【所縁の史跡】飛鳥(奈良県)


■ 高松塚古墳 [地図]

奈良県高市郡明日香村平田の高松塚古墳です。

凝灰岩の切り石で作られた石室を持つ終末期古墳で、内部に壁画があったことで知られます。
人物像、四神図、星宿図など極彩色で描かれた壁画は、天平時代の諸例に先立ち日本絵画史の空白を埋めるものとして、美術史上、高い評価を得ています。

出土遺物として、熟年以上の年齢の男性人骨一体、金箔漆塗木棺と棺金具、副葬品の海獣葡萄鏡・大刀飾・ガラス玉を中心とする玉類、土師器・須恵器があります。

築造時期は、須恵器から七世紀の最末期以降であることが明らかになっています。

また、壁画の人物画像により、襟元が左前になっており、左襟禁止令の出た西暦719年以前であること、女子が褶(ひらみ:袴や裳の上につける衣服)をつけていて、その着用が許された702年以降であることがわかります。
大宝令が既に行われていた時期であり、被葬者の絞り込みにも有益です。

東壁男子群像には、蓋(きぬがさ)が描かれています。身分の高い人が外出するときに用いる日傘のような威儀具です。

壁画の蓋は深緑色で、四隅に総を垂れ、総は蓋の表と同色、頂と四隅が赤色なのは錦で覆っている表現と見られます。

儀制令によると、これは「大納言以上の議政官」で「位階は一位」の人物に用いられます。
702年から719年の間で、この条件に合致するのはひとりしかいません。
養老元(717)年に亡くなった、左大臣贈従一位、石上麻呂です。

麻呂が平城遷都後も、藤原京に留守官として残っていたことが、『続日本紀』にみえます。


■ 文武天皇陵 [地図]

高松塚古墳から南へ二〇〇メートルほどの位置にある、栗原塚穴古墳です。
宮内庁によって、西暦697年から707年まで在位した文武天皇の、「檜隈安古岡上陵」に治定されています。

文武天皇は天武天皇と持統天皇の孫にあたります。
二十五歳の若さで崩御しました。

文武陵には、北へ四〇〇メートルほどの中尾山古墳をあてる説が有力です。正八角形の墳丘に、精巧な加工技術と朱塗りが施された石槨をもつことが明らかにされています。

 栗原塚穴古墳のほうは、調査がされていないため内容が不明で、比較することができません。

『延喜式』によると、兆域は東西三町・南北三町で、塚穴古墳をとっても、中尾山古墳をとっても、高松塚古墳はこの墓域に接するか、かろうじて外に出るかという接近ぶりです。

石上麻呂は、持統天皇によって次代の文武天皇の治世を支えることを期待され、昇進を重ねました。
その期待に応え、文武朝の重臣として活躍します。
高松塚古墳の被葬者が麻呂だとしたら、死後も文武天皇に仕え続けているのかもしれません。


■ 天武・持統天皇陵 [地図]

明日香村野口の野口王墓古墳です。
七世紀後半に在位した、天武天皇と持統天皇の合葬陵として、檜隈大内陵に治定されています。
『阿不幾乃山陵記』の記述などと照らして、これが確実視されます。
形状は八角墳のようです。

持統紀元年十月二十二日条に、「皇太子、公卿・百寮人等あはせて諸の国司・国造および百姓男女を率て、始めて大内陵を築く」とあります。

持統天皇は天皇では初めて火葬されました。
その骨蔵器は盗掘により持ち去られたとも伝えられています。


■ 石舞台古墳 [地図]

明日香村島庄の石舞台古墳です。
一辺約五〇メートルの方墳で、七〇トンの巨石を用いた石室で有名です。
七世紀前葉の築造と見られています。

蘇我馬子が葬られた桃原墓とする見方が有力です。
六世紀後半の古墳をいくつか破壊して築造されていることも、馬子の人物像と重なるように思います。


■ 亀石 [地図]

明日香村川原にある亀石です。

七世紀のものと見られますが、何の目的で作られたのかは不明です。
ミステリアスかつユーモラスな姿で、人気のある石造物です。

重さ約40トンの花崗岩で出来ています。

↓お尻の部分です。

南東を向いている亀石が西を向いたとき、奈良盆地は洪水になる…という伝説もあるとか。


■ 亀形石造物 [地図]

明日香村岡にある酒船石遺跡。
飛鳥民俗資料館や県立万葉文化館の南側にあります。

丘の上の酒船石のほか、この亀形石造物で有名です。
水を溜めながら流せる構造になっており、なんらかの祭祀に使われていたのではないかと見る説があります。


■ 蘇我入鹿首塚 [地図]

明日香村飛鳥の飛鳥寺です。
物部大連家の滅亡を受け、蘇我氏によって創建された法興寺を継承する寺院です。
我が国初の本格的寺院といわれ、一塔三金堂式の伽藍を持っていたことが、調査でわかっています。

崇峻即位前紀に、強勢な物部軍を前に劣勢になった蘇我馬子が、「諸天と大神王の奉為に」寺塔を起こすことを誓願し、飛鳥の地に法興寺を建てることになったことがみえます。
その後、崇峻紀、推古紀に造営の進行の記事がみえ、推古四年十一月条に、「法興寺を造り竟りぬ」とされます。
馬子の子の善徳臣が寺司となって管理しました。

本尊の釈迦如来像は、鞍作鳥の手によるもので、飛鳥大仏の通称があります。

飛鳥寺西門の外にある、「入鹿首塚」です。
板蓋宮で討たれた蘇我入鹿の首が、ここまで飛んできたという伝説を持ちます。

中世の五輪塔で、位置からすると法興寺縁故のものと見るのが妥当でしょうが、実際に入鹿の首が埋められた場所かどうかは、かなり疑わしいようです。

後方が蘇我蝦夷・入鹿の邸宅があった甘樫丘です。


■ 水落遺跡 [地図]

飛鳥寺から北西に二〇〇メートルほどの場所にある、水落遺跡です。

柱の立て方に堅牢な技法が用いられています。
斉明紀の六年五月是月条に、「皇太子、初めて漏剋を造る。民をして時を知らしむ」とある、中大兄皇子が作らせた水時計の跡だと見られています。

二階建ての建物から、鐘を鳴らして飛鳥の人々へ時を知らせたのだろうと考えられています。

天璽瑞宝トップ所縁の史跡 > 飛鳥