【物部氏年表】3- 平安時代前期


■ 平安時代前期

延暦13(794)年10月22日
天皇、新京へ移る。

延暦13(794)年11月8日
山背国を山城国に改め、新京を平安京と命名。

延暦15(796)年7月9日
従五位下石上朝臣宅子が従五位上を授かる。外従五位上物部多芸連建麻呂が造宮大工に任じられる。

延暦15(796)年11月10日
無位の弓削宿祢美濃人が従五位下を授かる。

延暦16(797)年2月7日
従五位下弓削宿祢美濃人らの位田を男子並みに支給するようにとの勅。

延暦16(797)年2月17日
太政官史生従七位下安都宿祢笠主が位二階を叙される。撰日本紀所への供奉による。

延暦16(797)年11月5日
坂上大宿祢田村麻呂が征夷大将軍に任命される。

延暦18(799)年1月12日
従五位下石上朝臣真家が従五位上を授かる。

延暦18(799)年4月3日
故正五位下上毛野朝臣稲人の賤である宅敷女の息子二人が、物部の姓を賜る。

延暦18(799)年6月4日
左衛士少志・矢田部常陸麻呂が平城京に遣わされ、内竪・雀部広道を逮捕する。

延暦18(799)年12月29日
諸氏に本系帳の撰上を命ずる。

延暦21(802)年8月13日
降伏した蝦夷の首長・阿弖流為らを処刑する。

延暦22(803)年4月28日
典薬頭藤原貞嗣と造宮大工物部建麻呂らが遣わされ、遣唐使船と破損物品を調査する。

延暦23(804)年2月5日
大和国石上神宮の武器を、山城国葛野郡に運び収める。

延暦23(804)年2月25日
外従五位下殖栗連宗継が美濃権介に任じられる。

延暦23(804)年6月9日
従五位下石上朝臣乙名が散位頭に任じられる。

延暦23(804)年6月20日
散位従三位石上朝臣家成が薨じる。八十三歳。

延暦23(804)年11月13日
左京の人従七位下大俣連三田次が大貞連の姓を賜る。

延暦24(805)年2月10日
造石上神宮使正五位下石川朝臣吉備人らが、石上神宮修造に要する労務者の数を延べ十五万七千余人と上申。天皇の病は延暦二十三年の葛野への武器の運収を不当とする石上神の神意とされる。

