投稿

ラベル(山城国)が付いた投稿を表示しています

【所縁の史跡】久何神社(京都府)

イメージ
  ■ 久我神社  [地図] 京都府京都市伏見区久我森の宮町に鎮座する、久我神社です。 桂川と鴨川の合流地点から、北西に一キロメートルほどのところに位置します。 『延喜式』神名帳の山城国乙訓郡に、「久何神社」がみえます。 近世には、森大明神とも称されました。 境内案内板によると、延暦三(784)年の長岡京遷都の際、王城の鬼門(艮)を守護するため当地へ鎮座したと伝えられるそうです。 祭神は、別雷神、建角身神、玉依比売の三座。 『山城国風土記』可茂社条に、大倭の葛木山にいた賀茂建角身命が、「山代国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河のまにまに下りまして、葛野河と賀茂河との会ふ所に至り」、さらに石川の瀬見小川を経て、「久我国の北の山基」に鎮座することになったとみえます。 「葛野河(桂川)と賀茂河の会う所」が当地であり、久我国とも縁がありそうな社号でもあることから、祭神の比定もされたようです。 『式内社調査報告』は、『三代実録』貞観八年八月八日条に正六位上から従五位下へ、貞観十六年閏四月七日条に従五位上へ昇叙した、山城国の興我万代継神を「或は当社のことかも分らない」とします。 明日香親王(桓武天皇の第七皇子)の子四人が、弘仁九(818)年八月に久賀(久我、興我とも表記される)朝臣の氏姓を賜っています。 親王の別邸などが、この地域にあったことによるのでしょうか。 現在の本殿は天明四(1784)年の再建で、京都市の有形文化財に登録されています。 境内社には、春日社、稲荷社、八幡宮、天満宮、清正社、歯神社があります。 清正社の祭神は加藤清正公。 歯神社は天神立命を祀ります。 天神立命は、『旧事本紀』神代本紀に高皇産霊尊の子神として名のみえる神で、山代久我直の祖といいます。 天神本紀に饒速日尊の天降りに供奉したと伝えられる、山背久我直らの祖の天背男命、あるいは久我直らの祖の天世平命は、この神の系統に属するでしょうか。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 久何神社

【所縁の史跡】阿刀神社(京都府)

イメージ
  ■ 阿刀神社   [地図] 京都府京都市右京区嵯峨広沢南野町に鎮座する、阿刀神社です。 丸太町通り沿いにある京都広沢郵便局の向かいに、その入り口があります。 民家等に囲まれた小さな社地です。 『延喜式』神明帳の山城国葛野郡に、「阿刀神社」がみえます。 明治初期まで大神宮社だっため、祭神は天照皇大神とされています。 地元から式内阿刀神社とも称するとの主張がされ、比定されたようです。 『式内社調査報告』は、阿刀(あと)を本来「やつ」だったと見て、水神・農業神とします。 ただし、語呂合わせと現比定社の立地以外に根拠はないようで、これが定説になることはないでしょう。 祭神には、味饒田命をあてる説もあります。 『姓氏録』山城国神別の阿刀宿祢条に、 「石上朝臣と同じき祖。饒速日命の孫、味饒田命の後なり」 とあることによります。 物部氏族の阿刀(安都・安斗)氏のうち、この山城国に本拠を置いたものが奉斎したと見るわけです。 味饒田命(うましにぎたのみこと)は、『旧事本紀』天孫本紀にも饒速日尊の孫で、宇摩志麻治命の子といいます。やはり阿刀連の祖とあり、数多い物部氏同族のうち、阿刀氏は最も早くに分岐したとの伝承を持っていたようです。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 阿刀神社

【所縁の史跡】賀茂別雷神社・久我神社(京都府)

