【所縁の史跡】上野三碑(群馬県)

 

多胡碑 [地図]

群馬県多野郡吉井町池にある多胡碑です。立派な鞘堂に覆われて保存されていました。

和銅四(711)年の多胡郡の設置について述べた建郡碑で、『続日本紀』の和銅四年三月六日条にも同様の内容記事があります。

穂積親王や左大臣の石上朝臣麻呂、右大臣の藤原不比等、左中弁の多治比三宅麻呂らの名前が、六行八十字のなかに刻まれています。

「弁官の符に、上野国の片岡郡、緑野郡、甘良郡、あわせて三郡の内の三百戸を郡となし、羊に給して、多胡郡となす。和銅四年三月九日甲寅の宣なり。左中弁は正五位下多治比真人。太政官二品穂積親王、左大臣は正二位石上尊、右大臣は正二位藤原尊なり。」


金井沢碑 [地図]

高崎市山名町金井沢にある金井沢碑です。「高田里知識碑」とも呼ばれます。

屯倉(三家)の子孫である物部君午足らが、祖先と父母の菩提を祈って作ったものです。九行百十二字が刻まれています。
地方豪族の家族形態や婚姻形態を示す貴重な資料として知られます。

「上野国群馬郡下賛郷高田里の三家の子孫、七世の父母・現在の父母のために、現在侍る家刀自・他田君目頬刀自、また児の加那刀自、孫の物部君午足、次にヒズメ刀自、次に乙ヒズメ刀自の合せて六口。また知識に結べる三家毛人、次に知麻呂、鍛師磯部君身麻呂の合せて三口。かく知識に結びて、天地に誓願い仕え奉る石文。
神亀三年丙寅二月廿九日。」


 山ノ上碑 [地図]

高崎市山名町神谷にある山ノ上碑です。
放光寺の僧の長利という人が、亡くなった母親のために記したものです。四行五十三字が刻まれています。

谷川健一氏は『白鳥伝説』の中で、碑に見える「新川臣」について、大新川命や大和国十市郡の新川邑の存在から、物部氏族ではなかったか、という見方を示されています。

「辛己歳集月三月記す。佐野の三家を定め賜へる健守命の孫・黒売刀自。これ新川臣の児・斯多々弥足尼の孫・大児臣と娶ひて生める児・長利の僧、母のために記し定める文なり。放光寺僧。」

碑に接して、山ノ上古墳があります。
直径15メートルの円墳です。

碑文の「辛己歳」は辛巳歳の誤りで、天武十(681)年かと見られています。
この古墳の被葬者を、「黒売刀自」と見る説が有力ですが、截石切組積石室の他古墳との対比からは、それよりやや遡る可能性が高いようです。碑が別の場所から移動させられたか、追葬を考えるべきかもしれません。

横穴式石室には、後世刻まれた馬頭観音像が。

夏場はカマドウマの巣窟と化します。


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