延暦24(805)年5月10日
土佐国香美郡の少領外従六位上物部鏡連家主が位二階を授かる。

大同元(806)年2月15日
正六位上安都宿祢豊永が外従五位下を授かる。

大同元(806)年2月26日
故・従五位下箭集宿祢虫麻呂の功田五町を、子がいなくなったので収公する。

大同元(806)年3月14日
右京の人、従八位下物部首縵麻呂が高狩忌寸の姓を賜る。

大同元(806)年3月17日
桓武天皇崩御。

大同2(807)年2月13日
斎部宿祢広成、古語拾遺を撰述。

大同2(807)年3月3日
相模国愛甲郡の人、物部国吉女が三つ子を産んだので、稲三百束を賜る。

大同3(808)年1月25日
正六位上物部敏久が外従五位下を授かる。

大同3(808)年3月?日
伝灯大法師仁秀が充野寺で没。俗姓は物部首、伊予国の人。

大同4(809)年4月30日
正六位上物部匝瑳連足継が外従五位下を授かる。

弘仁元(810)年1月7日
正六位上石上朝臣美奈麻呂が従五位下を授かる。

弘仁元(810)年1月21日
土佐国香美郡の人、物部文連全敷女が少初位上を授かり、戸の田祖を終身免除。全敷女は同郡物部鏡連家主の妻。

弘仁元(810)年8月8日
天皇の病の快癒を祈願し、石上神宮に奉幣。

弘仁元(810)年9月11日
薬子の変が起こる。

弘仁元(810)年10月12日
正六位上采女朝臣枚麻呂が従五位下を授かる。

弘仁元(810)年10月21日
河内国の人、従七位下勇山国嶋、正八位上真継、従八位下文継らが、連の姓を賜る。

弘仁2(811)年1月29日
従六位下勇山連文継が外従五位下を授かる。

弘仁2(811)年2月13日
外従五位下勇山連文継が紀伝博士のまま相模権掾に任じられる。

弘仁2(811)年2月20日
外従五位下勇山連文継が紀伝博士・相模権掾のまま大学助に任じられる。

弘仁2(811)年3月20日
鎮守副将軍外従五位下物部匝瑳連足継らが、爾薩体・幣伊の蝦夷討滅の勅を受ける。

弘仁2(811)年4月4日
陸奥国の人・外正六位下志太連宮持が勇敢なことを賞され外従五位下を授かる。 

弘仁2(811)年6月1日
従五位下石上朝臣美奈麻呂が兵部少輔に任じられる。

弘仁2(811)年12月13日
蝦夷討伐の功により、外従五位下物部匝瑳連足継が外従五位上を授かる。

弘仁2(811)年閏12月18日
大和国の人従八位下大俣連福貴麻呂が大眞連の姓を賜る。

弘仁2(811)年閏12月25日
正六位下物部田継が外従五位下を授かる。

弘仁3(812)年1月7日
正六位上の高丘宿祢弟越、勇山連家継らが外従五位下を授かる。

弘仁3(812)年1月8日
故・下野介外従五位上高原連源が従五位下を贈られる。

弘仁3(812)年2月10日
外従五位上物部匝瑳連足継が鎮守将軍に任じられる。

弘仁3(812)年3月24日
右京の人、弓削宿祢立麻呂が連理木を献上。

弘仁3(812)年5月3日
従六位上安都宿祢吉子が従五位下を授かる。

弘仁3(812)年8月1日
従五位下石上朝臣美奈麻呂が周防守に任じられる。

弘仁4(813)年1月5日
参河国の人、外従五位下物部敏久が物部中原宿祢の姓を賜る。

弘仁4(813)年1月7日
外従五位上物部匝瑳連足継が従五位下を授かる。

弘仁4(813)年1月24日
大和国の人、従六位下物部福麻呂が広澄宿祢の姓を賜る。

弘仁4(813)年2月13日
外従五位下勇山連家継が大学博士に任じられ、外従五位下物部中原宿祢敏久が大判事に任じられる。

弘仁5(814)年5月8日
皇子女を臣籍降下させる詔(嵯峨源氏のはじまり)。

弘仁6(815)年1月7日
正六位上広澄宿祢福麻呂が外従五位下を授かる。

弘仁6(815)年7月2日
河内国の人、外従五位下勇山連家継、外従五位下文継、正七位上国嶋、正七位下真継らを、右京に付貫。

弘仁6(815)年7月20日
万多親王ら、新撰姓氏録を撰上。

弘仁6(815)年8月10日
外従五位下広澄宿祢福麻呂が造西寺次官に任じられる。

弘仁7(816)年1月7日
