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【所縁の史跡】高売布神社(兵庫県)

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  ■ 高売布神社  [地図] 兵庫県三田市酒井の高売布 (たかめふ) 神社です。 羽束川の右岸に、大船山と向かい合うような位置に鎮座します。 『延喜式』神明帳の摂津国河辺郡に「高売布神社」がみえます。 中世に当地一帯に荘園を持った多田源氏により高平地域の惣社とされ、天永二(1111)年には源満仲が境内に槻木五十株を植えたと伝えられるといいます。 社前の案内板によると、拝殿上の京都宝殿寺門跡尼より寄進された社号額には「正一位荷月大明神」と書かれており崇敬を集めていたが、江戸時代中期に至って並川誠所により、式内高売布神社に比定されたといいます。 鳥居横に、誠所の建てた「高賣布社」と刻まれた社号標があります。 永正十年の棟札が残る本殿、および木造狛犬が、国の重要文化財に指定されています。 例祭に行われる特殊神事の千本搗きは、市指定の文化財だそうです。 祭神は、下照比売命、天稚比古命。 下照比売命(下照姫)は、大己貴神の子神で、『古事記』によると高比売命、『日本書紀』では高姫の別名を持ちます。 社号の「高売布」は、「たかひめ」と訓まれることがあるため、この比定がされたのでしょう。 天稚彦命は、下照姫命の夫神です。 ほかに、周辺集落から合祀した、応神天皇、闇山祇神、国玉姫命、菅原道真、大年神、市杵島姫命を祀るようです。 祭神には、大咩布命 (おおめふのみこと) をあてる説があります。 『旧事本紀』天孫本紀や『高橋氏文』に若湯坐連、『姓氏録』山城国神別に真髪部造・今木連、同和泉国神別には志貴県主の祖とされる人物です。 『特選神名牒』は、社伝に高売布命を祀ると称えられ、大も高もともに美称で同義であるから、これは大咩布命を指すのだということを根拠にしています。 境内社には、戎神社と稲荷神社があります。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 高売布神社

【所縁の史跡】 多太神社(兵庫県)

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  ■ 多太神社  [地図] 兵庫県川西市平野に鎮座する、多太神社です。 『延喜式』神名帳の摂津国河辺郡に、「多太神社」がみえます。 創建年次は不明。 鎮座地名の「平野」により、平野明神の通称が江戸期以前から存在していました。 多田源氏の祖、源満仲が京都の平野神社から勧請したとも伝えられるそうです。 満仲の時代が延喜式よりも後なのは明らかなので、近世の式内社比定以前にさかのぼる伝えでしょうか。 当地は、『和名抄』にみえる河辺郡大神郷に含まれていたと考えられています。 『姓氏録』摂津国神別には大神朝臣氏の同族である神人氏がみえ、 「大国主命の五世孫、大田々根子命の後なり」 とされています。 社伝には、大 田々 根子命の子孫である神人氏が祖先を祀ったといい、これにより「多太」の社号が称せられるようになったといいます。 実際には、地名が社号になったと思われます。 祭神は、日本武尊、大鷦鷯尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊。 現在は、大神氏とも平野神社とも、あまり関係のない神様が祀られているようですね。 一間社春日造の本殿は、元禄六(1693)年に造営されたもの。覆屋のなかにあります。 拝殿は欄のついた濡れ縁がめぐっており、上品な印象を受けます。 多田院(今の多田神社)の艮に位置することから、多田源氏守護の神として崇敬されてきたといいます。 『姓氏録』摂津国神別には、田々内臣 (たたうちのおみ) 氏もみえ、若湯坐宿祢氏と同じく、 「石上朝臣と同じき祖。神饒速日命の六世孫伊香我色雄命の後なり」 とあります。 この物部氏族田々内臣も、当地多田の豪族でしょうか。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 多太神社

【所縁の史跡】阿比太神社(大阪府)

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  ■ 阿比太神社  [地図] 大阪府箕面市桜ケ丘一丁目に鎮座する、阿比太神社です。 『延喜式』神名帳の摂津国豊嶋郡に、「阿比太神社」がみえます。 祭神は、素盞鳴尊です。 江戸期には牛頭天王社とされており、式内社に比定された後も、その影響が残ったようです。 『摂津名所図会』も、桜村鎮座の牛頭天王をあて、桜村と稲村・半町村の生土神であったとしています。 また、当初から素盞鳴尊を祀っていたため、牛頭天王の名で称されるようになり、本来の社号が廃れていた時期もあったとの解釈も存在するようです。 『続日本後紀』嘉祥三年正月二十二日条に、摂津国豊嶋郡の阿比太神が従五位下の神階に叙されたとの記事があります。 社号の「阿比太」について定説はありませんが、『姓氏録』左京神別の大貞連条に、 「速日命の十五世孫、弥加利大連の後なり。上宮太子、摂政の年に、大椋官に任けられぬ。時に家の辺に大俣の楊の樹あり。太子、巻向宮に巡行せる時に、親ら樹を指して問ひたまひて、すなわち阿比太連に詔して、大俣連を賜ひき」 とみえ、この聖徳太子の時代の人物、阿比太連に関連づける説があります。 『姓氏録』にみえる「弥加利大連」は、『旧事本紀』天孫本紀には物部尾輿大連の長子、物部大市御狩連公として現れます。阿比太連は、その子か孫でしょうか。 阿比 大 連を正しいと考え、誤記とする場合もあるようですが、欽明紀には「斯那奴(科野・信濃)阿比多」もみえることから、人名として不自然ではないようです。 志賀剛氏は『式内社の研究』のなかで、阿比太は阿湯田であり、清泉にうるおされる湧水の田であるとします。 社伝には、応神天皇二年の創建と称されるようです。 平尾の東南部の小丘・阿比太の森が旧社地であるともいいます。 現在の社地は、野球のホームベースみたいな形をしています。 下写真は境内末社の大杉稲荷社です。 京都伏見稲荷大社の大杉社からの分霊だそうです。 桜ケ丘三丁目、神社から南西四〇〇mほどのところに、中尾塚古墳があります。 住宅地の民家の敷地内に、道路に面して石室材の一部分が残されています。両袖式の横穴式石室で、古墳時代後期のものです。 大半が消滅したものの、かつては群を成して一帯に古墳が存在していました。 阿比太神

