【物部氏年表】1 - 飛鳥時代以前

【物部氏年表】

※ 元号もしくは天皇治世年と(西暦)の対応は便宜的なものです。
 

■ 飛鳥時代以前

神武即位前紀甲寅年10月5日
神武東征開始。

神武即位前紀戊午年2月11日
皇軍、長髄彦の軍と交戦。五瀬命が負傷。

神武即位前紀戊午年6月
武甕雷神より高倉下のもとへ韴霊剣が天降り、磐余彦尊へ献じられる。

神武即位前紀戊午年12月4日
皇軍、再び長髄彦を討つ。金鵄の力により皇軍優勢となり、長髄彦は使者をもって自分が饒速日命に仕えていることを示す。磐余彦尊、饒速日命が真の天神の子であることを認める。長髄彦が磐余彦尊に敵対を止めないため、饒速日命、長髄彦を誅し、帰順する。これが物部氏の祖という。

孝元57年11月12日
開化天皇即位。母は穂積臣の祖欝色雄命の妹・欝色謎命。

崇神元年1月13日
崇神天皇即位。母の伊香色謎命は物部氏遠祖大綜杵の娘。

崇神7年8月7日
穂積臣の祖・大水口宿禰ら三人が、大田田根子命を大物主神を祀る祭主に、市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主にすれば、天下は平らぐだろうという夢のお告げを得る。占いに、物部連の祖の伊香色雄を神班物者にすると良しと出る。

崇神7年11月13日
伊香色雄の率いる物部八十手が作った幣帛によって、大物主神と倭大国魂神を祀る。

崇神60年7月14日
矢田部造の遠祖・武諸隅を出雲に遣わす。

垂仁25年2月8日
物部連の祖・十千根ら五大夫に、神々を敬い祀ることを怠らないよう詔する。

垂仁26年8月3日
出雲にたびたび使者を遣わして神宝のことを検めさせていたが判然としないため、物部十千根大連を遣わす。十千根大連はよく調べてはっきりと報告したため、神宝のことを掌らされることになった。

垂仁26年10月甲子
一説に、天照大神を伊勢国渡遇宮に移す。このとき倭大国魂神が穂積臣の祖大水口宿祢を通じて神託を下したため、渟名城稚姫命、ついで大倭直の祖長尾市宿祢に祀らせる。

垂仁39年10月
五十瓊敷命、茅渟の菟砥川上宮で作らせた剣一千口を石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命が石上神宮の神宝を掌る。一説に、五十瓊敷命は剣を忍坂に納める。後に石上神宮に移したという。このとき神が春日臣の一族の市河に治めさせるよう述べる。市河は物部首の先祖。

垂仁87年2月5日
五十瓊命、老齢を理由に妹の大中姫に神宝の管理の職を譲る。大中姫命は物部十千根大連にこのを職を授けて治めさせる。物部連が今に至るまで石上の神宝を掌るのは、これがそのもとであるという。

景行12年9月5日
天皇、周芳の佐波で南方に多く煙が立っていることを見て、物部君の祖・夏花らを遣わし様子を探らしめる。

景行12年10月
天皇、土蜘蛛を討つため柏峡の大野にやどる。直入物部神らに誓約して石の占いを行う。

景行18年7月7日
八女県に天皇到着。藤山を越え粟岬を望んだとき、水沼県主猿大海が八女津媛という女神が山中にあることを奏言。

景行40年
日本武尊、相模から上総へ渡ろうとする。暴風を鎮めるため、穂積氏忍山宿祢のむすめ弟橘媛が海に入る。

仲哀9年2月5日
天皇崩御。皇后は物部胆咋連ら四大夫に詔して、天下の騒乱に備えて宮中を守らせる。

仁徳87年
住吉仲皇子、去来穂別太子の宮を襲う。物部大前宿禰らは太子を助け、馬に乗せ脱出させる。一説に、大前宿禰が太子を抱いて馬に乗せたという。太子、石上振神宮に拠る。

履中2年10月
磐余に都を造る。物部伊莒弗大連らが執政。

履中3年11月6日
天皇、市磯池に遊ぶとき、季節外れの桜の花びらが盃に散る。天皇はこれを怪しみ、物部長真胆連に調査を命ず。長真胆連は腋上の室山で桜を手に入れた。そのため、長真胆連は姓を賜り稚桜部連といった。