従五位下物部匝瑳連足継が従五位上を授かる。

弘仁7(816)年6月15日
外従五位下勇山連文継が従五位下を授かる。天皇が『史記』を文継から学んでいたのが完了したための授位。

弘仁8(817)年~弘仁13(822)年?
このころ勇山連文継・勇山連真継らが安野宿祢の姓を賜る。

弘仁10(819)年1月7日
外従五位下物部中原宿祢敏久が従五位下を授かる。

弘仁11(820)年1月7日
正六位下越智直吉継が外従五位下を授かる。

弘仁13(822)年1月7日
正六位下殖栗連浄成が外従五位下を授かる。

弘仁13(822)年6月4日
最澄が死去。

弘仁13(822)年10月1日
正六位上石上朝臣雖が従五位下を授かる。

弘仁13(822)年11月1日
従五位下石上朝臣美奈麻呂が従五位上を授かる。

弘仁14(823)年1月7日
従五位下安野宿祢文継が従五位上を授かり、正六位上安野宿祢真継が外従五位下を授かる。

天長元(824)年1月7日
従五位下物部中原宿祢敏久が従五位上を授かる。

弘仁14(823)年~天長3(826)年?
このころ物部中原宿祢敏久が興原宿祢の姓を賜る。

天長3(826)年1月7日
従五位下安野宿祢文継が正五位下を授かる。

天長4(827)年1月21日
従五位上興原宿祢敏久が正五位下を授かる。

天長4(827)年8月9日
東宮学士の正五位下安野宿祢文継が従四位下を授かる。

天長5(828)年1月7日
外従五位下安野宿祢真継が従五位下を授かる。

天長5(828)年10月26日
東宮学士の従四位下安野宿祢文継が卒する。五十六歳。

天長7(830)年6月22日
節婦風早直益吉女が位二階を叙され終身その田租を免除。

天長7(830)年閏12月26日
正五位下興原宿祢敏久が正五位上を授かる(格式作成の功績による)。

天長8(831)年1月7日
従五位上石上朝臣美奈麻呂が正五位下を授かる。

天長8(831)年2月16日
囚獄司の物部の定員は四十人であるが、名負氏の有資格者が足りないため、他氏からも十人採用することとする。

天長8(831)年8月10日
淳和天皇が神泉苑に行幸。主税頭従五位下安野宿祢真継らを召し、春秋三伝や三礼について論議させる。

天長10(833)年3月6日
従五位下安野宿祢真継が従五位上を授かる。

天長10(833)年3月13日
従五位下春澄宿祢善縄が大内記のまま東宮学士に任じられる。

承和元(834)年1月7日
正六位上風早直豊宗が外従五位下を授かる。

承和元(834)年1月12日
従五位下春澄宿祢善縄が東宮学士・大内記のまま摂津介に任じられる。

承和元(834)年5月19日
主殿允の正六位上物部匝瑳連熊猪が外従五位下を授かり、鎮守将軍に任じられる。

承和元(834)年11月26日
囚獄司の物部が用いる刀緒の色を呉桃に定める。

承和元(834)年12月19日
散位の従七位下川上造吉備成が春道宿祢の姓を賜る。

承和2(835)年2月4日
俘囚の勳五等吉弥侯宇加奴・勳五等吉弥侯志波宇志・勳五等吉弥侯億可太らが物部斯波連の姓を賜る。

承和2(835)年3月16日
下総国の人で鎮守将軍の外従五位下勲六等物部匝瑳連熊猪が宿祢の姓を賜り、左京二条へ貫附される。

承和2(835)年3月21日
空海が死去。

承和2(835)年10月26日
摂津国の人で散位の矢田部聰耳と弟の従八位上貞成らが興野宿祢の姓を賜る。

承和2(835)年11月13日
左京の人・正六位上越智直年足と伊予国越智郡の人・正六位上越智直広成ら七人の姓直を改めて宿祢を賜る。

承和3(836)年1月7日
正六位上物部首広国が外従五位下を授かる。

承和3(836)年閏5月8日
散位の春道宿祢吉備成らの本居を改めて右京七条二坊に貫附する。

承和4(837)年1月9日
伊予国の人で典薬権允の物部首広宗とその弟の真宗らを左京二条四坊に貫附する。

承和4(837)年4月5日
大和国の人で内藏史生の大俣連福山が大貞連の姓を賜る。

承和4(837)年4月21日
陸奧出羽按察使の坂上大宿祢浄野が鎮守将軍の匝瑳宿祢末守からの報告を元に援兵一千人の派遣を上申、許可される。