【所縁の史跡】野間神社(大阪府)

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  ■ 野間神社  [地図] 大阪府豊能郡能勢町地黄に鎮座する、野間神社です。 『延喜式』神名帳の摂津国能勢郡に、「野間神社」がみえます。 野間は、保延六年の今富名坪付案(壬部文書、平安遺文2440)に「野間村」が確認できる、古代からの地名です。 元文元(1736)年、『日本輿地通志畿内部(五畿内志)』の編纂者として知られる並河誠所によって、「野間社」の社号標が建てられました。 この神社を式内社にあてるのは、明治以降も定説となっています。 『旧事本紀』天孫本紀の、宇摩志麻治命の十三世孫と十四世孫に、物部金連公という人物がみえ、その後裔として野間連がみえます。 当地を本拠にした氏である可能性が指摘でき、祭神の比定にも影響を与えています。 推古天皇の治世十三(605)年、勅命により、大和の石上神宮から、布留道(野間神社の東から山中を通る布留林道)を通って奉遷したのが創建と伝えます。 天喜二(1054)年をその時期にあてる説もあるようです。 主祭神は、饒速日命。 「布留大明神」とも称され、拝殿にもその額がかかっていました。 御霊代(神体)は、饒速日命が首にかけていた勾玉とされます。 毎年十二月の神事「御召し替え」では、この玉の包み替えが行われるといいます。 また、宇賀御魂神、菅原道真公、草野姫命、野見宿祢を配祀します。 野見宿祢は、雄略紀の十七年三月条にある土師連の祖・吾笥が摂津国の来狭狭村などから民部を割いて贄土師部として朝廷に奉ったという記述により、土師氏の祖として祭祀されたと考えられるそうです。 来狭狭村と関係するらしい式内久佐々神社は、ここから北西に5kmほどのところにあります。 鎮座地名の「地黄」について、社伝には薬草の地黄草にちなむものといい、石上神宮から分霊を運んだ人々によって薬草も持ち込まれたといいます。 承和年間より、当地は朝廷典薬寮領の地黄御薗として、薬草の貢献が行われました。 境内社には、住吉神社、弁天神社、稲荷神社などがあります。 ほか、明治四十年に近隣の神社が多数合祀されています。 神社の南方には、野間中古墳群があります。 古墳時代後期に築かれたものです。 出土の銅鈴は、能勢町指定の文化財であり、神宝として野間神社の所有になっています。 忠

【所縁の史跡】売布神社(兵庫県)

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  ■ 売布神社  [地図] 兵庫県宝塚市売布山手町に鎮座する、売布神社です。 阪急宝塚線に売布神社駅があり、約300mの近さにあります。 『延喜式』神名帳の摂津国河辺郡に、「売布神社」がみえます。 当地は旧米谷 (まいたに) 村。 売布谷 (めふたに) が訛って生じた地名と考えられています。 近世まで貴船神社(貴布祢大明神)と称されていましたが、式内売布神社にあてられ現在に至ります。 『式内社調査報告』は、武庫川との地理的関わりを、貴船社として信仰された要因に見ています。 社伝には、推古天皇十八(610)年の創建とされるようです。 祭神は、高比売神(下照姫神)、天稚彦神。 出雲国譲神話に登場する、大国主神の娘と、高天原からの使者として天降ったその夫神です。 祭神については、大咩布命 (おおめふのみこと) をあてる説も有力でした。伴信友『神名帳考證』や、『宝塚市史』などがこの立場にあります。 大咩布命は、『旧事本紀』天孫本紀に宇摩志麻治命の七世孫、十市根命らの末弟としてみえ、若湯坐連などの祖とされます。 『高橋氏文』には、物部意富売布連 (もののべのおおめふのむらじ) の表記で景行天皇の側近として現れ、やはり若湯坐連らの始祖であるといいます。 ほか、『姓氏録』和泉国神別の志貴県主条に大売布、山城国神別の真髪部造に大売大布乃命がみえます。 『姓氏録』には、摂津国神別に物部氏族の若湯坐連氏もみえます。 『三代実録』貞観五年八月八日条に、摂津国河辺郡の若湯坐連宮足・若湯坐連仁高ら三人の本居を右京へ改めたという記述があるのは、この物部氏同族に関係するのでしょう。 社号と若湯坐氏の祖の名が一致することを、偶然で片づけるわけにはいかないようです。 ただし、「めふ」を社号に含む式内社は、全国に七社あります。 藤原茂樹氏は、「賣布神考」のなかでこれらの神社の立地に注目し、「めふ」を水辺の土地を指す語と推測しています。 水辺に鎮まる女神が本来の祭神であり、大咩布命はその奉斎者と見るのですが、すべての売布(売夫)神社に若湯坐氏の関与が指摘できない以上、有益な考察だと思います。 拝殿の前に、「賣布社」の社号標があります。 江戸時代中期の元文元(1736)年に、並河誠所が式内社比定を