允恭42年10月
木梨軽太子、群臣人民の離反することを知り、物部大前宿禰の家に身をひそめたため、穴穂皇子、これを包囲する。大前宿禰、軽太子の助命を嘆願するも、太子は自害する。一説に伊予に流すという。

安康3年11月13日
雄略天皇、泊瀬朝倉宮に即位する。物部連目、大伴連室屋を大連とする。

雄略7年8月
吉備下道臣前津屋、舎人の吉備弓削部虚空を自分のもとに留めて、幾月も帰京させず。身毛君丈夫を遣わし呼び戻したところ、虚空の報告するところによると、前津屋は天皇を侮辱する遊びに興じているという。天皇、それを聞き、物部の兵士三十人を遣わして前津屋とその一族七十人を殺さしめる。

雄略9年2月1日
采女を犯した凡河内直香賜を天皇は殺すことを命じたが、香賜が逃げ隠れたために、さらに弓削連豊穂を遣わして広く捜索させ、三島郡藍原で捕えて処刑した。

雄略12年10月10日
木匠闘鶏御田に命じて楼閣を造らせる。このとき飛ぶように素早く働く御田を見た伊勢の采女は驚いて倒れ、天皇は御田が采女を姦そうとしたと疑い、罰するため刑吏の物部に渡した。しかし、天皇のそばに侍っていた秦酒公の歌により、罪を許されたという。

雄略13年3月
采女を犯した狭穂彦玄孫歯田根命を、物部目大連に預けて責めさせた。歯田根命は資財をもって罪科を償い、資財は餌香市に晒された。餌香長野邑は物部目大連に賜る。

雄略13年9月
天皇、木匠猪名部真根の技術をためすべく、石を台にして作業する彼の前で裸の采女に相撲を取らせ、それを見た真根が気を奪われ失敗すると責め、刑吏の物部に渡し、処刑しようとした。真根の同僚が惜しむ歌を聞いた天皇は後悔し、赦免した。

雄略18年8月10日
物部目連、物部菟代宿祢の二人を将として、伊勢の賊・朝日郎を討つ。菟代宿禰は朝日郎の強弓を恐れ進まなかったが、目連は筑紫企救物部の大斧手に楯をとらせて自ら突撃、朝日郎を斬った。菟代宿禰は恥じて七日に及ぶまで復命せず、天皇の怒りに触れて猪使部を没収され、これは目連に賜った。

仁賢11年8月
仁賢天皇崩御。稚鷦鷯太子、物部麁鹿火の娘・影媛を娶ろうとするも、平群臣鮪がすでに影媛を犯していたことを知り、平群臣の無礼を怒る。太子の命を受けた大伴金村連の兵により鮪は殺され、影媛は悲しみ歌をつくる。

継体元(507)年1月4日
物部麁鹿火、許勢男人とともに、大伴金村の議る男大迹王擁立に同意する。

継体元(507)年2月4日
男大迹王即位(継体天皇)。物部麁鹿火・大伴金村を大連とし、旧例の職位のままに任じる。

継体6(512)年4月6日
穂積臣押山を百済に遣わして筑紫国の馬四十頭を賜る。

継体6(512)年12月
任那国の四県を百済に割譲する使者に、物部麁鹿火が選ばれるも、妻の諌めによって使者の役を避ける。

継体7(513)年6月
穂積臣押山、百済の姐弥文貴将軍・洲利即爾将軍に同道して帰国。

継体9(515)年2月4日
文貴将軍ら帰国。物部至至連をこれに副えて遣わす。

継体9(515)年2月
巨済島で伴跛の人の無道を聞き、物部至至連、帯沙江へ水軍五百を率いて向かう。

継体9(515)年4月
物部連、帯沙江に六日留まるも、伴跛の襲撃に怖れ、汶慕羅島へ逃れる。

継体10(516)年5月
百済、物部連を己汶に迎えてねぎらい、その後国に入れて慰問する。

継体10(516)年9月
百済の州利即次将軍来日。物部連帰国。

継体21(527)年6月3日
磐井の乱起こる。鎮圧の将軍に、物部麁鹿火が推挙される。

継体21(527)年8月1日
物部麁鹿火、磐井討伐の勅を受ける。

継体22(528)年11月11日
物部麁鹿火率いる官軍と、磐井の軍、筑紫の三井で交戦。麁鹿火、磐井を斬り反乱を鎮圧する。

継体23(529)年3月
百済王が穂積臣押山に加羅の多沙津を朝貢の海路として賜りたい旨いい、押山は伝奏。
物部伊勢連父根らを遣わし、多沙津を百済王に賜る使者とするが、加羅の王の反対にあって退く。別に禄史を遣わして、勅を伝えたという。