承和5(838)年12月27日
大安寺の僧・伝灯大法師位寿遠が卒する。俗姓椋橋部氏、武蔵国の人。

承和6(839)年1月7日
正六位上物部首広泉が外従五位下を授かる。

承和6(839)年4月26日
陸奥守の正五位下良岑朝臣木連と鎮守将軍の従五位下匝瑳宿祢末守が上申した兵一千人の徴発が許可される。

承和6(839)年10月19日
摂津国の人で直講博士の従六位下佐夜部首穎主が善友朝臣の姓を賜り、左京四条二坊に貫附される。

承和6(839)年11月5日
伊予国の人・外従五位下風早直豊宗ら一戸に善友朝臣の姓を賜り、左京四条二坊に貫附される。

承和7(840)年3月12日
俘夷の物部斯波連宇賀奴に、逆賊に与せず長く勲功があったため外従五位下を授ける。

承和7(840)年3月26日
陸奥守の正五位下良峯朝臣木連と前鎮守将軍の外従五位下匝瑳宿祢末守らに、奥地の人民が起こしている騒動を鎮めるため援兵を徴発して対処するよう勅。

承和8(841)年3月2日
右京の人でもと河内国志紀郡に住んでいた衣縫造金継女の孝行を賞して、三階に叙し終身その戸の田祖を免除。

承和8(841)年閏9月28日
伯耆国八橋郡の人・陰陽博士の正六位下春苑宿祢玉成の母、曽祢連家主女の姉妹・男女ら一戸の本居を改め、右京三条一坊に貫附される。

承和8(841)年11月20日
外従五位下善友朝臣豊宗が従五位下を授かる。

承和9(842)年1月7日
従五位下春澄宿祢善縄が従五位上を授かる。

承和9(842)年7月17日
承和の変が起こる。

承和9(842)年7月26日
従五位上春澄宿祢善縄が周防権守に任じられる。

承和10(843)年2月10日
従五位上春澄宿祢善縄が文章博士に任じられ、従五位下善友朝臣豊宗が大炊頭に任じられ、外従五位下匝瑳宿祢末守が安房守に任じられる。

承和10(843)年6月1日
承和の日本紀講筵が始まる(翌年6月15日終了)。博士は菅野朝臣高年。

承和10(843)年12月4日
摂津国豊嶋郡の人で左衛門府門部の正八位上迹連継麻呂と、式部位子従八位下勳八等迹連成人、散位正六位上迹連浄足と、式部位子少初位下迹連浄永ら七十人が、迹の字を除いて阿刀連の姓を賜る。(天平年間に迹一字を誤って姓としたものを元に戻す)

承和11(844)年1月7日
正六位上宇治宿祢丹生麻呂が外従五位下を授かる。

承和11(844)年8月5日
大納言正三位藤原朝臣良房の問いに文章博士従五位上春澄宿祢善縄と大内記従五位下菅原朝臣是善らが返答。嵯峨天皇の遺勅に怪異が起こるたび先祖の祟りのせいにすることを戒めるものがあったが、占いもある程度信じることにする。

承和12(845)年1月7日
正六位上善友朝臣穎主と氷宿祢継麻呂がそれぞれ外従五位下を授かる。

承和12(845)年2月2日
和泉国日根郡の人・正六位上春世宿祢嶋長らが榎井朝臣の姓を賜り右京二条一坊に貫附される。

承和12(845)年7月14日
右京の人で中務少録の正七位下巫部宿祢公成、大和国山辺郡の人で散位の従六位下巫部宿祢諸成、和泉国大鳥郡の人・正六位上巫部連継麻呂、従七位下巫部連継足、白丁の巫部連吉継らが、当世宿祢の姓を賜る。

承和12(845)年12月5日
外従五位下物部首広泉が侍医のまま内薬正に任じられる。

承和13(846)年1月13日
従五位上春澄宿祢善縄が文章博士のまま備中介に任じられる。

承和13(846)年3月9日
勘王世所の言上により、畿内諸国に命じ諸家の氏姓出自と皇胤の所在を調べさせる。

承和13(846)年12月27日
尾張国山田郡の人で内蔵少属の正六位上物部宮守が左京六条四坊に貫附される。

承和14(847)年1月7日
外従五位下物部首広泉が従五位下を授かる。

承和14(847)年2月11日
外従五位下善友朝臣穎主が大学博士に任じられる。

承和14(847)年5月11日
清涼殿において荘子の竟宴。天皇も文章博士従五位上春澄宿祢善縄の講義を受けていたため、殿上に善縄を招き杯を賜り束脩の礼を行う。善縄御衣二襲を賜る。

