【所縁の史跡】頓田川流域の古墳1-多伎神社古墳群(愛媛県)

愛媛県今治市の東南部に位置する頓田川流域は、国分寺・国分尼寺が置かれ、国府の存在も推定される、古代伊予国の中心地です。
下流域の唐子台には弥生時代末期から墳丘墓が築かれ、そのまま継続して古墳が造営されました。今日では宅地造成などで大半が姿を消しましたが、愛媛県下最大の古墳群といわれた唐子台古墳群です。雉之尾古墳、国分古墳、久保山古墳など古墳時代前期には大型の古墳が築かれています。
唐子台では5世紀末に群集墳が成立しますが、6世紀前半ころを最後に古墳の造営は終了します。
これと入れ代わるように、6世紀後半ころから盛期を迎えるのが、頓田川中流・上流域の古墳です。野々瀬古墳群、多伎神社古墳群、野田古墳群などが知られています。
当地の豪族が、その奥津城を移動させたものでしょうか。

 

■ 多伎神社 [地図]

愛媛県今治市古谷に鎮座する多岐神社です。
『延喜式』神名帳の伊予国越智郡に、名神大社「多伎神社」があります。

祭神は、多伎都比売命、多伎都比古命、須佐之男命です。

「瀧神社」「滝の宮」とも呼ばれます。 『三代実録』には、伊予国の滝神に四度神階が授けられたことが見えます。貞観二年閏十月十七日に従五位上から従四位下、同八年に従四位上、同九年に正四位下、同十二年には正四位上に昇叙しました。 伊予国では、大三島神や伊曽乃神に次ぐ高い地位にあったことがわかります。

参道の案内板によると、当社の創祀は、往古奥の院の磐座の信仰に始まり、崇神朝に饒速日命六代の孫・伊香武雄命が瀧の宮の社号を奉り、初代の斎宮となったとしています。

高い神階や、名神大社であったことから、当地の最有力豪族の物部氏族・小市国造(越智直)との関係を考える説が多いようです。
鎮座地「古谷」は隣接する「新谷」に対応し、古谷で祭祀を行っていた越智氏の一族が政庁を新谷に移し、当社を祭祀の場として残したものと見たり、大山祇神社が海上の大三島にあるため、陸地部にあって祭政を掌る越智氏が、かわりに多伎神社を祀ったのではないか、などとするものです。

↓境内末社の一宮神社。


 

■ 多伎神社古墳群 [地図]

多伎神社の境内にある、多伎神社古墳群です。
多伎の宮古墳群ともいいます。

1号墳は本社の裏手にあります。
幅20cm強の石で作られた、積石塚かといわれます。

神社の右手に進むと、数基が見学しやすい形で並んでいます。古墳群全体では33基残っているそうです。

2号墳。

6世紀から7世紀にかけて築かれたものと見られています。

3号墳。

4号墳。

5号墳。

6号墳。
墳丘の上部の一部に崩れがあって、石室をのぞき見ることができます。

7号墳。
封土は流出してしまったようで、石室の基部が露出しています。


■ 禰宜屋敷古墳 [地図]

多伎神社の参道入り口付近にあります。禰宜屋敷古墳群は6基の古墳で形成されるそうで、写真は1号墳です。
無袖の横穴式石室の、片側の壁のみ残存しています。直径13m前後の墳丘を持っていたと推定されています。

名称は、多伎神社の禰宜さんのお屋敷が、昔はこの近くにあったからとか。

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