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【所縁の史跡】楯縫神社(兵庫県養父市・豊岡市)

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  ■ 楯縫神社   [地図] 兵庫県養父市建屋に鎮座する楯縫神社です。 『延喜式』神名帳の但馬国養父郡に、「楯縫神社」がみえます。 鎮座地の建屋(たてのや)は「和名抄」所載の養父郡建屋郷の遺称地。楯縫(たてぬい)と関係して生まれた地名でしょうか。 持統三年の創立を称するようです。 祭神は彦狭知命。 神代紀下の第九段第二の一書に作盾者として登場する神です。 長野一雄氏の「物部氏と出雲」のように、各地の式内楯縫神社を物部氏の活動の痕跡として捉えて論じる方もいます。 但馬国の場合はどうだったんでしょうか… 境内には、高さ4mほどの大きな燈籠がありました。 文久元年の奉納のようです。 ■ 斎神社   [地図] 兵庫県養父市長野に鎮座する齋神社です。 祭神は、天太玉命、手置帆負命、彦狭知命。 天平二年の創立と伝えられるそうです。 四月には、往復40kmの道のりを練り歩く「お走り祭り」があり、拝殿に奉納された絵馬から、その江戸期の様子をうかがうことができます。 祭りの由来の神話には、斎明神は土木の神として描かれます。 本殿の真裏は、小さな滝のようになっていました。 境内社に楯縫神社があり、こちらが但馬国養父郡の式内楯縫神社の論社になっています。 ■ 楯縫神社   [地図] 兵庫県豊岡市日高町鶴岡に鎮座する楯縫神社です。 『延喜式』神名帳の但馬国気多郡に、「楯縫神社」がみえます。 明治には多田屋村字山口に鎮座したことが『特撰神名帳』などから知られますが、その後は井田神社に合祀され、昭和二十二年に再び分離し、現在地に社殿が建立されたようです。 祭神は彦狭知命。 楯縫氏の祖神とされます。 また、1947年合祀の八幡宮の神(誉田別命、息長足姫命)も祀られます。 境内の碑には、「白鳳時代、今から千三百年の往昔、出雲国から丹波国を経て当国で栄えた楯縫連が遠祖彦狭知命を楯屋丘多田谷にまつる。西暦一九四七年、此地に遷座奉祀す。」とありました。 境内社には稲荷神社がありました。祭神は保食神。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 楯縫神社

【所縁の史跡】物部荘(兵庫県)

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  ■ 物部八幡神社   [地図] 兵庫県朝来市物部に鎮座する、物部八幡神社です。 上代史料上に明確には見えませんが、地名「物部」はかつての部民設置にもとづくものと見られます。 八幡神社としては朝来地域では最も早い時期の勧請らしく、中世まで遡ることができるようです。 平安期以降には当地に「物部荘」の存在が確認できます。比較的早くに、物部上荘と物部下荘のふたつに分かれたようです。 応保元年ころと見られる三河権守高佐奉書に、「自 公家被 仰下上西門院御領物部下庄申文遣之」とあり、上西門院(統子内親王:鳥羽天皇の皇女で後白河天皇の姉)を本家とする皇室領荘園だったことがわかります。 八幡神社の祭神は、品陀和気命、足仲彦命、息長足姫命。 『全国神社名鑑』によると、「鬼殺し神事」なる神事が伝えられているそうです。 社伝には、貞観十七年の創建を称します。貞享四年に火災により社殿を焼失、生野奉行坂井七郎左衛門によて再建されたといいます。明治六年には村社に列格しました。 境内末社として、弁財天社、荒神社、愛宕神社、稲荷社、庚申社、春日社などがあります。 宣陽門院所領目録に、「新御領 上西門院被進之」として「但馬国物部庄」が見え、この荘園は上西門院から宣陽門院(覲子内親王:後白河天皇の皇女) に譲られていたことがわかります。 弘安八年の但馬国太田文には、物部上庄十六町五反六十歩のうち神田四反が、物部下庄八町のうち神田一町三反百八十分が見えます。 この神田は、八幡神社のものでしょう。 同文献に見える下荘公文・物部吉清は、当地に勢力をもって物部城を築いたと伝えられる物部頼久の子とする説があります。 偽書「但馬故事記」の朝来郡故事記には、養老三年冬九月朝来軍団を廃し、健児所を設けたこと、健児所は物部邑に置き、健児五十人に兵庫・鈴蔵を守らせたことが見えます。 南方5kmほどのところにある延喜式内社・足鹿神社は、大化三年に軍団が設置されたとき少毅となった物部連飛鳥が、その祖・伊香色男命を八代丘に祀ったことに始まるとします。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 物部荘

【所縁の史跡】物部神社と重浪神社(兵庫県)

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  ■ 韓国神社   [地図] 兵庫県豊岡市城崎町飯谷に鎮座する、韓国神社です。 『延喜式』神名帳の但馬国城埼郡に見える、「物部神社」に比定されています。 明治以前は、「韓国」の名に引かれたのか、震旦国大明神とも通称されたそうです。 祭神は、 物部韓国連真鳥命、 物部韓国連墾麿命。 真鳥命と墾麿命とは父子。 『式内社調査報告』によれば、素盞嗚尊を祭神にあてる説もあるようです。 社伝によると、武烈天皇の命を受けて韓国に使いした物部真鳥は、任務を果たして、但馬の三島の水門に着き、復奏。この功績によって韓国連の姓を賜ることになったといいます。 その子 渚鳥(墾麿・榛麿)は欽明朝に現在の飯谷を開墾したとされ、飯谷(はんたに)の地名は墾谷(はりたに)に由来するといいます。 境内の遷社碑。 昭和四年に立てられたもののようです。 明治四十二年十一月に社殿が焼失し、大正元年に再建されましたが、昭和二年の北丹後地震により、隣接する山林が崩壊して社殿が埋没する災害に遭ったといいます。 境内社。 左が養父神社、右は稲荷神社のようです。中央はわかりませんでした。 祭神については、偽書「但馬故事記」にも見えています。 「人皇三十代 (ママ) 欽明天皇廿五年冬十月 大売布命の裔 物部韓国連榛麿を以て、城崎郡司と為す。 物部韓国連は、武烈天皇の勅を奉じ韓国に遣わされ、復奏の日、姓物部韓国連を賜いし者。榛麿は其の子なり。 韓国連榛麿は針谷を開き、住処と為す。故れ榛谷と云う。父物部韓国連命を榛谷丘に祀り、物部神社と云う。[また韓国神社とも云う]」 (城崎郡故事記) 神社から北西に600mほど行くと、楽々浦です。奥まった湾なので波は静かな様子。 物部真鳥帰朝の地、三島の水門がこことされます。 円山川河口から津居山湾に出ると日本海です。 ■ 重浪神社   [地図] 兵庫県豊岡市畑上に鎮座する、重浪神社です。 「延喜式」神名帳の但馬国城埼郡に見える、「重浪神社」に比定されています。 風情ある四脚鳥居をくぐった境内には、大きな樹が数本あります。 祭神は、 物部韓国連神津主命。 韓国神社に祀られる物部韓国連墾麿の子です。 また、上津綿津見命や、海部直の祖神にあてる説があるようです。 鳥居の奥