承和14(847)年5月27日
天皇、文章博士の春澄宿祢善縄を清涼殿に呼びはじめて漢書を読む。

承和15(848)年1月7日
従五位上春澄宿祢善縄が正五位下を授かり、正六位上榎井朝臣嶋公が外従五位下を授かり、外従五位下善友朝臣穎主が従五位下を授かる。

承和15(848)年1月13日
外従五位下榎井朝臣嶋公が摂津介に任じられ、外従五位下氷宿祢継麻呂が駿河介に任じられる。

承和15(848)年2月14日
正五位下春澄宿祢善縄が文章博士のまま備中守に任じられる。

承和15(848)年5月28日
従五位下善友朝臣豊宗が上総権介に任じられる。

嘉祥2(849)年1月7日
外従五位下榎井朝臣嶋公が従五位下を授かる。

嘉祥2(849)年5月2日
少内記従七位下安野宿祢豊道らが鴻臚舘に遣わされ、渤海国からの使いに勅書と太政官牒を賜る。

嘉祥2(849)年10月5日
近江国愛智郡の人で音博士の従六位下物部弥範と、散位の従六位上物部弘範らが左京六条二坊に貫附される。

嘉祥3(850)年4月17日
正五位下春澄宿祢善縄が従四位下を授かり、正六位上榎井朝臣嶋長が外従五位下を授かる。

嘉祥3(850)年7月9日
伊予国の人、物部連道吉らが位一階を叙される。

嘉祥3(850)年10月7日
大和国の石上神が正三位の神階を授かる。

仁寿元(851)年1月11日
従五位下善友朝臣穎主が摂津権介に任じられ、従五位下物部首広泉が内薬正侍医のまま伊予権掾に任じられる。

仁寿元(851)年4月1日
従四位下春澄宿祢善縄が出居侍従に任じられ、従五位下善友朝臣豊宗が次侍従に任じられる。

仁寿元(851)年4月8日
従五位下物部首広泉が次侍従に任じられる。

仁寿元(851)年4月25日
天皇が散位の従四位下春澄宿祢善縄を召し、北殿において文選を講じさせる。

仁寿元(851)年6月29日
摂津権介の従五位下善友朝臣穎主が卒する(72歳)。

仁寿元(851)年11月26日
正六位上春道宿祢永蔵が外従五位下を授かる。

仁寿2(852)年1月15日
従四位下春澄宿祢善縄が但馬守に任じられる。

仁寿2(852)年2月15日
従五位下善友朝臣豊宗が散位頭に任じられる。

仁寿3(853)年1月7日
正六位上物部弥範が外従五位下を授かる。

仁寿3(853)年1月16日
外従五位下春道宿祢永蔵が因幡介に任じられる。

仁寿3(853)年10月11日
但馬守の従四位上春澄宿祢善縄が朝臣の姓を賜る。

斉衡元(854)年1月7日
従五位下物部首広泉が従五位上を授かり、正六位上水取連継が外従五位下を授かる。

斉衡元(854)年1月16日
外従五位下榎井朝臣嶋長が主税頭に任じられる。

斉衡元(854)年9月23日
従四位下春澄朝臣善縄が但馬守のまま刑部大輔に任じられる。

斉衡元(854)年10月15日
内薬正の従五位上物部首広泉が朝臣の姓を賜る。

斉衡元(854)年10月20日
刑部大輔の春澄朝臣春縄、文章博士の菅原朝臣是善、民部少輔の大枝朝臣音人らが召され蔵人所において重陽節の詩を評す。

斉衡2(855)年2月17日
右大臣正二位藤原朝臣良房、参議従三位伴宿祢善男、刑部大輔従四位下春澄朝臣善縄、少外記正六位上安野宿祢豊道らが国史(続日本後紀)の編纂を命じられる。

