投稿

ラベル(饒速日)が付いた投稿を表示しています

【先代旧事本紀】巻第三・天神本紀 - 現代語訳

天璽瑞宝トップ   >  先代旧事本紀   >  現代語訳   > 巻第三・天神本紀 正哉吾勝勝速日天押穂耳尊 《 まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと 》 。 天照太神 《 あまてらすおおみかみ 》 が仰せになった。 「豊葦原の 千秋長五百秋長 《 ちあきながいほあきなが 》 の 瑞穂 《 みずほ 》 の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊の治めるべき国である」 と仰せになり命じられて、天からお降しになった。 ときに、 高皇産霊尊 《 たかみむすひのみこと 》 の子の 思兼神 《 おもいかねのかみ 》 の妹・ 万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命 《 よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと 》 を妃として、 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 《 あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと 》 をお生みになった。 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。 「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」 そこで、天照太神は、これを許された。 天神の御祖神は、詔して、天孫の 璽 《 しるし 》 である瑞宝十種を授けた。 瀛都鏡 《 おきつかがみ 》 、一つ 辺都鏡 《 へつかがみ 》 、一つ 八握 《 やつか 》 の剣、一つ 生玉 《 いくたま 》 、一つ 死反 《 まかるかえし 》 の玉、一つ 足玉 《 たるたま 》 、一つ 道反 《 ちかえし 》 の玉、一つ 蛇の 比礼 《 ひれ 》 、一つ 蜂の比礼、一つ 品物 《 くさぐさのもの 》 の比礼、一つ というのがこれである。 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。 「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」 これが“ 布留 《 ふる 》 の 言 《 こと 》 ”の起源である。 高皇産霊尊が仰せになった。 「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」 そして、三十二人に命じて、みな防御の人

【先代旧事本紀】巻第五・天孫本紀 - 現代語訳

天璽瑞宝トップ   >  先代旧事本紀   >  現代語訳   > 巻第五・天孫本紀 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 《 あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと 》 。 またの名を天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命という。またの名を 胆杵磯丹杵穂命 《 いきいそにきほのみこと 》 。 天照孁貴 《 あまてらすひるめむち 》 の太子・ 正哉吾勝々速日天押穂耳尊 《 まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと 》 は、 高皇産霊尊 《 たかみむすひのみこと 》 の娘の 万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命 《 よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと 》 を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊をお生みになった。 天照太神と高皇産霊尊の、両方のご子孫としてお生まれになった。そのため、天孫といい、また皇孫という。 天神の御祖神は、 天璽瑞宝 《 あまつしるしのみずたから 》 十種を饒速日尊にお授けになった。 そうしてこの尊は、天神の御祖先神のご命令で、天の磐船に乗り、河内国の川上の 哮峰 《 いかるがのみね 》 に天降った。さらに、 大倭 《 やまと 》 国の 鳥見 《 とみ 》 の白庭山へ遷った。 天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。 いわゆる、天の磐船に乗り、 大虚空 《 おおぞら 》 をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られ、“ 虚空 《 そら 》 見つ 日本 《 やまと 》 の国”といわれるのは、このことである。 饒速日尊は 長髓彦 《 ながすねひこ 》 の妹の 御炊屋姫 《 みかしきやひめ 》 を娶り妃として、 宇摩志麻治命 《 うましまちのみこと 》 をお生みになった。 これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。 「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば 味間見命 《 うましまみのみこと 》 と名づけなさい。もし女子であれば 色麻弥命 《 しこまみのみこと 》 と名づけなさい」 産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が 速飄神 《 はやかぜのかみ 》 にご命令して仰せられた。 「我が御

