【物部氏年表】2 - 奈良時代


■ 奈良時代

和銅3(710)年3月10日
平城遷都。左大臣正二位石上朝臣麻呂を藤原京の留守司とする。

和銅3(710)年4月23日
従五位上采女朝臣比良夫(枚夫)が近江守に任じられる。

和銅4(711)年4月7日
従五位上石上朝臣豊庭が従四位下を授かり、従五位上采女朝臣比良夫(枚夫)と従五位上曽祢連足人が正五位下を授かる。

和銅4(711)年9月4日
造都の労役から逃亡した民が多いため治安が悪く、未完成の平城宮の防衛も不十分なので、従四位下石上朝臣豊庭を将軍として兵器庫を守らせる。

和銅4(711)年10月23日
品や位による俸禄の支給規定を定める。罪人を扱う物部には絹糸二絇・銭十文。

和銅5(712)年1月19日
従五位上穂積朝臣山守が正五位下を授かる。

和銅5(712)年1月28日
古事記撰上。

和銅6(713)年1月23日
従七位下榎井朝臣広国が従五位下を授かる。

和銅6(713)年4月23日
従五位下穂積朝臣老が従五位上を授かる。

和銅6(713)年5月2日
国・郡・郷名に好字を選ばせる。風土記の編纂を命ずる。

和銅6(713)年5月12日
讃岐守大伴道足が寒川郡の物部乱ら二十六人が誤って飼丁の籍にあるので、良人に編入することを申請し、許可される。

和銅6(713)年8月26日
従五位下榎井朝臣広国が三河守に任じられる。

和銅2(709)年~和銅6(713)年?
このころ石上朝臣麻呂のむすめ国盛(国守)が藤原朝臣宇合に嫁す。

和銅7(714)年5月27日
土佐国の人・物部毛虫咩が三つ子を産んだので、これに籾四十斛と乳母を賜る。

和銅7(714)年6月14日
物部の族に寺人姓があるのは、寺で保有される賤民や奴婢と紛らわしいため、この姓を除き本姓に改める。

和銅7(714)年11月26日
従四位下大伴宿祢旅人が迎新羅使左将軍に、従四位下石上朝臣豊庭が右将軍に任じられる。右の副将軍は従五位上上毛野朝臣広人と従五位下粟田朝臣人上。

霊亀元(715)年1月10日
従四位下石上朝臣豊庭が従四位上を授かり、正五位下曽祢連足人に正五位上を授かる。

霊亀元(715)年7月27日
知太政官事穂積親王が薨じる。従四位上石上朝臣豊庭らを遣わされ、喪葬の事を監督する。

霊亀2(716)年4月27日
従五位下榎井朝臣広国が丹波守に任じられる。

養老元(717)年1月4日
従五位上穂積朝臣老が正五位下を授かる。

養老元(717)年3月3日
左大臣正二位石上朝臣麻呂薨じる。時に七十八歳。従一位を追贈。式部少輔正五位下穂積朝臣老、五位以上の官人の誄を行う。

養老元(717)年11月10日
故左大臣従一位石上朝臣麻呂の邸宅に、絁百疋、絲四百絇、白綿一千斤、布二百端を授ける。

養老元(717)年
この年、玄昉が学問僧として入唐。

養老2(718)年1月5日
正五位下穂積朝臣老に正五位上を授かる。

養老2(718)年5月30日
従四位上石上朝臣豊庭が卒する。

養老2(718)年9月19日
従四位上藤原朝臣武智麻呂が式部卿に、正五位上穂積朝臣老が式部大輔に任じられる。

養老3(719)年1月13日
従六位下石上朝臣堅魚が従五位下を授かる。

養老3(719)年5月15日
従八位上中臣習宜連笠麻呂ら四人、従六位上中臣熊凝連古麻呂ら七人、および従八位下榎井連弄麻呂に、朝臣の姓を、大初位下若湯坐連家主、正八位下阿刀連人足ら三人に宿祢の姓を賜る。

養老4(720)年1月11日
従五位下榎井朝臣広国が従五位上を授かる。

養老4(720)年5月21日
日本書紀完成。

養老4(720)年8月3日
藤原朝臣不比等薨じる。

養老5(721)年1月23日
正六位上越智直広江らを退朝後は皇太子(首皇子)に侍らせることとする。

養老5(721)年1月27日
百官のうち学業を深く修めた人に褒章。明経第一博士の正六位上越智直広江に、絁二十疋・絲二十絇・布三十端・鍬二十口を与え、明法の正六位上箭集宿祢虫万呂には絁十五疋・絹糸十五絇・麻布三十端・鍬二十口が与えられる。

養老6(722)年1月20日
正五位上穂積朝臣老は天皇を名指しで非難した罪により斬刑に処されるはずが、首皇太子の奏言により死一等を減じて、佐渡嶋に流される。

養老6(722)年2月27日
養老律令選定の功績により正六位上矢集宿祢虫麻呂が田五町を賜る。

養老7(723)年1月10日
正六位下越智直広江が従五位下を授かる。

養老7(723)年3月23日
常陸国信太郡の人、物部国依が信太連の姓を賜る。

神亀元(724)年2月22日
従五位上榎井朝臣広国が正五位下を、正六位下石上朝臣乙麻呂が従五位下を授かる。外従七位上香取連五百嶋らが外従五位下を授かる(私穀を陸奥国の鎮所に献じたため)。