継体25(531)年2月7日
安閑天皇即位。物部麁鹿火を大連とすることは、もとのとおり。

安閑元(534)年3月6日
物部木蓮子大連の娘・宅媛、立妃。

安閑元(534)年閏12月
廬城部連の娘・幡姫、物部大連尾輿の首飾りを盗み、春日山田皇后にたてまつる。事は露見し、尾輿は自分が事件と係り合うのを恐れ、大和国十市部・伊勢国の来狭々・登伊の贄土師部・筑紫国胆狭山部などを献上する。

宣化元(536)年2月1日
物部麁鹿火大連を大連とすることはもとのとおり。

宣化元(536)年5月1日
筑紫国の凶作に備える詔。物部大連麁鹿火は新家連を遣わし、新家屯倉の籾を運ばせる。

宣化元(536)年7月
物部麁鹿火大連、薨じる。

宣化4(539)年12月5日
欽明天皇即位。物部尾輿を大連とすることはもとのとおり。

欽明元(540)年9月5日
天皇、難波祝津宮行幸。物部大連尾輿らが従う。新羅討伐の軍勢がどれだけあればよいかという下問があり、尾輿、少ない軍では討つことができないこと、継体六年に任那四県を百済に割譲したのを新羅が恨みに思っていることを奏する。

欽明4(543)年9月
百済の聖明王、物部施徳麻奇牟らを遣わして、扶南の財物・奴二人を献ずる。

欽明5(544)年2月
これより以前、物部連奈率用歌多、百済の使者として天皇に謁見し、詔書を持ち帰る。

欽明5(544)年3月
物部奈率哥非、百済の使者として来朝する。

欽明13(552)年10月
仏教公伝。仏を祀るかどうかの下問に、物部大連尾輿は排仏を主張。後、疫病が流行したのは蘇我大臣稲目の崇仏によるものとし、向原の寺を焼き、仏像は難波の掘江に流す。

欽明15(554)年2月
百済の上部奈率物部烏、援軍を請う使者として来朝。

欽明15(554)年12月
百済は下部杆率汶斯干奴を遣わし、対新羅戦の戦況を報告、並びに援軍の増援を要請。東方領の物部莫哥武連は函山城攻略の将。竹斯物部莫奇委沙奇は火箭の扱いが上手かったという。

欽明16(555)年7月4日
蘇我大臣稲目宿祢・穂積磐弓臣らを吉備の五郡に遣わし白猪屯倉を設置する。

敏達元(572)年4月
敏達天皇即位。物部弓削守屋大連を大連とすることはもとの通り。

敏達12(583)年
百済から火葦北國造刑部靭部阿利斯登の子、日羅を召し、阿斗桑市に住居を与える。天皇、物部贄子連らを遣わして、国政のあり方について問う。後、百済の徳爾によって日羅暗殺。贄子大連らに小郡の西畔の丘の前に葬るよう詔する。

敏達14(585)年3月1日
物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫が奏上して、国内に疫病がおこって死者が多いのは、蘇我臣が仏教を広めたことによるといい、天皇、即刻仏教を止めさせるよう詔する。

敏達14(585)年3月30日
物部守屋大連、みずから寺に赴き、塔を倒し、仏像仏殿等を焼かしめる。

敏達14(585)年6月
ある説に、物部守屋大連、大三輪逆君、中臣磐余連がともに謀り、寺塔を焼き仏像を捨てようとしたが、蘇我馬子宿禰が反対したためできなかったという。

