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【所縁の史跡】日前神宮・国懸神宮(和歌山県)

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  ■ 日前神宮・国懸神宮   [地図] 和歌山県和歌山市秋月に鎮座する、日前 (ひのくま) 神宮・国懸 (くにかかす) 神宮です。日前宮の通称でも知られます。 『延喜式』神名帳の紀伊国名草郡に、「日前神社」「国懸神社」がみえます。 紀伊国造家によって祀られてきた古社。ともに名神大社です。 朝庭から奉幣はあっても神階叙位は無く、名草郡が神郡(租税を神社の修造など運営に充てる郡)とされるなど、特別な待遇を受けていました。 西側(左側)に位置する日前神宮。 日像鏡を霊代とした日前大神を祭神とします。 『日本書紀』神代上第七段第一の一書に、石窟へ籠もった天照大神を招き出すため、「彼の神の象を図し造」ったのが、天香山から採った金属を材料として石凝姥が作った「日矛」と、「真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽韛に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり」とされます。 また、『古語拾遺』では、「石凝姥神をして日の像の鏡を鋳らしむ。初度に鋳たるは少に意に合はず。[是、紀伊国の日前神なり] 次度に鋳たるは、其の状美麗し。[是、伊勢大神なり]」といいます。 両神宮は同一境内ながら各個独立の神社で、一方がもう一方の摂末社というわけではありません。ただし社務所や神楽殿はひとつです。 『文徳実録』嘉祥三年十月二十日条には「日前国懸大神社」、『三代実録』貞観元年七月十四日条には「日前国懸両社」の表現がみえます。 早くから並祀され、深い関係にあったことがわかります。 東側(右側)に位置する国懸神宮。 日矛鏡を霊代とした国懸大神を祭神とします。 天武紀朱鳥元年七月五日条に、天皇の病に際して幣帛を飛鳥四社・住吉大神と並んで奉られた「紀伊国に居す国懸神」がみえ、これが史上の初出です。 摂社の天道根命神社。 紀伊国造を輩出した紀直氏の祖、天道根命を祀ります。 『旧事本紀』国造本紀の紀伊国造条に、「橿原朝の御世に、神皇産霊命の五世の孫、天道根命を国造に定め賜ふ」とあって、神武朝に任じられた初代の紀伊国造とされます。 紀直氏は紀伊の在地豪族であるばかりでなく、大和王権の外交分野でも活躍したと見られる氏です。 神功皇后の三韓征伐に従軍し、異常気象の原因を言い当てた老父を配下に持つ豊耳命(第九代国造)、敏達朝に日羅を

【所縁の史跡】神倉神社(和歌山県)

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  ■ 神倉神社   [地図] 和歌山県新宮市新宮に鎮座の神倉神社です。 熊野速玉大社の境外摂社です。 社務所は新宮市神倉一丁目にあります。 権現山の峰のひとつに神倉山があり、その頂上に「ゴトビキ岩」と呼ばれる岩を神体としています。 熊野権現降臨の地とされる磐座信仰の神社です。 岩は市街地からも確認でき、一説には、熊野市にある花の窟とともに、熊野灘を航行する船の目印にもなっていたともいわれます。 神武即位前紀戊午年六月条に、名草邑を経て南下してきた神武東征の一行について、「遂に狭野を越えて、熊野の神邑に到り、すなはち天磐盾に登る」という記述がみえます。 狭野はJR紀伊佐野駅のある新宮市佐野一帯で、万葉集(三265)の長忌寸奥麻呂の歌にも「神(みわ)の崎狭野の渡り」と詠まれています。 そして「天の磐盾」に比定されるのが、ここ神倉山です。 明治四十年に速玉大社へ合祀されたものの、大正七年には社殿を建てて復興されています。 昭和三十年の改築の際には、袈裟襷文銅鐸の破片が出土し、弥生時代後期にはなんらかの祭祀が行われていたと見られるようになりました。 二月に行われる御燈祭は、上り子が松明をかざして石段を駆け下りる勇壮な火祭りとして知られます。 また、紀伊国牟婁郡は熊野国造の本拠地ですが、国造本紀はこの国造を物部氏の同族としています。 熊野国造を輩出した熊野氏からは、釆女から女官として活躍し、従四位下まで昇った熊野直広浜も出ています。孝謙(称徳)女帝の側近に仕えた人物でしょうか。 新宮市街や熊野灘がよく望めます。 写真は熊野川河口方面。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 神倉神社

【所縁の史跡】須佐神社(和歌山県)

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  ■ 須佐神社   [地図] 和歌山県有田市千田に鎮座する、須佐神社です。 『延喜式』神名帳の紀伊国在田郡に、「須佐神社」があります。 『和名抄』には紀伊国在田郡に須佐郷がみえ、社名はこの地名によったもののようです。 祭神は素盞嗚尊。 社伝や『紀伊続風土記』には、和銅六(713)年十月初亥日に大和国吉野郡の西川峯から勧請され、当初は中雄山の頂上に奉斎したが、西に面し海に向かっているため海上往来の船が恭謹しないと難破したので、元明天皇の勅命により、現在地で南面して奉斎するようになったといいます。 『三代実録』貞観元年正月二十七日条に、紀伊国の須佐神が従五位下から従五位上の神階に昇ったことがみえます。 また、紀伊国内神名帳には、「従一位須佐大神」がみえています。 神社の北東200m程のところには岡崎古墳群があり、古墳時代後期に繁栄した土地だったことがわかります。 神紋は「桃」のようです。 『旧事本紀』天孫本紀の物部氏系譜に、物部真椋連公の後裔として、須佐連氏がみえます。 ここ須佐郷の豪族だった可能性があるかもしれません。 参道の階段を登っていく途中に、本居宣長の歌を刻んだ碑があります。 寛永六年十一月、宣長が須佐神社へ参拝したときの歌。 「いたけるの 神のしきます 紀の国と いはふかぶろの 神の宮これ」 素盞嗚尊と五十猛命の親子神についての歌です。 伊太祁曽神社遥拝所。 左が南龍社(祭神:徳川頼宣公)、右は湊川社(祭神:楠正成公)。 他にも末社が多数ありました。 神門脇の百度石は昭和二年に寄進されたものだそうです。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 須佐神社