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【所縁の史跡】 秩父神社(埼玉県)

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  ■ 秩父神社  [地図] 埼玉県秩父市番場町に鎮座する秩父神社です。 『延喜式』神名帳の武蔵国秩父郡に「秩父神社」が見えます。 祭神は、八意思兼命、知々夫彦命、天之御中主神、そして昭和二十八年から祀られている秩父宮雍仁親王です。 『旧事本紀』国造本紀に、知々夫彦命が崇神朝に知々夫国造に任じられたことが見えます。 このとき祖神の八意思兼命を祀ったことを創建と称します。 拝殿の「子育ての虎」や本殿の「つなぎの龍」といった彫刻は、江戸初期の名工・左甚五郎の作と伝えられます。 『三代実録』貞観四年七月二十一日条に、武蔵国の正五位下勲七等秩父神へ正五位上の神階が授けられたことが見え、その後、貞観十三年十一月には従四位下、元慶二年十二月には正四位下へ昇叙したことが見えます。 秩父の名称を冠する古社であり、当地の有力豪族だった知々夫国造の奉斎によっていたことが確実視されます。 ↓本殿の背後にある天神地祇社。 全国の一ノ宮の神々を中心に、有名どころの神様が計75座も祀られています。 ↓拝殿西側の境内社。 左から柞稲荷神社(倉稲魂神)、諏訪神社(建御名方神・八坂刀売神)、日御碕宮(須佐之男神)です。 秩父国造については、『旧事本紀』天神本紀に饒速日命に供奉して天降った神として天下春命がみえ、これが祖とされています。 社叢は江戸期以前から「柞(ははそ)の森」と呼ばれ親しまれてきたそうです。 かつてはもっと広かったのだとか。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 秩父神社

【所縁の史跡】埼玉古墳群(埼玉県)

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埼玉(さきたま)古墳群は、埼玉県行田市埼玉・渡柳にある古墳群です。利根川と荒川に挟まれた沖積地に位置し、現在は、「さきたま風土記の丘」公園として整備されています。 消滅した大人塚古墳を含む9基の前方後円墳と、丸墓山古墳以下の40基弱の円墳、消滅した1基の方墳からなります。 銘文の入った鉄剣の出土で知られる稲荷山古墳を皮切りに、一辺40mの方墳である戸場口山古墳まで、5世紀末から7世紀初頭の時期に、有力な規模の古墳が継続して営まれました。 被葬者については諸説ありますが、原島礼二氏は『聖徳太子伝暦』に登場する、聖徳太子の舎人で、のち癸巳(633)年に武蔵国造となった当地の豪族、物部連兄麻呂に関連していいます。 「ここで注目する必要があるのは、第二代天台座主として知られる埼玉郡出身の僧円澄が、壬生という姓を元来名のっていた事実だ。壬生が聖徳太子ゆかりの名代・子代だとする説に注意すると、兄麻呂と太子とのつながりの過程で、物部から太子側近としてふさわしい壬生に姓が変化したとも思われる。」 「この下降線をたどった大族(物部氏)と、兄麻呂の祖先はむすびついていたことがわかるが、この大族と埼玉古墳群をつくった豪族が頭角を現したのは、いずれも五世紀後半のことだった。 物部氏やそれとむすびつく阿倍氏・膳氏らとつながることによって、埼玉の物部氏は地方豪族では格の高い連を名のることもできたのだろう。 しかし、守屋の滅亡を転機に、埼玉の物部氏の一派は聖徳太子の側近という道を切りひらいた。多分この転機が埼玉古墳群にみられる、西暦六〇〇年前後を限りとする古墳築造の停止とつながるのだろう。それに替わって、古墳群の北方に大きい古墳(真観寺・八幡山など)をつくりはじめた埼玉の物部氏の分派が、多分兄麻呂一族なのだろう。」 として、被葬者を「埼玉の物部氏」にあてます。 中央の物部氏との強いパイプを持ち、その後ろ楯を得ることで、当地での勢力を拡大させることができた、ということでしょうか。 5世紀後半の雄略朝は、全国的には大型古墳の築造が縮小や断絶する地域の多いことで知られます。ヤマト王権の勢力伸張により、在地勢力が圧迫されることによって、もたらされた現象と見られます。 そんななか、当地では新たに大型古墳の造営が開始されます。中央政界

【所縁の史跡】石上神社(埼玉県坂戸市)