敏達14(585)年8月15日
敏達天皇崩御。殯宮での誄を述べるとき、蘇我馬子宿禰大臣と物部弓削守屋大連、諍いを起こし、恨みを抱きあうようになったという。

敏達14(585)年9月5日
用明天皇即位。物部弓削守屋連を大連とすることはもとのとおり。

用明元(586)年5月
物部守屋大連、穴穂部皇子の命により、三輪君逆を討つ。

用明2(587)年4月2日
用明天皇、病を得て仏門に帰依することを群臣に諮る。物部守屋大連と中臣勝海連はそれに反対。物部守屋大連、押坂部史毛屎の言により群臣たちが自分を落とし入れようとしていることを知り、河内の阿都の別邸へ退き、人を集める。物部八坂・大市造小坂・漆部造兄を蘇我大臣のもとへ遣わし、阿都へ移った理由を述べる。

用明2(587)年5月
物部大連の軍が人々を三度に渡って驚かす。

用明2(587)年7月
蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣とともに、物部守屋大連を滅ぼす。守屋大連は渋川の家に拠り防戦し、寄せ手を三度退却させたが、迹見首赤梼によって射殺される。大連の一族は、ある者は葦原に逃げ隠れ、また姓を改め名を変える者もあったという。乱後、摂津に四天王寺が建立。大連の奴の半分と宅とを分け、寺の奴・田荘とする。守屋大連の難波宅を守っていた捕鳥部万、大連の敗死を聞き茅渟の有真香邑へ逃亡し、追っ手の官軍に反抗するも力尽きて自殺。

崇峻5(592)年12月8日
豊御食炊屋姫即位(推古天皇)。

推古元(593)年1月4日
厩戸皇子を皇太子とする。

推古8(600)年
境部臣を大将軍に穂積臣を副将軍に任じ、新羅を討つ。

推古11(603)年12月5日
冠位十二階を制定。

推古12(604)年4月3日
皇太子、憲法十七条を作る。

推古15(607)年7月3日
小野妹子を大唐(隋)に遣わす。

推古16(608)年8月3日
大唐(隋)の使者・裴世清ら、飛鳥に入る。案内役に物部依網連抱と阿倍鳥臣。

推古22(614)年6月13日
矢田部造御嬬を大唐に遣わす。

推古23(615)年9月
矢田部造御嬬が大唐から戻る。

推古31(623)年
境部臣雄摩侶・中臣連国の率いる軍が新羅を討つ。副将軍に物部依網連乙等ら。

推古36(628)年9月
推古天皇の後継を蘇我蝦夷大臣と群臣が議す。采女臣摩礼志は大伴連鯨らとともに田村皇子を推す。

推古36(628)年
蘇我蝦夷大臣、皇嗣問題で境部臣摩理勢と対立。大臣は摩理勢を討ち、来目物部伊区比に絞殺させる。

舒明元(629)年4月1日
田部連を掖玖に遣わす。

舒明2(630)年9月
田部連らが掖玖より戻る。

皇極2(643)年10月6日
蘇我大臣蝦夷、病のため登朝せず。ひそかに紫冠を子の入鹿に授け大臣の位になぞらえる。また、入鹿の弟を称して物部大臣という。大臣の祖母は物部守屋の妹であるので、母方の財によって世に威を張ったという。

大化元(645)年6月12日
中大兄皇子ら、蘇我臣入鹿を殺す。(乙巳の変)