斉衡3(856)年1月7日
正六位上安野宿祢豊道が外従五位下を授かる。

斉衡3(856)年9月3日
大僧都伝燈大法師位の実敏が卒する。俗姓は物部氏で尾張国愛智郡の人。

斉衡3(856)年9月27日
外従五位下榎井朝臣嶋長が越後介に任じられる。

斉衡3(856)年11月3日
刑部大輔の春澄朝臣善縄が天皇に晋書を講じる。

天安元(857)年1月7日
正六位上水取連柄仁が外従五位下を授かる。

天安元(857)年1月14日
外従五位下安野宿祢豊道が下総介に任じられ、従四位下春澄朝臣善縄が伊予守に任じられ、従五位上物部朝臣広泉が内薬正侍医のまま肥前介に任じられる。

天安元(857)年6月25日
大宰府からの言上で、対馬国の上県郡擬主帳卜部川知麻呂・下県郡擬大領直浦主らの率いる300余人が、国守の正七位下立野連正岑の館を襲撃し正岑と従者10人・防人6人を殺害していたことが明らかになる。

天安元(857)年11月25日
外従五位下水取連柄仁が鼓吹正に任じられる。

天安2(858)年1月7日
従四位下春澄朝臣善縄が従四位上を授かる。

天安2(858)年2月5日
従五位上物部朝臣広泉が内薬正侍医のまま参河権介に任じられる。

天安2(858)年4月11日
伊予守の従四位上春澄朝臣善縄らが諸大神社に遣わされる。

天安2(858)年12月8日
対馬守の正七位下立野連正峯を殺害した下県郡擬大領の直氏成らは斬刑に処するところだったが死一等を減じて遠流とされる。

貞観元(859)年1月27日
大和国の正三位勳六等石上神が従一位の神階を授かる。

貞観元(859)年11月19日
内薬正兼侍医参河権介の従五位上物部朝臣広泉が正五位下を授かる。

貞観2(860)年1月16日
伊予守の従四位上春澄朝臣善縄が参議に任じられる。

貞観2(860)年2月11日
無位水取連夏子が従五位下を授かる。

貞観2(860)年2月14日
散位の外従五位下春道宿祢永蔵が造酒正に任じられ、内薬正兼侍医参河権介の正五位下物部朝臣広泉が参河権守に任じられる。

貞観2(860)年5月23日
尾張国の人・従六位上笛吹部高継が本姓の物部屋形氏に復する。

貞観2(860)年10月3日
内薬正兼侍医参河権守の正五位下物部朝臣広泉が卒する(七十六歳)。

貞観2(860)年閏10月12日
豊後国権掾の正六位上越智宿祢広成が齢八十にも及ぶため官を辞すことを請い許可される。

貞観2(860)年11月16日
外従五位下春道宿祢永蔵が従五位下を授かり、右近衛将監兼土佐権掾の肩野連道主が外従五位下を授かる。

貞観3(861)年1月13日
参議の従四位上春澄朝臣善縄が式部大輔に任じられる。

貞観3(861)年10月28日
淡路国浪人の物部冬男は錦織広人を殺害していたため斬刑に処されるところであったが死一等を減じて遠流とされる。

貞観4(862)年1月7日
参議・式部大輔の従四位上春澄朝臣善縄が正四位下を授かる。

貞観4(862)年1月13日
散位の外従五位下肩野連道主が駿河権介に任じられる。

貞観4(862)年7月28日
