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【所縁の史跡】石上神社・水沼神社(群馬県)

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  ■ 石上神社   [地図] 群馬県高崎市倉渕町三ノ倉に鎮座する、石上神社です。 榛名山の南西麓、烏川の左岸に位置します。 祭神は布都御魂神。 上野国内神名帳の群馬郡のうち西郡に、「従四位 石神明神」が見え、これに比定されています。 内陸の神社ですが、社殿の破風には波があしらわれていました。 関口功一氏が論考の中で、物部氏関係の遺跡・遺称を図示したり、物部氏関係の主要な遺跡・遺物・遺称地を写真で紹介するときに、この神社を用いるなど、物部氏に関係して創建されたとする見方があります。 ■ 水沼神社   [地図] 高崎市倉渕町水沼に鎮座する、水沼神社です。 石上神社から烏川を挟んで南西に位置します。 下写真の鳥居の扁額に「古布大明神」とあるように、古布社の別名を持ちます。 尾崎喜左雄氏は、この「フルヌノヤシロ」を「フルノヤシロ」=布瑠社の訛化と見て、物部氏の奉斎する布留神の信仰が当地にもたらされたものとします。 また、社名・地名の水沼は、『旧事本紀』天孫本紀に物部阿遅古連公の後裔とされる、水沼氏に関わるものといいます。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 >石上神社・水沼神社

【所縁の史跡】抜鉾明神・布留明神(群馬県)

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  ■ 貫前神社   [地図] 群馬県佐波郡玉村町箱石に鎮座する、貫前神社です。 上野国神名帳の那波郡に、「従五位 布留明神」が見え、この神社の神に比定する説があります。 現在の祭神は一宮の貫前神社と同じ経津主神。 安中市の咲前神社から分祀されたともいわれるようです。 本殿は覆屋の中。 鎮座地の玉村町は、利根川と烏川に挟まれた要衝に位置します。 境内社の諏訪神社。物置ではありません。 他には、稲荷神社や浅間神社がありました。 ■ 抜鉾神社   [地図] 高崎市菊地町に鎮座する、抜鉾神社です。 上野国神名帳の群馬郡のうち東郡に、「従五位 抜鉾若御子大明神」があり、この神社の祭神に比定する説があります。 周辺は農地で見晴らしがよく、日当たりもよくて清潔感のある境内でした。 鳥居の額には「正一位 抜鉾大明神」とあり、市販の道路地図にもそう載せられることが多いようです。 本殿の後ろには石神が祀られていました。 ■ 抜鉾神社   [地図] 高崎市宮沢町に鎮座する抜鉾神社です。 上野国神名帳の群馬郡のうち西郡に、「従四位 抜前若御子明神」があり、この神社の祭神にあてる説があります。 榛名山の南東麓に位置し、境内は斜面を整地して築かれたようです。 下写真は明和六年に氏子が奉納した手水鉢。 ほかにも享和元年の灯籠など、江戸期に奉納されたものがありました。 布留神や抜鉾神は物部氏と関係すると見られることがありますが、これら神々が祀られた地も、物部氏の足跡を考えるべきでしょうか。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 抜鉾明神・布留明神

【所縁の史跡】保渡田古墳群(群馬県)