大化元(645)年9月3日
古人大兄皇子、謀反を企てる。物部朴井連椎子がこの計画に参加。

大化2(646)年1月1日
改新の詔を発布。

大化2(646)年3月19日
東国の国司として派遣されていた穂積臣咋、巨勢臣徳祢の次官を勤めていた朴井連ら、怠慢・法の違反により罪に問われるが大赦。

大化5(649)年3月24日
蘇我倉山田石川麻呂が蘇我臣日向の讒言を受ける。天皇、穂積噛臣らを叛乱の真偽を問う使者として遣わす。

大化5(649)年3月25日
采女臣使主麻呂、山田寺で蘇我倉麻呂が自殺したことを将に報告。

大化5(649)年3月26日
穂積臣噛、蘇我倉麻呂の一党の田口臣筑紫らを捕らえ、軍を率いて山田寺を囲む。麻呂の首は物部二田造塩が斬り落とす。

斉明3(657)年
新羅の遣唐使につけて依網連稚子ら我が国の使いも大唐に送ろうとしたが、新羅の協力が得られず頓挫。

斉明4(658)年11月5日
蘇我赤兄、有馬皇子に謀反の疑いありとして、物部朴井連鮪に皇子の市経の家を囲ませる。

斉明7(661)年8月
百済救援の軍を派遣。後軍の将は大花下阿倍引田比邏夫臣と大山上物部連熊。

斉明7(661)年9月
大山下狭井連檳榔が率いる五千余の兵に守らせて豊璋を百済へ送る。

天智元(662)年12月1日
豊璋と福信が遷都について狭井連らに相談。反対されるも避城に都する。

天智2(663)年8月28日
倭軍、白村江にて新羅・唐軍に敗退。

天智6(667)年3月19日
都を近江に遷す。

天智9(670)年2月
庚午年籍を作る。

天武元(672)年5月
朴井連雄君が大海人皇子に美濃へ私用で出かけたときに得た近江朝側の情報を奏上。

天武元(672)年6月24日
大海人皇子が吉野を出て東国に入る。舍人朴井連雄君、安斗連智徳らがつき従う。

天武元(672)年6月26日
伊勢国朝明郡の迹太川にて大海人皇子が天照大神を遥拝。漆部友背らを伴として大津皇子が合流。安斗連阿加布を東海道諸国の軍兵を募るために遣わす。近江朝廷、大海人皇子が東国に向かったことを聞き、穂積臣百足・穂積臣五百枝・物部首日向を倭京へ遣わす。

天武元(672)年6月29日
穂積臣百足、大伴連吹負の兵によって殺される。穂積臣五百枝・物部首日向は捕らえられた後許されて大海人皇子側の軍中に入る。

天武元(672)年7月23日
大友皇子、山前にて自縊。ときに左右大臣や群臣は皆散り逃げ、付き従っていたのは物部連麻呂と一、二の舎人のみ。

天武2(673)年2月27日
大海人皇子即位(天武天皇)。

天武3(674)年8月3日
忍壁皇子を石上神宮に遣わして、神宝を磨かせる。神府に納められていた諸家の宝物は、皆その子孫に返還する勅。

天武4(675)年4月10日
大山中曽祢連韓犬を遣わして大忌神を広瀬の河原に祭らせる。

天武5(676)年6月
物部雄君連、急病で卒する。壬申年の功により、内大紫の位と物部の氏上を追贈。

天武5(676)年10月10日
大乙上物部連麻呂、遣新羅使の大使として派遣される。

天武6(677)年2月1日
物部連麻呂、新羅より戻る。

天武9(680)年7月17日
朴井連子麻呂が小錦下の位を授かる。

天武10(681)年3月17日
忍壁皇子・中臣連大嶋らに帝記・上古の諸事を記定させる。

天武10(681)年7月4日
小錦下采女臣竹羅を大使として新羅に遣わす。

天武10(681)年12月29日
物部連麻呂・曽祢連韓犬・田部連国忍らが小錦下の位を授かる。

天武12(683)年9月23日
水取造・矢田部造・刑部造・物部首・白髪部造ら三十八氏が連の姓を賜る。

天武13(684)年1月28日
小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わし地勢を視察させる。