摂津国西成郡の人で陰陽允の阿刀物部貞範が左京に貫附され、因幡国巨濃郡の人で中宮大属の正六位上物部門起が右京に貫附される。

貞観5(863)年2月10日
参議の正四位下春澄朝臣善縄が式部大輔のまま播磨権守を兼任する。

貞観5(863)年6月8日
甲斐国の従五位下勲十二等物部神が従五位下の神階を授かる。

貞観5(863)年8月8日
摂津国河辺郡の人で散位の正六位上若湯坐連宮足、主殿允の正六位上若湯坐連仁高ら三人の本居を改めて右京とする。

貞観5(863)年8月17日
和泉国大鳥郡の人で大蔵大録の正七位上当世宿祢高門の本居を改めて右京とする。

貞観6(864)年1月7日
太政大臣藤原朝臣良房、参議春澄朝臣善縄ら公卿が清和天皇の元服を賀し奉る。

貞観6(864)年1月16日
参議・式部大輔兼播磨権守の正四位下春澄朝臣善縄が式部大輔のまま近江守を兼任する。

貞観6(864)年5月11日
右京の人で因幡権掾の正六位上物部門起が春道宿祢の姓を賜る。

貞観6(864)年8月8日
左京の人で玄蕃大允の正六位上阿刀連粟麻呂、主殿大属の正六位上阿刀宿祢石成、下野権大目の正七位上阿刀連祢守、右京の人で陰陽允の阿刀物部貞範らが良階宿祢の姓を賜り、播磨国餝磨郡の人で陰陽師の従八位下弓削連是雄と父の正六位上弓削連安人らの本居を改めて河内国大県郡とする。左京の人で散事の従五位下水取連夏子、故外従五位下水取連柄仁、故外従五位水取連継男らが朝臣の姓を賜る。

貞観6(864)年8月17日
美濃国多芸郡の人で太政官史生の正八位下物部吉宗の本居を改め山城国愛宕郡とする。

貞観6(864)年8月25日
左京の人で主水令史の正七位下水取連継人と散位の正八位下水取連継主が宿祢の姓を賜る。

貞観7(865)年1月27日
造酒正の従五位下春道宿祢永蔵が内蔵助に任じられる。

貞観8(866)年1月7日
蔭子の春澄朝臣具瞻が従五位下を授かる。

貞観8(866)年3月28日
甲斐国の従五位上勲十二等物部神が正五位下の神階を授かる。

貞観8(866)年3月10日
応天門が炎上。

貞観8(866)年
この年、隠岐守の正六位上越智宿祢貞厚が浪人安曇福雄によって新羅人とともに反逆を企てたという理由で密告される。

貞観9(867)年3月10日
大和国の従一位勲六等石上神が正一位の神階を授かる。

貞観9(867)年3月11日
信濃国高井郡の人・従八位上物部連善常の本居を改め山城国紀伊郡とする。

貞観9(867)年4月17日
散位の従五位下春澄朝臣具瞻が侍従に任じられる。

貞観10(868)年1月8日
主殿允の正六位上若湯坐連仁高が外従五位下を授かり、春澄朝臣高子が従五位下を授かる。

貞観11(869)年1月7日
陰陽允の正六位上良階宿祢貞範が外従五位下を授かる。

貞観11(869)年3月22日
石見国の従五位上物部神が正五位下の神階を授かる。

貞観11(869)年10月26日
隠岐前守越智宿祢貞厚の謀反は調査の結果、誣告であることが判明し密告者の安曇福雄は斬刑に、貞厚は自らの管轄下で起こった殺人事件を弾劾しなかった件で斬刑となるところだったが罪一等を減じて遠流とされる。