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井堤神社(祭神・経津主命)入口バス停前から二子山古墳 かみつけの里博物館 保渡田古墳群は、榛名山の南麓、井野川の流域に位置する、5世紀後半ころに営まれた古墳群です。3基の大型古墳を中心に形成されました。 群馬県高崎市(旧群馬郡群馬町)の保渡田と井出にまたがって所在し、かみつけの里博物館が併設されています。 ■ 井出二子山古墳   [地図] 井出二子山古墳は、墳長108mの前方後円墳です。墳丘に造出しを持たない代わりに、二重の楯形周濠の中に四つの中島を持ちます。 近年、発掘調査が終了し、きれいに整備されました。 後円部の主体部には舟形石棺。実寸大の写真パネルが置いてあります。 古墳群内の三大古墳のうちでは最も古く、須恵器編年でいえばTK23型式(新相)~TK47型式(古相)期の、いわゆる「雄略朝の画期」時代の古墳です。 この時期に100mを越える規模を持つのは、全国でもこの古墳を含めて4基のみで、ヤマト王権と強い繋がりを持った、かなりの有力者が葬られたようです。 ■ 保渡田八幡塚古墳   [地図] 保渡田八幡塚古墳は、墳長102mの前方後円墳です。やはり楯形の周濠と、四つの中島を持ちます。 5世紀後半、二子山古墳に続いて築かれたと見られています。 コンクリートに覆われた格好で葺石を再現。一般市民の協力によって復元された埴輪も並びます。 内堤上の埴輪群像(復元)。 その意味づけには、王位継承儀礼説、殯説、頌徳説、犠牲説、神仙世界説など、諸説あります。 後円部の階段を降りると、舟形石棺を見ることができます。 ■ 保渡田薬師塚古墳   [地図] 保渡田薬師塚古墳は墳長105mの前方後円墳です。西光寺の敷地内にあります。お寺の建物がある都合で、墳丘は一部削られてしまっています。 ここも、楯形の周濠を持って、総長では164mにも達していたらしいです。 築造時期は、5世紀末~6世紀初頭ころと見られています。 墳丘上に、舟形石棺が見学しやすく置いてあります。鏡・玉類・馬具が出土しているのだそうです。 この古墳群の被葬者には、地名の群馬(くるま)との繋がりで上毛野氏の同族とされる車持氏をあてるのが、最も有力です。 ただし、安易な結びつけを批判して、これを否定する説もあります。 ■ 三ツ寺I遺

【所縁の史跡】上野三碑(群馬県)

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  ■ 多胡碑   [地図] 群馬県多野郡吉井町池にある多胡碑です。立派な鞘堂に覆われて保存されていました。 和銅四(711)年の多胡郡の設置について述べた建郡碑で、『続日本紀』の和銅四年三月六日条にも同様の内容記事があります。 穂積親王や左大臣の石上朝臣麻呂、右大臣の藤原不比等、左中弁の多治比三宅麻呂らの名前が、六行八十字のなかに刻まれています。 「弁官の符に、上野国の片岡郡、緑野郡、甘良郡、あわせて三郡の内の三百戸を郡となし、羊に給して、多胡郡となす。和銅四年三月九日甲寅の宣なり。左中弁は正五位下多治比真人。太政官二品穂積親王、左大臣は正二位石上尊、右大臣は正二位藤原尊なり。」 ■ 金井沢碑   [地図] 高崎市山名町金井沢にある金井沢碑です。「高田里知識碑」とも呼ばれます。 屯倉(三家)の子孫である物部君午足らが、祖先と父母の菩提を祈って作ったものです。九行百十二字が刻まれています。 地方豪族の家族形態や婚姻形態を示す貴重な資料として知られます。 「上野国群馬郡下賛郷高田里の三家の子孫、七世の父母・現在の父母のために、現在侍る家刀自・他田君目頬刀自、また児の加那刀自、孫の物部君午足、次にヒズメ刀自、次に乙ヒズメ刀自の合せて六口。また知識に結べる三家毛人、次に知麻呂、鍛師磯部君身麻呂の合せて三口。かく知識に結びて、天地に誓願い仕え奉る石文。 神亀三年丙寅二月廿九日。」   ■ 山ノ上碑   [地図] 高崎市山名町神谷にある山ノ上碑です。 放光寺の僧の長利という人が、亡くなった母親のために記したものです。四行五十三字が刻まれています。 谷川健一氏は『白鳥伝説』の中で、碑に見える「新川臣」について、大新川命や大和国十市郡の新川邑の存在から、物部氏族ではなかったか、という見方を示されています。 「辛己歳集月三月記す。佐野の三家を定め賜へる健守命の孫・黒売刀自。これ新川臣の児・斯多々弥足尼の孫・大児臣と娶ひて生める児・長利の僧、母のために記し定める文なり。放光寺僧。」 碑に接して、山ノ上古墳があります。 直径15メートルの円墳です。 碑文の「辛己歳」は辛巳歳の誤りで、天武十(681)年かと見られています。 この古墳の被葬者を、「黒売刀自」と見る説が有力ですが、截石切組積石室の他古墳との対比からは、