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【所縁の史跡】石作神社・玉作神社(滋賀県)

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  ■ 石作玉作神社   [地図] 滋賀県長浜市木之本町千田に鎮座する石作玉作神社です。 湧出山の東、北国街道沿いに位置します。 『延喜式』神名帳の近江国伊香郡に、「石作神社」と「玉作神社」があります。 祭神は、天火明命と玉祖命。 相殿に品陀別命(八幡神)を祀ります。 火明命は『姓氏録』左京神別下・山城国神別・摂津国神別・和泉国神別にみえる石作氏の祖神、玉祖命は『古事記』の天岩戸神話や天孫降臨神話にみえる玉造部の祖の祖神です。 石作神社は、もと南西に500mほどの小字「石作」にあり、文化六(1809)年には勾玉管玉類がそこから出土したといいます。 『三代実録』貞観七年三月二十八日条に、近江国の言として伊香郡の人・石作部広継女を節婦として表彰されたことがみえます。 当地に住む石作部たちによって奉斎されたと見てよいでしょう。 石作氏は、『姓氏録』左京神別には、垂仁朝に皇后日葉酢媛命のために石棺を作って奉ったといい、『播磨国風土記』印南郡大国里条には、仲哀天皇の死に際して神功皇后が石作連大来に石材を求めさせたという伝承を持ちます。 伊香郡一帯には多くの古墳が営まれており、これらの石室・石棺の造営に関与したものでしょうか。 玉作部のつくる玉も、古墳の副葬品には欠かせないものですが、喪葬に限らず、当地域の諸豪族の行う、様々な祭祀に供給されたことでしょう。 文明三(1471)年に兵火にかかって石作神社は焼亡、村人が仮殿を造営したが、黒田庄の地頭の黒田政光が石作・玉作両社を現在地に合祀。さらに千田郷の氏神八幡神が相殿に祀られて現在に至るそうです。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 石作神社・玉作神社

【所縁の史跡】伊香具神社(滋賀県)

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   ■ 伊香具神社   [地図] 滋賀県長浜市木之本町大音に鎮座する、伊香具神社です。 戦国時代の合戦でお馴染みの、賤ヶ岳を北西に望む位置にあります。 『延喜式』神名帳の近江国伊香郡に、「伊香具神社」がみえます。 祭神は、伊香津臣命。 中臣連の祖で、伊香郡の有力豪族・伊香連の祖でもあります。 伊香津臣命は、『帝王編年記』養老七年癸亥条にみえる羽衣伝説に登場する与胡郷の人、伊香刀美に同一視されます。 伊香刀美は、天女との間に二男二女をもうけたといい、そのなかに意美志留(おみしる)と那志登美(なしとみ)がみえます。 前者は『姓氏録』左京神別上にある中臣氏族伊香連の祖、臣知人命(おみしるひとのみこと)、後者は『尊卑分脈』藤原系図にある中臣連の祖、梨迹臣命(なしとみのみこと)と同一視され、伊香氏は中臣氏と兄弟氏族にあたるという伝承を持っていたようです。 境内社に、臣知人命を祭神とする、三の宮神社があります。縁結びの神として信仰されているそうです。 伊香氏については、物部氏の祖の伊香色雄命に名称が類似する点や、伊香郡内に物部の地名が残る点などから、物部氏との近縁性を指摘する説があります。 吉田東伍氏は、伊香の地名を河内国茨田郡伊香郷に由来する、物部氏の勢力扶植の結果と見ました。 また、太田亮氏も本来は物部氏の同族だったものが、中臣氏へ変化したものとしています。 現在でも、大橋信弥氏が、 「もともと物部連氏の配下として、物部氏と結託関係を結んでいた伊香連氏は、物部氏本宗の没落後、他の同族とともに、中臣氏への接近をはかり、中臣氏の政治的地位の上昇にともなって、ついに物部氏との関係を断って、中臣氏同祖系譜に組み込まれることになった」 とされています。 『三代実録』の貞観元年正月二十七日条には、近江国の従五位上勲八等伊香神に従四位下が授けられ、同八年閏三月七日条には従四位上に神階が昇ったことがみえます。 神宮寺はもと法相宗と伝えますが、その後、真言宗に転宗したと伝えます。明治八年に廃寺になりました。 境内の藤の老木や独鈷水には、弘法大師に付会される伝説があるようです。   参考: 太田亮『姓氏家系大辞典』 吉田東俉『大日本地名辞書』 大橋信弥「伊香連氏について」『日本古代の王権と氏族』

【所縁の史跡】乃伎多神社と物部古墳群(滋賀県)

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目次 ・ はじめに ・ 乃伎多神社(東物部) ・ 横山神社古墳 ・ 兵主神社古墳 ・ 大将軍古墳、生塚古墳 ・ 瓢塚古墳 ・ 姫塚古墳 ・ 父塚古墳 ・ 乃伎多神社(東阿閉) ■ はじめに 『延喜式』神名帳における近江国の神々は155座を数えます。これは、大和国(286座)、伊勢国(253座)、出雲国(187座)に次ぐ多さで、うち湖北に位置する伊香郡が46座と特に密集しています。 いま、志賀剛氏『式内社の研究』による比定を見ると、町域28平方kmの旧高月町には16の式内社が存在するといいます。すなわち、1.75平方kmに一社という密度で式内社がひしめいているということになります。 そして、その前史を物語ると考えられるのが、多数の古墳たちです。滋賀県下最大の古墳群といわれる古保利古墳群をはじめ、松尾宮山古墳群、山畑古墳群、涌出山古墳群、赤尾古墳群、唐川宮山古墳群などが一帯に知られています。 このうち、余呉川中流域左岸の、地名「物部」付近を中心に営まれたのが、物部古墳群です。  南方から見たとき神南備山状の秀麗な姿を見せる山本山は、琵琶湖水上交通における航海の目印として重視されたことでしょう。当地は、琵琶湖から日本海の交通へと接続する重要な地域でした。 密集する延喜式内社と古墳の存在は、土着の豪族たちの繁栄とともに、『和名抄』所載の安曇郷と関係する安曇氏や、伊香具神社への関与が考えられる中臣氏といった勢力の扶植により、多くの集団がこの地域に拠点を持ったことを示すと思われます。 物部氏も、これら集団の主要なひとつであったからこそ、今日に至るまで平野中央部に「物部」の地名を残しえたのでしょう。乃伎多神社は、論社のひとつが物部にあることで知られます。   ■ 乃伎多神社 (東物部)   [地図] 滋賀県長浜市高月町東物部に鎮座する乃伎多(のぎた)神社です。 JR高月駅から北西に1.5kmほどのところに位置します。 『延喜式』神名帳の近江国伊香郡に、「乃伎多神社」が見えます。 祭神は、味饒田(うましにぎた)命。 天孫本紀に宇摩志麻治命の長子で、物部氏族・阿刀連の祖とされます。 他には、饒速日命を祭神にあてる説もあります。 『特選神名帳』が紹介するところの社伝によると、東物部集