天照孁貴 《 あまてらすひるめむち 》 の太子・ 正哉吾勝々速日天押穂耳尊 《 まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと 》 は、 高皇産霊尊 《 たかみむすひのみこと 》 の娘の 万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命 《 よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと 》 を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊をお生みになった。 天照太神と高皇産霊尊の、両方のご子孫としてお生まれになった。そのため、天孫といい、また皇孫という。 天神の御祖神は、 天璽瑞宝 《 あまつしるしのみずたから 》 十種を饒速日尊にお授けになった。 そうしてこの尊は、天神の御祖先神のご命令で、天の磐船に乗り、河内国の川上の 哮峰 《 いかるがのみね 》 に天降った。さらに、 大倭 《 やまと 》 国の 鳥見 《 とみ 》 の白庭山へ遷った。 天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。 いわゆる、天の磐船に乗り、 大虚空 《 おおぞら 》 をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られ、“ 虚空 《 そら 》 見つ 日本 《 やまと 》 の国”といわれるのは、このことである。 饒速日尊は 長髓彦 《 ながすねひこ 》 の妹の 御炊屋姫 《 みかしきやひめ 》 を娶り妃として、 宇摩志麻治命 《 うましまちのみこと 》 をお生みになった。 これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。 「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば 味間見命 《 うましまみのみこと 》 と名づけなさい。もし女子であれば 色麻弥命 《 しこまみのみこと 》 と名づけなさい」 産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が 速飄神 《 はやかぜのかみ 》 にご命令して仰せられた。 「我が御

【所縁の史跡】飛鳥(奈良県)

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高松塚古墳 文武天皇陵 天武・持統天皇陵 石舞台古墳 亀石 亀形石造物 蘇我入鹿首塚 水落遺跡 ■ 高松塚古墳  [地図] 奈良県高市郡明日香村平田の高松塚古墳です。 凝灰岩の切り石で作られた石室を持つ終末期古墳で、内部に壁画があったことで知られます。 人物像、四神図、星宿図など極彩色で描かれた壁画は、天平時代の諸例に先立ち日本絵画史の空白を埋めるものとして、美術史上、高い評価を得ています。 出土遺物として、熟年以上の年齢の男性人骨一体、金箔漆塗木棺と棺金具、副葬品の海獣葡萄鏡・大刀飾・ガラス玉を中心とする玉類、土師器・須恵器があります。 築造時期は、須恵器から七世紀の最末期以降であることが明らかになっています。 また、壁画の人物画像により、襟元が左前になっており、左襟禁止令の出た西暦719年以前であること、女子が褶 (ひらみ:袴や裳の上につける衣服) をつけていて、その着用が許された702年以降であることがわかります。 大宝令が既に行われていた時期であり、被葬者の絞り込みにも有益です。 東壁男子群像には、蓋 (きぬがさ) が描かれています。身分の高い人が外出するときに用いる日傘のような威儀具です。 壁画の蓋は深緑色で、四隅に総を垂れ、総は蓋の表と同色、頂と四隅が赤色なのは錦で覆っている表現と見られます。 儀制令によると、これは「大納言以上の議政官」で「位階は一位」の人物に用いられます。 702年から719年の間で、この条件に合致するのはひとりしかいません。 養老元(717)年に亡くなった、左大臣贈従一位、石上麻呂です。 麻呂が平城遷都後も、藤原京に留守官として残っていたことが、『続日本紀』にみえます。 ■ 文武天皇陵  [地図] 高松塚古墳から南へ二〇〇メートルほどの位置にある、栗原塚穴古墳です。 宮内庁によって、西暦697年から707年まで在位した文武天皇の、「檜隈安古岡上陵」に治定されています。 文武天皇は天武天皇と持統天皇の孫にあたります。 二十五歳の若さで崩御しました。 文武陵には、北へ四〇〇メートルほどの中尾山古墳をあてる説が有力です。正八角形の墳丘に、精巧な加工技術と朱塗りが施された石槨をもつことが明らかにされています。  栗原塚穴古墳のほ

物部万葉歌

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万葉集の中の、「物部」関係者の歌を紹介します。 目次 【物部を名のる防人の歌】 ・ 物部秋持 ・ 物部古麻呂 ・ 物部乎刀良 ・ 物部竜 ・ 物部道足 ・ 物部真島 ・ 物部歳徳 ・ 物部広足 ・ 物部真根、椋椅部弟女 ・ 藤原部等母麻呂、物部刀自売   【石上氏の歌】 ・ 石上大臣の従駕にして作れる歌 ・ 志賀に幸す時に石上卿の作れる歌 ・ 石上大夫の歌 ・ 石上乙麻呂朝臣の歌 ・ 石上乙麻呂卿、土佐の国に配さゆる時の歌 ・ 式部大輔石上堅魚朝臣の歌 ・ 五年正月四日、治部少輔石上朝臣宅嗣の家に宴せる歌   【高橋虫麻呂の歌】 ・ 不盡山を詠ふ歌 ・ 四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時に高橋連虫麻呂の作る歌 ・ 筑波の山に登らざりしことを惜しむ歌 ・ 上総の末の珠名娘子を詠む ・ 水江の浦島の子を詠む ・ 河内の大橋を独り去く娘子を見る歌 ・ 武蔵の小埼の沼の鴨を見て作る歌 ・ 那賀郡の曝井の歌 ・ 手綱の浜の歌 ・ 春三月、諸卿大夫等の難波に下りし時の歌 ・ 難波に経宿りて明日還り来し時の歌 ・ 検税使大伴卿の筑波山に登りし時の歌 ・ 霍公鳥を詠む ・ 筑波山に登る歌一首 ・ 筑波嶺に登りて嬥歌会をする日に作る歌 ・ 鹿島郡の刈野の橋にして大伴卿に別るる歌 ・ 勝鹿の真間娘子を詠む歌 ・ 菟原処女の墓を見る歌   ※[数字]は国歌大観による番号です。   【物部を名のる防人の歌】   畏きや 命被り 明日ゆりや 草がむた寝む 妹無しにして  [4321] (原文) 可之古伎夜 美許等加我布理 阿須由利也 加曳我牟多祢牟 伊牟奈之尓志弖 〈畏れ多いことに天皇の命令を受けて任地に行くので、明日からは萱といっしょに寝ることになるだろう…妻がいないので〉 遠江国長下郡の国造丁・物部秋持の作です。     わが妻も 絵に描きとらむ いつまもが 旅行くあれば 見つつ偲はむ  [4327] (原文) 和我都麻母 畫尓可伎等良無 伊豆麻母加 多妣由久阿礼波 美都々志努波牟 〈妻の姿を絵に描きうつす暇があったらよかったのに。そうしたら、旅出つ私はそれを見ながら妻をしのぶだろうに〉 遠江国長下郡の物部古麻呂の作です。     わが母の 袖持ち撫でて わが故に 泣きし