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【所縁の史跡】若桜神社(奈良県)

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  ■ 稚桜神社  [地図] 奈良県桜井市池之内に鎮座する、稚桜神社です。 神功皇后、および履中天皇の磐余稚桜宮の伝承地といわれます。 『延喜式』神名帳の大和国城上郡にみえる、「若桜神社」の論社でもありますが、当地は十市郡に属するため、否定的な見解が強いようです。 『日本書紀』履中三年十一月条に、磐余池が築かれた記事に続いて、磐余市磯池で天皇が両股船を浮かべ遊宴したとあります。 ときに、季節はずれの桜の花びらが盃に舞い降り、天皇はあやしんで、どこの花なのか、探索を物部長真胆連 (もののべのながまいのむらじ) に命じました。 長真胆は、腋上の室山で桜の花を手に入れ献上したので、天皇はよろこんで宮殿の名を「稚桜宮」とし、また長真胆は功績をたたえられて、「稚桜部造」の姓を賜ることになった、とされています。 『姓氏録』右京神別の若桜部造条にも、同様の物語が載せられており、神饒速日命の三世孫・出雲色男命 (いずもしこおのみこと) の後裔がこの氏であるといいます。 以上の伝承から、祭神は、出雲色男命、履中天皇、神功皇后です。 境内社には、本社の両側にある高麗神社(祭神・武内宿祢)、天満神社(菅原道真公)のほか、厳島神社(市杵島姫命)、八坂神社(素戔嗚尊)があります。 出雲色男命は、『旧事本紀』天孫本紀には出雲醜大臣命としてみえる人物で、三河国造や勇山連ら、傍流物部氏族の祖です。 この神社の西隣りが、履中天皇の遊んだ磐余池だったとする説があります。『大和志料(大正三年)』や、和田萃氏らが述べています。 平成二十三年十二月、ついにこの池の存在を立証する堤の跡が発見され、大きく報道されました。 ただし、六世紀の遺構のため、履中天皇の伝説の成立年代にも一石を投じることになっています。 また、同時に見つかった六世紀後半の建物跡から、用明天皇の池辺双槻宮との関係も推測されていますが、南にあったとされる厩戸皇子の住んだ上宮の位置など、問題が多いようです。 ■ 若桜神社  [地図] 奈良県桜井市谷に鎮座する、若桜神社です。境内地は、中世の谷城の跡。 『延喜式』神名帳の大和国城上郡にみえる、「若桜神社」の論社です。 境内社には、やはり式内社の高屋安倍神社もあります。 安倍寺跡や文殊院の北東に位

【所縁の史跡】富都神社(奈良県)

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  ■ 富都神社  [地図] 奈良県磯城郡田原本町富本に鎮座する、富都神社です。 『延喜式』神名帳の大和国城下郡に、「富都神社」がみえます。 南東に保津の地名があり、社号の「富都 (ふつ) 」と結びつけようという見方もあるようです。 現比定社の鎮座地は富本 (とんもと) ですが、こちらも「ふつ」ではなく「ふと」と後世読みし、「富」は音読みを訓読みに変えると、社号に近くなります。 江戸期には牛頭天王社と称されていました。境内の明和年間の石灯籠にも、「牛頭天皇」と刻まれたものがあります。 祭神は、境内案内板によると登美屋彦命。 また、武雷神を主祭神とし、登美屋彦命と登美屋比売命を配祀するともいわれます。 武雷神 (たけみかづちのかみ) は『古事記』では建御雷之男神ともいい、またの名を建布都神、豊布都神ともいうとされます。 登美屋比売命を、登美夜毘売と同一と見れば、登美屋彦命は登美毘古である長髄彦のことでしょうか。 あるいは、饒速日命のことでしょうか。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 富都神社

【所縁の史跡】気都和既神社(奈良県)

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  ■ 気都倭既神社  [地図] 奈良県高市郡明日香村上 (かむら) に鎮座する、気都倭既 (けつわき) 神社です。 石舞台古墳から、県道155号線を東へ二kmほどのところにあります。 『延喜式』神名帳の大和国高市郡に、「気都和既神社」がみえます。 冬野川の流れる谷あいに位置します。 冬野川は、『万葉集』が引く「柿本朝臣人麿之歌集」に 「ふさ手折り多武の山霧しげみかも 細川の瀬に波の騒ける」 と歌われた細川です。 談山神社とは峠をはさんで一.三kmほど、飛鳥から多武峰へ向かう途中に位置することになります。 「もうこんの森(茂古の杜)」の通称があります。 中臣鎌足が蘇我入鹿を倒したとき、入鹿の首が追いかけてきたので、鎌足は板蓋宮から当地まで逃げて、「もう追いかけては来まい」といったことに由来する、という伝説があるそうです。 鎌足を祀る談山神社との関わりが考えられそうです。 祭神は、気津別命 (けつわけのみこと) 。 気津別命は、社号の「気都和既」との類似により比定されたものでしょうか。摂社の春日神社は天津児屋根命を祀るようです。 『姓氏録』左京神別の真神田曽祢連条に、 「神饒速日命の六世孫、伊香我色乎命の男、気津別命の後なり」 とみえます。気津別命が物部氏の人物であることがわかります。 真神田曽祢氏は、『万葉集』に「明日香の真神原」などとみえる真神原に本拠を置いたもので、飛鳥の豪族と考えられるでしょう。 『五郡神社記』は、「久迷郷畝傍村平森に在り」として、当社の式内社への比定に異論を述べています。 祭神は天つ神で、高天原から伊都知和岐 (いつのちわき) て天降ったため、気都和既の社号になったのだろうといいます。 或説に猿田彦大神が祭神であるというようですが、明確な根拠は無いようです。 県道の上からは、葛城山・金剛山方面をよく望めます。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 気都和既神社

