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【所縁の史跡】難波奥谷古墳(愛媛県)

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  ■ 難波奥谷古墳   [地図] 愛媛県松山市(旧北条市)庄の、難波奥の谷古墳です。国津比古命神社からは、北東に1kmほどの場所にあります。南東に開口する横穴式石室を主体部として持ちます。 現地案内板によると、石室の全長は12m、玄室の長さ6m、玄室の幅2.1m。 奥壁や天井に大型の石材が使われていました。墳形は不明ですが、円墳と推測されているようです。     ■ 鎌大師古墳   [地図] 松山市下難波甲の鎌大師古墳です。 大師堂の敷地内にあり、上写真のようにブロック塀ギリギリに石室が開口します。 十八人塚とも呼ばれるようで、南北朝時代に恵良山に拠った赤橋重時主従が、自刃して葬られたという伝説を持つらしいです。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 難波奥谷古墳

【所縁の史跡】布都神社(愛媛県)

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  ■ 布都神社   [地図] 愛媛県西条市石延に鎮座する布都神社です。道路沿いに小さな境内があります。 『延喜式』神名帳の伊予国桑村郡に「布都神社」が見え、『日本三代実録』天安二年十月二十二日には伊予国の正六位上布都神に、従五位下の神階を授けたことが見えます。 当地は『和名抄』に見える、桑村郡津宮郷の中にあり、津宮とは布都宮のことを指すとする説もあるようです。 祭神は、主神の布都主神のほか、武布都蛇麁正剣、武甕槌神、天照皇大神、神日本磐余彦命、倭武命、高倉下命を配祀します。 社伝には八神を祀るといい、境内の案内板によると、残る一柱は「秘密祭神」とのこと。 鎮座地の石延は石上が転訛したものかともいわれ、神社はかつて石上布都大明神、石上里大神と別称されたといいます。 大和国の石上神宮と同じ神を祀るためかと思いますが、当社の創祀にも物部氏族の関与を想定すべきでしょうか。 付近に「神田」「大門」の地名が残るため、もともとの鎮座地は、現在地より南に400~500mのところにあり、さらに北東900mほどのところに大門を持つ、壮大な神域を保有していたとの見解もあります。 中世には社殿を焼失したり、神領を没収されたりして衰微したと伝えます。慶長年間に小祠を再建し、享保二(1717)年に、松山藩主と郡内の寄進によって社殿が造営されたといいます。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 布都神社

【所縁の史跡】頓田川流域の古墳2-野々瀬古墳群(愛媛県)

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  ■ 野々瀬古墳群   [地図] 愛媛県今治市朝倉南の野々瀬古墳群です。 笠松山の北西の山麓と扇状地に分布します。 昭和三十三年の調査では46基を数えたといい、墳丘が残るものは現在さらに減ったようですが、かつては百基を越える数の古墳で一帯が埋めつくされていたといいます。 写真は1号墳です。 1号墳は七間塚古墳とも呼ばれます。県指定の史跡です。 現地案内板によると、直径18mの円墳で、石室の奥行は9mになるそうです。 同じく1号墳。玄室前の冠石や門柱も見事に残存してます。 古墳群の形成された時期は6世紀~7世紀。墳形はすべて円墳で、内部はほとんど横穴式石室のようです。 2号墳。 3号墳。 7号墳(奥)と8号墳(手前)です。 12号墳です。 五間塚、王塚とも呼ばれます。 平成元年の調査で、須恵器、鉄剣、装身具類が見つかっているそうです。 玄室の高さは2.6m。高いです。 五間塚の隣りにあった古墳。「陪塚古墳」との表示がされていました。 封土は無くなって、石室の基部のみ残ります。 13号墳。 石室はかなり埋まっていました。 → 次のページ 樹之本古墳・一本松古墳・牛神古墳 前へ 1 2 3 次へ 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   >  頓田川流域の古墳

【所縁の史跡】頓田川流域の古墳3-樹之本古墳ほか(愛媛県)

