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【所縁の史跡】石船神社(茨城県)

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  ■ 石船神社  [地図] 茨城県東茨城郡城里町岩船に鎮座します。 『延喜式』神名帳の常陸国那賀郡に、「石船神社」があります。 貞観元(859)年の創祀と称します。 祭神は鳥石楠船命。またの名は天鳥船命です。 『古事記』の出雲国譲神話で、建御雷神とともに葦原中国へ遣わされたとされる神です。神の乗る船を神格化したものともいわれます。 社殿の前から参道に沿って、小川が流れます。 参道の途中にあるのが、下写真の「矢の根石」です。源義家にちなんだ伝説があるのだとか。 灯籠も、大石の上に立てられていました。 拝殿の中にはすごく大きな鏡と剣がありました。 本殿は無く、垣で囲ったなかに岩が祀られています。 幅2m以上はあろうかという大岩です。 拝殿の脇、川のせせらぎに面して、舟形の岩もあります。 東へ1kmほどのところには、6世紀~7世紀ころに営まれた毘沙門塚古墳群があって、早くから開けた地域だったことがわかります。 参考:谷川健一『白鳥伝説』 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 石船神社

【所縁の史跡】梵天山古墳群(茨城県)

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■ 梵天山古墳群  [地図] 稲村神社からは2kmほど南、茨城県常陸太田市島町の台地上に位置する梵天山古墳群です。 主墳の梵天山古墳は唯一の前方後円墳で、お寺の裏手にあります。赤い鳥居が目印になりました。 全長151m、後円部径約90m、前方部幅57m。 ↑後円部の上から前方部を見たところ。 ↑前方部の上から後円部方向を見たところ。 古くから、久自(久慈)国造の墓とする伝承があったそうです。 前後両丘の高低差は5mあり、後円部径より前方部幅が30m以上狭く、比較的前方部が未発達なことがわかります。 築造は5世紀前半と見られています。 久自国造について、『旧事本紀』国造本紀は「志賀高穴穂朝の御代に、物部連の祖伊香色男命の三世の孫、船瀬足尼を国造に定め賜ふ」として、物部氏の一族がその地位にあったとします。 全体が杉の木立で覆われ、森厳な雰囲気がただよう姿は、久慈川流域を治めた首長の墳墓に相応しいおもむきです。 後円部の上には祠が並んでいます。 梵天山古墳のほかに、十三の円墳が存在します。 下写真は阿弥陀塚古墳(梵天山二号墳)。 横穴墓群もあり、「島の百穴」と呼ばれています。 この横穴墓は、7世紀に造られたものと見られています。 現在60数基が確認されているそうです。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 梵天山古墳群

【所縁の史跡】沼田八幡塚古墳(茨城県)

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■ 八幡塚古墳  [地図] 茨城県つくば市沼田の、茨城県指定史跡・八幡塚古墳です。 間近に筑波山を見上げる位置にあります。 墳丘全長は約90m、後円部径は約58m、前方部先端幅は約35mといいます。 後円部の上には、小さな八幡神社が鎮座します。古墳の名称はこれに由来するようです。 被葬者に、『旧事本紀』国造本紀に見える筑波国造「阿閉色命」をあてる説があるそうです。 阿閉色命らの出自は明らかではありませんが、『常陸国風土記』は、筑波国造について、采女臣同族の「筑簟命」が崇神朝に遣わされたと記します。 築造時期は、出土した埴輪や墳丘の形状から、六世紀前半ころと見られています。とりあえず成務朝の人物が被葬者ということはなさそうです。 国造制のはじまりを六世紀とする現代の見方からすると、かえって初代国造にふさわしいような気もしてきますね。 前方部は遺存状況が悪かったので、昭和53年に復元されています。 墳丘の東側には、周堀のなごりと見られる池があります。 ここから人物埴輪が出土しています。 八幡塚の50mほど西側に円墳があります。 横穴式石室が開口しています。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 沼田八幡塚古墳

【所縁の史跡】稲村神社(茨城県)

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  ■ 稲村神社  [地図] 茨城県常陸太田市天神林町に鎮座する、稲村神社です。 『延喜式』神名帳の常陸国久慈郡に「稲村神社」があります。 このあたりが中世の豪族で戦国大名としても名高い佐竹氏発祥の地といわれています。近くに馬坂城や佐竹寺があります。 佐竹の地名は、『旧事本紀』天神本紀にある狭竹物部に関係するという見方もあります。 祭神は、久自(久慈)国造の祖神の饒速日命です。 『旧事本紀』国造本紀に、成務朝に久自国造となった船瀬足尼は、物部氏の祖・伊香色雄命の三世孫とされます。 神明造の、美しい本殿です。 境内にはたくさんの摂社末社がありました。 下写真は御岩神社。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 稲村神社

【所縁の史跡】信太の流れ海と阿弥神社・楯縫神社(茨城県)

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 美浦村大須賀津から、対岸を望んで▲ 霞ヶ浦は、古い時代には沿岸の地名を取って、「榎浦の流れ海」「佐我の流れ海」そして「信太の流れ海」などと呼ばれていました。 信太郡は、孝徳天皇の白雉四年(653年)に、物部河内・物部会津らの請いによって、筑波郡・茨城郡から七百戸を割いて設置された、と『常陸国風土記』はいいます。 また、『続日本紀』の養老七年三月には、物部国依が「信太連」を賜姓したことがあり、物部氏同族が信太の地名を負う有力な豪族だったことがわかります。 信太郡は、常陸国の南部、霞ヶ浦南岸沿いの地域に位置し、常陸の入り口をおさえるところにあります。 交通の要衝であり、軍事的にも重要な拠点だったと考えられます。 美浦村信太に鎮座の楯縫神社。 信太郡衙は、この近辺に置かれたと見られています。   ■ 阿弥神社  [地図] 茨城県稲敷郡阿見町竹来に鎮座する、阿弥神社です。 『延喜式』神名帳の常陸国信太郡に、「阿弥神社」がみえます。 鎮座地名の竹来は、もと高来といいました。 『常陸国風土記』に、天地のつくりはじめ、草木がものを言うことができたころ、天から降臨した普都(フツ)の大神は、葦原中国を巡り歩き、荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげました。 すっかり平定が終わったとき、天に帰ろうと思って、身に着けていた武器や玉類をすべてこの地に脱ぎすて留めて、白い雲に乗って昇天した、という話があります。 その地が高来の里です。 主祭神は武甕槌命です。 創建は推古朝を称します。 ちょうど地域のかたがたが、境内の清掃をされているところでした。 境内の樹叢は、町指定の天然記念物です。   ■ 楯縫神社  [地図] 茨城県稲敷郡美浦村郷中に鎮座する、楯縫神社です。 『延喜式』神名帳の常陸国信太郡に、「楯縫神社」がみえます。 境内一帯は、県の環境保全地域でもあります。 祭神は普津主(フツヌシ)命です。 この神が葦原中国を平定しおわったとき、武装をここで解いたことから、楯脱ぎ→楯縫の名が生まれたといいます。 創建は推古天皇の十六年と称します。 ■ 愛宕山古墳  [地図] 美浦村木原。楯縫神社から北西に700mほどに位置する愛宕山古墳です。 木原台古墳群(白旗古墳群)の盟主墳とされ、木原台6号墳とも呼ば