【所縁の史跡】治田神社(奈良県)

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  ■ 治田神社  [地図] 奈良県高市郡明日香村岡に鎮座する、治田神社です。 明日香村役場から東へ五〇〇mほど、義淵の創建と伝わる岡寺の西隣りにあります。 『延喜式』神明帳の大和国高市郡に、「治田神社」がみえます。 社号の「治田」は、推古天皇の小墾田宮や蘇我稲目の小墾田家があった地名にもとづくと考えられています。 『古事記伝』がいうように、「飛鳥の地を広く小治田と云しなるべし」とするのが妥当でしょうか。 『大和志料』のように、小治田を豊浦付近に限定し、当該神社にあてることを否定する見解もあります。 祭神は、品陀別天皇、素盞嗚尊、大物主神。 式内治田神社に比定されるまでは八幡神社だったため、応神(品陀別)天皇が祀られます。 素盞嗚尊は、現地由緒書きによると、岡村字城山にあった八坂神社を合祀したもののようです。 社地は、岡寺の旧寺地だったことが、発掘調査から確かめられています。 ここに古代から継続して神社があったことは、否定されます。 『五郡神社記』によると、安康朝に武内宿祢の曾孫で石川俣合氏の祖、石川楯が甘樫岡を開墾し、大地主神を祀る神殿を水田のほとりに建てたのが小治田神社の創建であり、今の豊浦神社だとする伝説があるようです。また、石川楯の追放後は蘇我韓子(稲目の祖父)にその家地・田部を賜ったとされます。 飛鳥が蘇我氏の主導で開発されたことに結びつけられたのでしょうか。 大地主神は大物主神と同一視されます。 蘇我氏の同族には、『古事記』孝元段や『姓氏録』右京皇別に小治田臣(小治田朝臣)がいます。 当地を本拠とした豪族と見られます。 同じウヂ名を持つ集団に、小治田連(小治田宿祢)があります。『姓氏録』左京神別や右京神別に確認できる、物部氏の同族です。 小治田には安閑紀元年十月条にみえる「小墾田屯倉」があり、天武紀元年六月条によると「小墾田兵庫」という武器庫があったようです。 小治田連氏は、この屯倉の管理者として配置されていたものでしょうか。 治田神社の奉斎集団も、蘇我系、物部系の小治田氏のいずれか、あるいは『姓氏録』左京皇別にみえる彦坐命後裔の治田連が候補に挙げうると思います。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 治田神社

【所縁の史跡】櫛玉比女命神社(奈良県)

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  ■ 櫛玉比女命神社  [地図] 奈良県北葛城郡広陵町弁財天に鎮座する、櫛玉比女命神社です。 『延喜式』神明帳の大和国広瀬郡に、「櫛玉比女命神社」がみえます。 高田川を挟んで、葛城氏の奥津城ともいわれる馬見古墳群の中群と向かい合う位置にあります。 境内には、全長約30mの櫛玉媛神社古墳があります。 前方部を西に向ける前方後円墳で、一部が削平されつつも、本殿は墳丘の上に建っています。 「弁財天」の通称が地元住人に間にはあったそうで、鎮座地名にもなっています。 社号から女神が祭神と見られる「櫛玉比女命神社」を比定する上で、弁財天は結びつけられやすかったといえます。 祭神は櫛玉比女命。 『大日本史』は、物部氏の祖神・ 櫛玉 饒速日命の妻である御炊屋姫をこれにあてています。 伊予国風早郡の櫛玉比売命神社と同様の考察がされているわけですが、風早ほどには物部氏との関係が明確ではありません。 境内社には、八幡社、白山社などがあります。 ↓市杵島姫命を祀る弁財天社(厳島神社)。 『式内社調査報告』によると、社務所兼神職宅の邸内社だったらしいです。 吉野郡天川村の天河大弁財天社を、鎌倉時代に当地に勧請したともいわれます。 櫛玉比女命神社の例祭は「戸閉まつり」と呼ばれ、宵宮には氏子各集落より地車が出されるそうです。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 櫛玉比女命神社