貞観11(869)年12月8日
丹波国の正六位上物部簀掃神が従五位下の神階を授かる。

貞観12(870)年1月25日
参議・式部大輔の正四位下春澄朝臣善縄が式部大輔のまま讃岐守を兼任する。

貞観12(870)年2月7日
参議・式部大輔の正四位下春澄朝臣善縄に従三位を授ける。

貞観12(870)年2月19日
参議の従三位春澄朝臣善縄が薨じる。

貞観12(870)年7月5日
散位の外従五位下若湯坐連仁高が安房守に任じられる。

貞観12(870)年12月26日
伊予国宇摩郡の人・従七位上苅田首倉継、苅田首浄根らが物部連の姓を賜る。

貞観12(870)年12月29日
従五位下春道宿祢永蔵が次侍従に任じられる。

貞観13(871)年11月13日
伊予国越智郡の人で直講の外従五位下越智直広峯の本居を改めて左京とする。

貞観15(873)年9月9日
掌侍の従五位上春澄朝臣高子がその氏神に奉幣するため伊勢国へ向かう。

貞観15(873)年12月2日
左京の人で助教の外従五位下越智直広峯が善淵朝臣の姓を賜り、河内国大県郡の人で陰陽允の正七位上弓削連是雄の本居を改めて右京三条二坊とする。

貞観17(875)年10月10日
石見国の正五位下物部神が正五位上の神階を授かる。

貞観18(876)年7月11日
甲斐国の従四位下勲十二等物部神が従四位上の神階を授かる。

元慶元(877)年1月3日
陰陽権助兼播磨権少目の弓削連是雄が外従五位下を授かる。

元慶元(877)年2月22日
掌侍の従五位上春澄朝臣高子が皇太夫人藤原高子の諱を避けて名を洽子に改める。

元慶元(877)年12月25日
右京の人で陰陽権助の外従五位下弓削連是雄が宿祢の姓を賜る。讃岐国寒川郡の人で木工大允の正六位上矢田部造利人の本居を改めて山城国愛宕郡とする。

元慶元(877)年12月27日
右京の人で散位の従五位下肩野連道主と近江少目の従七位上肩野連乙守が良棟宿祢の姓を賜る。

元慶2(879)年2月25日
元慶の日本紀講筵が始まる(元慶5年6月29日終了)。博士は善淵朝臣愛成。

元慶3(879)年9月4日
石見国の正五位上物部神が従四位下の神階を授かる。

元慶3(879)年11月25日
鋳銭長官兼周防守の春澄朝臣具瞻が従五位上を授かる。

元慶4(880)年2月8日
甲斐国の従四位上勲十二等物部神が正四位下の神階を授かる。

元慶5(881)年3月26日
諸国の神社の祝部氏人の本系帳を三年に一度進上させる。

元慶5(881)年5月3日
陸奥蝦夷訳語の外従八位下物部斯波連永野が外従五位下を授かる。

元慶5(881)年5月13日
右衛門府生の従七位上善友朝臣益友、従八位下阿刀連良縄らが遣わされ山城・摂津・播磨の海賊を追捕する。

元慶5(881)年10月11日
小治田宿祢春雄らが左近衛権少将兼陸奥守の平朝臣末長の随身とするため陸奥国に遣わされる。

元慶6(882)年1月7日
陰陽権助兼備前権掾の外従五位下弓削宿祢是雄が従五位下を授かり、木工大允の正六位上矢田部造利人が外従五位下を授かる。

元慶6(882)年10月9日
近江国の正六位上物部布津神が従五位下の神階を授かる。

元慶8(884)年2月23日
典薬助の外従五位下物部朝臣内嗣が従五位下を授かる。

元慶8(884)年3月9日
縫殿頭の従五位下春澄朝臣魚水が駿河守に任じられる。

仁和元(885)年4月27日
陰陽権助の従五位下弓削宿祢是雄が陰陽頭に任じられる。

仁和2(886)年1月7日
散位の従七位上石上朝臣並松が従五位下を授かる。

仁和3(887)年1月7日
木工大允の正六位上猪名部造有吉が外従五位下を授かる。

仁和3(887)年1月8日
掌侍の正五位下春澄朝臣洽子が従四位下を授かる。

仁和3(887)年2月2日
外従五位下矢田部造利人が長門介に任じられる。

仁和3(887)年8月26日
光孝天皇崩御。宇多天皇践祚。

仁和3(887)年閏11月27日
阿衡の紛議。藤原朝臣基経が出仕を停め、政務が滞る。

仁和4(888)年4月
東国で物部氏永を首領とする群盗が蜂起。

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