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  ■ 石上神社  [地図] 埼玉県坂戸市の北大塚に鎮座する、石上神社です。 社地の丘は石上神社古墳と呼ばれる古墳で、成願寺古墳群に属します。成願寺二号墳ともいい、氏神塚、大塚とも通称されたようです。 『埼玉縣史』は南北45m、東西22mの規模で、前方後円墳と見ます。 近年は直径約50mの円墳とする見方のほうが強いようです。 昭和七年に行われた社地拡張工事のとき、横穴式石室が発見されています。現在は埋め戻されたのか、見ることはできません。 ここ武蔵国の「坂戸」の地名について、森田悌氏は『古代東国と大和政権』のなかで、入間郡を物部系勢力の掌握するところと見、坂戸物部に由来するものとします。 坂戸物部は『姓氏録』未定雑姓に見え、「神饒速日命、天降りましし時の従者、坂戸天物部の後なり」という、物部連の祖神・饒速日命に随従して天降ったとする伝承を持つ集団です。 その本拠地は、河内国古市郡尺度郷や大和国平群郡坂戸郷が有力視されています。 『旧事本紀』天神本紀の「須尺物部」も酒人物部あるいは尺度物部の誤記で、坂戸物部を指すものと見られています。『姓氏録』と同様に、饒速日命に供奉したとあります。 石上神社は現在は、嘉元二年に近くの渕に光を発する石を里人が見つけ、それを祀ったことに始まるとする社伝を持ちます。 しかし、古墳の上に鎮座し、石上神宮と共通する社号を持つこの神社を、坂戸物部に関係したものと見るのも面白いかもしれません。 境内の中央にある大きなビャクシンの捩じれ具合は迫力があります。県指定の天然記念物なのだそうです。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 石上神社

【所縁の史跡】橘樹神社(神奈川県)

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  ■ 橘樹神社  [地図] 神奈川県川崎市高津区子母口に鎮座する旧村社、橘樹神社です。 『和名抄』に見える武蔵国橘樹郡五郷のひとつ、橘樹郷は、この一帯に比定されています。 祭神は、日本武尊と弟橘媛命です。 橘樹・橘花の名義について、『古事記伝』の田道間守が常世から持ち帰ったという非時香菓=橘を掌る橘守氏の所縁の地かという説のほか、日本武尊の妃・弟橘媛の名代部的なものが置かれたためとする説がありました。 安閑紀元年閏十二月に、同族の小杵と武蔵国造の地位を争った笠原直使主が朝廷に奉ったことが見える、「橘花」の屯倉も、旧橘樹郡内に置かれたものと考えられています。 御宅郷は橘樹郷の南方に隣接していたようです。 日本武の松…というものが境内にありました。 ■ 富士見台古墳  [地図] 橘樹神社から北へ200mほどのところにある、子母口富士見台古墳です。 径17.5mの円墳です。上の写真は東側から撮影したものですが、かなり削られてしまっています。 この古墳を、弟橘媛の墓とする伝説があります。 『江戸名所図会』は、海上で災いにあった弟橘媛の遺品を土中に埋めた旧跡は、神社から東へ200mほどのところにあるとします。 現社地からだと、子母口貝塚のあるあたりですが、何か古い時代の物が出土したことでもあったのでしょうか。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 橘樹神社

【所縁の史跡】小見真観寺古墳と若小玉古墳群(埼玉県)

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■ 八幡山古墳  [地図] 行田市藤原町一丁目の八幡山古墳です。若小玉古墳群に属する古墳のひとつです。 工業団地の中に、公園として整備されていました。 昭和十年に小針沼の埋立てのために盛土が取り去られ、石室も荒れ放題だったそうですが、現在は奇麗に復元されています。 石室の雄大さ、整美さ、巨石を用いていることで知られます。 墳形は円墳。直径約77m、高さは11m以上だったといいます。 石室は、奥室、中室、前室に羨道がつく構造です。 金銅製太刀把頭と鞘尻金具、銀製弓弭片、直刀片、鉄鏃などが出土しています。 当時限られた皇族や貴族しか使用しなかった漆塗棺が安置されていたそうです。 被葬者に、『聖徳太子伝暦』に見える「物部連兄麻呂」をあてる説があります。 若いころ、聖徳太子の舎人だった兄麻呂は、癸巳の年(633年)に武蔵国造になり、その職を退いた後に小仁冠を賜ったといいます。 七世紀中葉の築造かと見られる八幡山古墳の被葬者像として、兄麻呂は、よく合致しているようです。 『万葉集』巻二十には埼玉郡に住む「物部刀自売」という女性が、防人に出る夫を歌った歌が残されています。物部連兄麻呂の一族は、この地の物部の現地管掌者だったと見られます。 彼らは、中央の大連を輩出した物部氏と結びついて勢力を拡大していきました。物部守屋の敗死後は、新しい権力者である聖徳太子にすばやく結びつき、埼玉古墳群を造った勢力に代わって、埼玉地方の最高首長として君臨するようになったと見られます。 また、そもそも埼玉古墳群の被葬者たちが物部氏だった可能性もあるでしょう。 古墳公園内には、物部刀自売と夫の藤原部等母麻呂の歌を刻んだ碑もあります。 → 物部万葉歌 ■ 地蔵塚古墳  [地図] 行田市藤原町二丁目の地蔵塚古墳です。 若小玉古墳群に属し、墳頂に地蔵堂が安置されているため、この名で呼ばれます。 現在はかなり形が崩れてしまっていますが、もとは方墳で、一辺は28m程と見られています。 石室の壁に線刻画が描かれていたことで知られます。 烏帽子?をかぶった人物や、弓を引いている人物、馬、水鳥などが刻まれているそうです。 七世紀中葉の築造かといわれます。 ■ 小見真観寺古墳  [地図