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■ 樹之本古墳   [地図] 愛媛県今治市下岡の樹之本古墳です。前方後円墳と見られたこともありましたが、近年の調査で直径約40mの円墳であるとされています。 築造は5世紀代。今治地域を代表する中期古墳といわれます。 勾玉、管玉、砥石、朝顔形・蓋形埴輪や、「長相思毋常忘楽未央」の銘が入った細線式獣帯鏡が出土しています。 ■ 一本松古墳   [地図] 今治市山口の一本松古墳です。根上り松古墳とも呼ばれます。径27mの円墳と見られています。 名称の由来になった松は、樹齢350年以上と推定される名木で、県の天然記念物にも指定されていましたが、昭和55年に枯死しました。 同年に発掘調査がされ、管玉、ガラス小玉、土器の破片のほか、径15cmの銅鏡(四面四獣鏡)が出土しました。 5世紀の築造と見られています。   ■ 牛神古墳   [地図] 今治市古谷の牛神古墳です。 直径13mの円墳で、ふたつの主体部を持っていました。上の写真 の横穴式石室は全長6m、玄室長4m、天井高2.5mの両袖式の石室。もうひとつの石室は、全長2mの竪穴式石室だったそうです。 6世紀後葉の築造と見られています。 封土は発掘の際に取り除かれ、復元されたものです。 須恵器など出土遺物や、発掘当時の写真は、併設の展示館で見ることができます。展示館といっても中に入ることのできない、外からショーケースを眺めるような感じのものですが… 石室は音声ガイダンスの説明付き、トイレも併設、駐車場あり、と至れり尽くせりです。 前へ 1 2 3   天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   >  頓田川流域の古墳

【所縁の史跡】頓田川流域の古墳1-多伎神社古墳群(愛媛県)

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愛媛県今治市の東南部に位置する頓田川流域は、国分寺・国分尼寺が置かれ、国府の存在も推定される、古代伊予国の中心地です。 下流域の唐子台には弥生時代末期から墳丘墓が築かれ、そのまま継続して古墳が造営されました。今日では宅地造成などで大半が姿を消しましたが、愛媛県下最大の古墳群といわれた唐子台古墳群です。雉之尾古墳、国分古墳、久保山古墳など古墳時代前期には大型の古墳が築かれています。 唐子台では5世紀末に群集墳が成立しますが、6世紀前半ころを最後に古墳の造営は終了します。 これと入れ代わるように、6世紀後半ころから盛期を迎えるのが、頓田川中流・上流域の古墳です。野々瀬古墳群、多伎神社古墳群、野田古墳群などが知られています。 当地の豪族が、その奥津城を移動させたものでしょうか。 1.多伎神社 2.多伎神社古墳群 3.祢宜屋敷古墳 4.野々瀬古墳群 5.樹之本古墳 6.一本松古墳 7.牛神古墳   ■ 多伎神社  [地図] 愛媛県今治市古谷に鎮座する多岐神社です。 『延喜式』神名帳の伊予国越智郡に、名神大社「多伎神社」があります。 祭神は、多伎都比売命、多伎都比古命、須佐之男命です。 「瀧神社」「滝の宮」とも呼ばれます。 『三代実録』には、伊予国の滝神に四度神階が授けられたことが見えます。貞観二年閏十月十七日に従五位上から従四位下、同八年に従四位上、同九年に正四位下、同十二年には正四位上に昇叙しました。 伊予国では、大三島神や伊曽乃神に次ぐ高い地位にあったことがわかります。 参道の案内板によると、当社の創祀は、往古奥の院の磐座の信仰に始まり、崇神朝に饒速日命六代の孫・伊香武雄命が瀧の宮の社号を奉り、初代の斎宮となったとしています。 高い神階や、名神大社であったことから、当地の最有力豪族の物部氏族・小市国造(越智直)との関係を考える説が多いようです。 鎮座地「古谷」は隣接する「新谷」に対応し、古谷で祭祀を行っていた越智氏の一族が政庁を新谷に移し、当社を祭祀の場として残したものと見たり、大山祇神社が海上の大三島にあるため、陸地部にあって祭政を掌る越智氏が、かわりに多伎神社を祀ったのではないか、などとするものです。 ↓境内末社の一宮神社。   ■ 多伎神社古墳群  [地図] 多伎神社の境内にある、多伎神社古墳群です。 多伎の宮