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【所縁の史跡】 淡海国玉神社(静岡県)

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  ■ 淡海国玉神社  [地図] 静岡県磐田市見付に鎮座する、淡海国玉神社です。 明治八年に建てられた、国指定史跡・旧見付学校と隣り合っています。 『延喜式』神名帳の遠江国磐田郡に、「淡海国玉神社」があります。 式内社では、ほかに同郡の御祖神社、御子神神社、須波若御子神社が合祀されるといいます。 遠江国府もこの近くにあったとする見方が有力で、総社として崇敬されました。 主祭神は大国主命。 ほか、合祀された十五柱の神々を祀ります。 大国主命は、大国魂大神の別名を持ち、倭大国魂神と同一視されることもあるためか、淡海国玉神についてもこの神があてられたようです。 明治以降、『神名帳考證』、『神祇志料』など、祭神大国主神を疑い、遠江国の国魂神を祀るとする説がいくつかあります。 『特撰神名牒』も、「今按社伝祭神大国主命とあるは国玉神と云ふをひたむきに此神と思へるよりの誤なれば、祭神淡海国玉神として可ならん」とします。 また、太田亮氏は、 「遠淡海国の国造の祖印岐美は磐田郡入見より起つた人で、入見神社は此人を奉祀したものと思はれる事から、遠淡海国の彊域はこの入見を中心とする地方、即ち濱名湖東から素賀国に達する迄の広大な地域を含んで居たと考へるのである。 而して其の治所は入見と同郡なる式内淡海国玉神社の所在地であつたらうと思ふ。此社はその社名から遠淡海国の国魂の神を奉祀したもので、国造奉仕の神社であつたに違ひないからである」 として、『旧事本紀』にみえる物部氏族の遠淡海国造がこの神社を奉斎し、また国造の政庁も当地にあったと見ます。 『三代実録』貞観七年五月八日条に、「授(中略)遠江国正六位上淡海石井神従五位下」と見える、淡海石井神も、当社の神にあてられるようです。 祭神と因幡の素兎との縁か、狛犬ではなく兎が配されていました。 ■ 天御子神社  [地図] 静岡県磐田市見付の天御子神社です。府八幡宮から南東に200mほどの場所にある、淡海国玉神社の飛び地境内摂社です。 祭神は素戔嗚尊と櫛稲田姫命。祇園社だった時代の影響が残っているようです。 ほかには天穂日命や建比良鳥命を、社名の「天御子神」にあてる説がありますが、これは『古事記』に遠江国造の祖神とされていることと関係しているのでしょう

【所縁の史跡】入見神社(静岡県)

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  ■ 岩田神社  [地図] 静岡県磐田市勾坂中に鎮座する岩田神社です。 『延喜式』神名帳の遠江国磐田郡に見える、「入見神社」の論社のひとつといわれています。 祭神は大国主命。 相殿に武甕槌命・経津主命・天児屋根命・姫大神の春日神と、品陀和気尊の八幡神を祀ります。 宝亀二年に出雲大社からの勧請で創建されたと伝えます。 太田亮氏は『日本國誌資料叢書』のなかで、『旧事本紀』国造本紀に見える遠淡海国造の祖・印岐美命と、天孫本紀に遠江国造らの祖として見える物部印岐美連公について触れ、 「和名抄磐田郡に入見郷があり、又神名式も同地に入見神社を載せて居る。イリミとイキミと音が似て居るから、此人は此地名を負ふたのであつて神社は此人を奉祀したものと考へられる。」として、物部印岐美連を入見神社の祭神にあてます。 また、谷川健一氏も『白鳥伝説』の中で太田説を踏襲して、物部氏の遠江における展開を述べています。 境内の片すみに、式内社顕彰碑が立っていました。 境内社に淡島神社があります。祭神は少彦名命です。 和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社から正徳六年に勧請して、匂坂中村字宮之越に祀られていたのが、明治六年に現在地へ遷座したとのこと。 神社は磐田原台地の西縁に位置し、その西側には天竜川が流れる平野があります。 境内案内板によると、「入見」の社名は、往古の磐田原と三方原(引馬原)の中間に入り込んでいた柚子ヶ浦という「入海」に由来するとし、現社名は延喜五年に磐田原に鎮座することにちなんで改めたものといいます。 ■ 府八幡宮  [地図] 静岡県磐田市中泉に鎮座する府八幡宮です。 こちらも式内「入見神社」の論社とされています。 社地の一帯が「入見山」と通称されてきたことや、旧社家秋鹿朝成家文書に当社を「入見ノ神社 黒山ノ神」とする記述が見えることなどがその根拠といいます。 祭神は足仲彦尊、気長足姫尊、誉田別尊。 天平年間に桜井王(大原真人桜井)が遠江守として赴任してきたときに、国府の内に勧請したのが創祀といいます。府八幡の名称も、国司所祭の神社であることから称されるようになったようです。 同郡の式内御祖神社の論社でもあります。 県道58号線を挟んで西にあるのが遠江国分寺跡で、近くには国府台の地名も残りま

【所縁の史跡】陣座ヶ谷古墳(静岡県)

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■ 陣座ヶ谷古墳  [地図] 静岡県浜松市北区細江町中川の陣座ヶ谷古墳です。 前方部を西に向けた前方後円墳で、全長約五五m、後円部径約四二m、前方部幅約二〇mを測ります。 県の史跡に指定されています。 大正四年に一度発掘され、刀身と鏡一面が出土したといいます。また、円筒埴輪の破片も採集されているそうです。 主体部は石室等を持たない、粘土槨のような施設だったと推測されています。 五世紀後半に築造されたものと見られています。 『和名抄』によると、遠江国引佐郡には、渭伊郷、伊福郷、京田郷、刑部郷の四郷があったことが知られます。京田郷は現在も浜松市北区都田(みやこだ)町の地名が残りますが、「みやけた=屯倉田」が転訛したものとする説が有力です。『延喜式』神名帳には、「三宅神社」も見えます。 これにより、都田川に沿って、浜名湖にそそぐ河口近くに伊福部が、その東の平野部に刑部が、さらに上流の都田盆地には屯倉が置かれたことがわかります。 渭伊郷は刑部郷の北に位置し、都田川の支流の神宮寺川・井伊谷川が流れる井伊谷をその遺称地とします。ここには四世紀から五世紀前半にかけて、北岡大塚古墳や馬場平古墳などの有力な古墳が営まれ、井水祭祀を行って周辺に勢力を張る在地豪族の存在が推定されています。 井伊谷の古墳は五世紀後半を境に衰退し、この後、部民や屯倉の設置といったヤマト王権勢力の扶植が行われていくのです。 陣座ヶ谷古墳の登場は、浜名湖周辺地域のこのような勢力変動における画期を成します。被葬者には、親ヤマト王権的な性格を持って「井の国」の王を打倒した派遣将軍的な人物が想定できるかもしれません。 王権の藩屏的な要素を持つ首長の登場は、当地に国造が置かれた可能性を示唆するようです。陣座ヶ谷古墳の北東約二kmのところにある金指の地名は、欽明天皇の王宮(磯城島金刺宮)に舎人を出していたことを示すものでしょうか。 『旧事本紀』国造本紀は、成務朝に物部氏の祖・伊香色雄命の子である印岐美命を遠淡海国造に任じたとする伝承を記します。「遠江=浜名湖」説に拠るとき、当地の支配への物部氏の介入が考えられるでしょう。 墳丘の上からは、都田川の流れる沖積平野が一望できます。古代の刑部郷もこのあたり。 上の写真中央に見える、稲荷山の向こう側が井伊谷です。 前方