イメージ
  ■ 賀茂別雷神社   [地図] 京都府京都市北区上賀茂本山に鎮座する、賀茂別雷神社です。上賀茂神社の通称でも親しまれています。 『延喜式』神名帳の山城国愛宕郡に、「賀茂別雷神社」がみえます。 『続後紀』承和十五年二月二十一日条には、賀茂御祖神社が天平勝宝二年に神田一町を給わったものの、それ以降は加増されず運営費用が欠乏しているため、賀茂別雷神社にならって加増するよう求めを出したことがみえます。 奈良時代中期には、既に賀茂社は上下の二社になっていたことがわかります。 賀茂(鴨)県主氏によって奉斎され、創建にもこの氏が関与したと見られます。 賀茂県主は『旧事本紀』神代本紀に神皇産霊尊の子・天神玉命の後裔といい、『姓氏録』山城国神別は神魂命の孫・建津之身命の後裔といいます。 建津之身命は、『日本書紀』の神武東征譚で活躍する八咫烏と同一視されます。 平安遷都により都の守護神として朝廷の庇護も厚く、『続紀』延暦三年十一月二十日条には賀茂上下社が従二位の神階へ叙されたことが、『紀略』大同二年五月三日条には賀茂御祖神・別雷神が並んで正一位に昇ったことがみえます。 細殿の前にある立砂。 北へ2.5kmほどのところにある、神山を模したものといわれます。 神山は現在禁足地。山頂の磐座に祭神が降臨したと伝えます。 祭神は、賀茂別雷神。 『釈日本紀』が引く『山城国風土記』に、建角身命の娘・玉依日売が石川の瀬見の小川で川上から流れてきた丹塗り矢を持ち帰り、寝床の近くに挿して置くと、みごもって男の子を生んだ。 子が成長した後、神を集めて宴遊したとき、建角身命が父と思う人に酒を飲ませよといったところ、その子は天に杯をささげ、屋根を突き破って天に昇っていってしまった。 そこで可茂別雷命と名づけた、という話がみえます。 ↓「岩上(がんじょう)」。 賀茂祭(葵祭)には、宮司がこの岩の上に蹲踞して勅使と対面し、御祭文に対して神の意思を返祝詞で伝える場所です。 ↓末社の岩本神社。 小川の間近にある岩の上に社殿が建っています。 底筒男神、中筒男神、表筒男神を祀ります。 ↓片山御子神社。 片岡社とも呼ばれます。第一摂社として崇敬を集めるそうです。 『延喜式』にある「片山御子神社」の比定社とされます。

【所縁の史跡】北野天満宮(京都府)

イメージ
  ■ 北野天満宮   [地図] 京都府京都市上京区馬喰町に鎮座する、北野天満宮です。 祭神は菅原道真公。 学問の神としても親しまれ、多くの崇敬を集めてきました。 昌泰二年に右大臣に昇った道真でしたが、二年後の延喜元年正月、太宰権帥に任じられ、中央政界から放逐されてしまいました。 翌々年に太宰府で道真は死去。そののち、藤原時平(三十九歳)、皇太子保明親王(二十一歳)、慶頼王(五歳)の死去を経て、延長八年には宮中清涼殿への落雷と大納言藤原清貫らの焼死と、災難が続いたことにより、道真は「御霊」化されていきました。 天慶五年に右京七条二坊十三町に住む多治比文子に託宣があり、五年後には近江の神官の子で太郎丸にも託宣があったことから、天暦元年六月に現在地において創建されたと伝えます。 多治比文子は『菅家御伝記』によると「婢」、『帝王編年記』では「賤の娘」とあって、身分の低い女性だったようですが、延喜八年から十一年にかけて起こった旱魃・疫病流行・洪水・大風雨の原因を、不遇のうちに亡くなった道真のせいにしようとする庶民の動きがあったようです。 宮中だけでなく、一般庶民のなかにも早くから畏れと信仰が生まれていたと見られます。 社殿のうち、本殿・石の間・拝殿・楽の間が国宝に指定されています。 渡邊綱の寄進とされる石燈籠。 一条戻り橋の鬼退治にからんだ伝説を持ちます。 ↓本社の真後ろに祀られる「後后三柱」。 祭神は天穂日命、菅原清公卿、菅原是善卿です。 菅原氏の祖神、および道真の祖父と父にあたります。 清公には、石上宅嗣の創設した芸亭に出入りして学んだとする説があります。 後進の育成に力を注ぎ、私邸に多くの学生が集った「菅家廊下」の成立には、若き日の清公が芸亭で受けた影響があったのかもしれません。 末社の伴氏社です。菅原道真の母を祭神とします。 『延喜式』神名帳の葛野郡「伴氏神社」の論社のひとつです。 『続後紀』承和元年正月十九日条に、伴宿祢らへ山城国葛野郡上林郷に一町四方の土地を、氏神を祀るため賜ったことがみえます。これが伴氏神社の創建と見られます。 神明社。 天照大神と豊受大神を祀ります。かつては天満宮の北の神明町に鎮座していたようです。 『延喜式』神名帳の山城国愛宕郡に「高