天武13(684)年11月1日
物部連・采女臣・穂積臣ら五十二氏が朝臣の姓を賜る。

天武13(684)年12月2日
巫部連、忍壁連、漆部連、若湯人連、弓削連、氷連、矢集連、狭井連、阿刀連、菟道連、布留連ら五十氏が宿祢の姓を賜る。

朱鳥元(686)年1月
新羅の使者・金智祥を饗するため、直広肆穂積朝臣虫麻呂らを筑紫に遣わす。

朱鳥元(686)年1月14日
難波宮で火災。阿斗連薬の家の失火を原因とする噂があった。

朱鳥元(686)年9月9日
天武天皇崩御。

朱鳥元(686)年9月27日
直大肆采女朝臣竺羅、内命婦の事を誄する。

朱鳥元(686)年9月28日
直広參石上朝臣麻呂、法官の事を誄する。

朱鳥元(686)年9月29日
直広肆穂積朝臣虫麻呂、諸国の国司の事を誄する。

持統3(689)年2月26日
穂積朝臣山守らが判事に任じられる。

持統3(689)年7月20日
偽の兵衛、河内国渋川郡の人・柏原広山を土佐国に流す。

持統3(689)年9月10日
直広参石上朝臣麻呂らを筑紫に遣わし、位記の給付と新城の監視をさせる。

持統4(690)年1月1日
持統天皇即位。物部(石上)麻呂朝臣、大楯を立てる。

持統5(691)年8月13日
石上氏、采女氏、穂積氏ら十八氏に詔して、その先祖の墓記を上進させる。

持統6(692)年3月
石上朝臣麻呂、伊勢行幸に従駕。

持統8(694)年6月8日
河内国更荒郡から白い山鶏が献上され、これを捕らえた刑部造韓国に進広貳の位と物を賜る。

持統8(694)年12月6日
藤原京に遷都。

持統10(696)年4月27日
伊予国風速郡の人・物部薬に追大弐の位と水田四町等を授けたうえ、戸の調役を免除する。長く唐地で苦労したことを労わったもの。

持統10(696)年10月22日
直広壱石上朝臣麻呂に、仮に舎人五十人を私用することを許す。

文武元(697)年11月11日
進広参習宜連諸国を海路から筑紫に遣わし、前月来朝した新羅からの使者を迎える。

文武2(698)年11月23日
大嘗祭。直広肆榎井朝臣倭麻呂が大楯を立てる。

文武4(700)年6月17日
浄大参刑部親王、直広壱藤原朝臣不比等、追大壱狭井宿祢尺麻呂らに勅して律令を選定させる。その各々に身分に応じて物を賜る。

文武4(700)年10月15日
直大壱石上朝臣麻呂が筑紫総領に任じられる。

大宝元(701)年1月15日
大納言正広参大伴宿祢御行が薨じる。直広肆榎井朝臣倭麻呂を遣わし葬儀を監護させる。

大宝元(701)年3月21日
新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正。中納言直大壱(正四位上相当)石上朝臣麻呂が正冠・正三位を授かり、大納言に任じられる。

大宝元(701)年7月21日
左大臣正二位多治比真人嶋が薨じる。三品刑部親王と正三位石上朝臣麻呂を嶋の邸宅に遣わし、物を贈って弔わせる。
壬申の乱の功臣にそれそれの功績の程度に応じて食封を与える。持統朝に榎井連小君(朴井連雄君)ら十人に百戸が与えられていたが、大宝令功封条に従ってその子に四分の一を相続させることとする。

大宝元(701)年8月3日
大宝律令完成。

大宝2(702)年3月11日
従七位下巫部宿祢博士の位一階昇進。

大宝2(702)年8月16日
正三位石上朝臣麻呂が太宰師に任じられる。

大宝2(702)年12月22日
持統上皇崩御。

大宝3(703)年1月2日
正八位上穂積朝臣老を山陽道に遣わし、巡視させる。

大宝3(703)年2月4日
従七位下衣縫造孔子に連の姓を賜る。

大宝3(703)年閏4月1日
右大臣従二位阿倍朝臣御主人が薨じる。正三位石上朝臣麻呂らを遣わし、物を贈って弔わせる。

慶雲元(704)年1月7日
大納言従二位石上朝臣麻呂が右大臣に任じられ、正六位上穂積朝臣山守や従六位上采女朝臣枚夫、従六位下曽祢連足人、従六位上石上朝臣豊庭らが従五位下を授かる。

慶雲元(704)年1月11日
右大臣従二位石上朝臣麻呂が二千百七十戸の封戸を与えられる。

慶雲4(707)年10月3日
従五位上石上朝臣豊庭らが六月に崩御した文武天皇の造山陵司に任じられ、従五位上采女朝臣枚夫らが御装司に任じられる。

和銅元(708)年1月11日
和銅に改元。従二位石上朝臣麻呂が正二位を授かり、正六位上阿刀宿祢智徳に従五位下を授かる。

和銅元(708)年3月13日
右大臣正二位石上朝臣麻呂が左大臣に任じられる。

和銅元(708)年7月15日
天皇、二品穂積親王・左大臣石上朝臣麻呂らを召し、日頃の務めを労うとともに、天皇の意を汲み各自努力することを詔する。

和銅2(709)年1月9日
従六位下穂積朝臣老が従五位下を授かる。

和銅2(709)年3月23日
はじめて造雑物法用司を置き、従五位上采女朝臣枚夫らが任じられる。

和銅2(709)年6月28日
従七位下の殖栗物部名代が殖栗連の姓を賜る。

和銅3(710)年1月1日
天皇、朝賀を受ける。隼人と蝦夷も参列し、これを朱雀大路に率いて進む左の副将軍に従五位下穂積朝臣老。

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