【関連資料】『住吉大社神代記』膽駒神南備山本記

膽駒 (いこま) 神南備山 (かむなびやま) の本記 四至 [東を限る、膽駒川 (いこまかは) ・龍田の公田。南を限る、賀志支利坂 (かしきりさか) ・山門川 (やまとかは) ・白木坂・江比須墓 (えひすのはか) 。西を限る、母木里 (おものきのさと) の公田・鳥坂 (とりさか) に至る。北を限る、饒速日山 (にぎはやひやま) 。] 右、山の本記は、昔、大神の本誓 (みうけひ) に依り、寄さし奉る所、巻向の玉木宮 (たまきのみや) に御宇 (あまのしたしろしめ) しし天皇・橿日宮 (かしひのみや) に御宇しし天皇なり。 熊襲国・新羅国・辛嶋 (からしま) を服はしめ賜ひ、長柄泊 (ながらのとまり) より膽駒嶺 (いこまのみね) に登り賜ひて宣り賜はく、「我が山の木の実・土毛土産 (くにつもの) 等をもて斎祀 (いつきまつ) らば、天皇が天の下を平らけく守り奉つらむ。若し荒振 (あらぶ) る梟者あらば、刃に血ぬらずして挙足誅 (けころし) てむ」と宣り賜ふ。 大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは、船木の遠祖、大田田神 (おほたたのかみ) なり。此の神の造作 (つく) れる船二艘[一艘は木作り、一艘は石作り。]を以て、後代の験 (しるし) の為に、膽駒山の長屋墓 (ながやのはか) に石船、白木坂の三枝墓 (さきくさのはか) に木船を納め置く。 唐国に大神の通ひ渡り賜ふ時、乎理波足尼命 (をりはのすくねのみこと) 、この山の坂木を以て、迹驚岡 (とどろきのをか) の神を岡に降し坐して斎祀る。時に恩智神 (おむちのかみ) 、参り坐在す。かれ、毎年の春秋に墨江 (すみのえ) に通ひ参ります。之に因り、猿の往来絶えざるは、此れ其の験なり。 [母木里と高安国との堺に諍石 (いさめのいし) 在置 (あ) り。大神、此の山に久く誓ひ賜ひて、「草焼く火あり、木は朽ちるとも、石は久遠 (とは) に期 (ちぎ) らむ。」とのたまひき。]     『住吉大社神代記』は、摂津国住吉郡の住吉大社の鎮座縁起や神宝・神領などについて記された文献です。天平三年七月に神祇官へ提出された解文で、編纂者は津守宿祢嶋麻呂、津守宿祢客人とされます。成立年代については、坂本太郎氏の元慶三年以降の造作と見る説や、それを批判する田中卓氏の天平三年原撰・延暦初年書写説があります。 その一部分であ

【所縁の史跡】石切剣箭神社と神並5号墳・6号墳-1/2(大阪府)

イメージ
  ■ 石切剣箭神社 本社(下之社)  [地図] 大阪府東大阪市東石切町1丁目に鎮座する、石切剣箭神社です。 『延喜式』神名帳の河内国河内郡に「石切剣箭命神社」がみえます。 楼門(絵馬堂)の屋根には、社号にちなむ「剣」と「箭」のモニュメントが乗っています。 他の神社では門の左右に随身(随神)を配することがありますが、ここでは祭神の像がみられます。 左が弓箭(天の羽羽弓・羽羽矢)を持つ饒速日尊、右が剣(布都御魂剣)を持つ可美真手命のようです。 「石切剣箭命」という神は『延喜式』以外にはみられませんが、石をも切りつらぬく剣と箭の神と解釈すれば、物部氏に所縁とされる神社にふさわしいといえそうです。 物部氏は配下に武器製造の技術集団を従え、布都御魂の剣神信仰を持っていました。 石切剣箭命も、フツ神もしくは祖神である饒速日尊と同一視されることがあったのでしょう。 神武天皇の治世二年、可美真手命が亡父・饒速日尊を生駒山腹の宮山に祀ったことを創祀と称します。 崇神朝には可美真手命が、ここ下之社に祀られたといいます。 『旧事本紀』天神本紀によれば、饒速日尊は「河内国河上の哮峯」に天降ったとされます。 哮峯の具体的な位置に定説はありませんが、河内国で峯といえばまず生駒山系が挙げられるのは間違いなく、その生駒山を背後に望む石切剣箭神社を物部氏関係の神社にあてるのは、妥当なところでしょうか。 腫れ物や癌に効験あらたかな神社として全国的な崇敬を受けます。 社号から連想されるような、良くない部分をスッパリ切り祓ってくれるイメージとともに、祭神饒速日尊が『旧事本紀』において死者をも蘇らせる力を天神御祖から与えられたとされることと関係しているようです。 ↓境内の神武社。 祭神は神倭磐余彦尊(神武天皇)です。 神武天皇が武運を占った際の蹴り上げ石を、霊代として祀っているそうです。 ↓穂積神霊社。 明治四十五年に焼失し穂積堂に祀られていた神霊を神社として再興したもののようです。 社家の木積氏は、『古事記』『日本書紀』『姓氏録』などに饒速日命・可美真手命の後裔としてみえる物部氏族穂積臣の末裔を称します。 ■ 石切剣箭神社 上之社  [地図] 東大阪市上石切町2丁目の石切上之社(上之宮)です。 独特な雰囲気