神亀元(724)年5月13日
正六位上の物部用善が物部射園連の姓を賜る。

神亀元(724)年11月23日
聖武天皇即位の大嘗祭。従五位下石上朝臣勝男・石上朝臣乙麻呂、従六位上石上朝臣諸男、従七位上榎井朝臣大嶋ら、内物部を率いて神楯を斎宮の南北の二門に立てる。

神亀3(726)年1月21日
従五位下石上朝臣勝魚が従五位上を授かる。

神亀4(727)年1月27日
正五位下榎井朝臣広国が正五位上を授かる。

神亀5(728)年5月21日
正六位上若湯坐宿祢小月が外従五位下を授かる。

神亀5(728)年5月?
式部大輔石上朝臣堅魚、勅使として大宰府へ遣わされ、妻大伴郎女を失った大宰帥大伴宿祢旅人を弔問する。

天平元(729)年2月10日
長屋王の変。

天平元(729)年8月5日
正五位上榎井朝臣広国が従四位下を授かる。

天平3(731)年1月27日
従五位上石上朝臣勝雄が正五位下を、正六位上の箭集宿祢虫麻呂、物部韓国連広足が外五位下を授かる。

天平4(732)年1月20日
従四位下榎井朝臣広国が従四位上を、従五位下石上朝臣乙麻呂が従五位上を授かる。

天平4(732)年5月1日
正六位下の物部依羅連人会が朝臣の姓を賜る。

天平4(732)年9月5日
外従五位下箭集宿祢虫麻呂が大判事に、従四位上榎井朝臣広国が大倭守に、従五位上石上朝臣乙麻呂が丹波守に任じられる。

天平4(732)年10月17日
外従五位下箭集宿祢虫麻呂が大学頭に、外従五位下物部韓国連広足が典薬頭に任じられる。

天平7(735)年
この年、玄昉が諸仏像と経論五千余巻をともなって唐から帰国。

天平8(736)年1月21日
正五位下石上朝臣勝雄が正五位上を、従五位上石上朝臣乙麻呂が正五位下を授かる。

天平8(736)年2月7日
玄昉が封戸百戸・田十町・童子八人を与えられる。

天平9(737)年2月14日
従五位下曽祢連五十日虫が従五位上を授かる。

天平9(737)年8月26日
玄昉が僧正に任じられる。

天平9(737)年8月28日
正五位下石上朝臣乙麻呂が正五位上を、正六位上穂積朝臣老人と正六位下中臣熊凝朝臣五百嶋が外従五位下を授かる。

天平9(737)年12月23日
外従五位下中臣熊凝朝臣五百嶋が皇后宮員外亮に任じられ、外従五位下穂積朝臣老人が左京亮に任じられる。

天平9(737)年12月27日
聖武天皇と皇太夫人(藤原宮子)が皇后宮で対面。皇太夫人を看病した玄昉に絁千匹・真綿千屯・絹糸千絇・麻布千端が与えられる。

天平10(738)年1月13日
阿倍内親王立太子。正五位上石上朝臣乙麻呂が従四位下を授かる。

天平10(738)年1月26日
従四位下石上朝臣乙麻呂が左大弁に任じられる。

天平10(738)年閏7月7日
外従五位下中臣熊凝朝臣五百嶋が摂津亮に任じられる。

天平10(738)年8月10日
外従五位下中臣熊凝朝臣五百嶋が皇后宮亮に任じられる。

天平11(739)年1月13日
正六位下の物部依羅朝臣人会が外従五位下を、無位の采女朝臣首名・采女朝臣若が従五位下を授かる。

天平11(739)年3月28日
故藤原朝臣宇合の室・久米連若売と姦通した罪により、石上朝臣乙麻呂が土佐国に配流。

天平12(740)年6月15日
大赦があり、流人の穂積朝臣老ら赦され京に戻る。ただし石上朝臣乙麻呂は赦の中に入れられず。

天平12(740)年9月3日
大宰少弐藤原朝臣広嗣が挙兵。

天平12(740)年11月21日
伊勢国鈴鹿郡の赤坂頓宮にて、外従五位下の物部依羅朝臣人会が外従五位上を授かる。

天平13(741)年3月24日
国分寺建立の詔。

天平13(741)年9月8日
恭仁京遷都に伴う大赦。石上朝臣乙麻呂も赦される。

天平14(742)年1月1日
百官朝賀。大極殿が未完成のため四阿殿を仮に造る。石上・榎井の両氏が大楯槍を立てる。

天平14(742)年4月10日
外従七位下日下部直益人が伊豆国造伊豆直の姓を賜る。

天平14(742)年4月20日
皇后宮亮の外従五位下中臣熊凝朝臣五百嶋が従五位下を授かる。

天平15(743)年5月5日
群臣を内裏に召して宴を催し、皇太子阿倍内親王が五節の舞を行う。従四位下石上朝臣乙麻呂が従四位上を授かる。

天平16(744)年2月2日
天皇は難波宮に行幸中。大蔵大輔正五位上穂積朝臣老ら五人が恭仁宮の留守官に任じられる。

天平16(744)年3月11日
前月に皇都に定められた難波宮の中外門に、石上・榎井の二氏が大楯槍を立てる。

天平16(744)年9月15日
巡察使を畿内と七道に派遣。従四位上石上朝臣乙麻呂は西海道使。

天平17(745)年1月1日
紫香楽宮に遷都。大楯槍を立てる任にある石上氏・榎井氏は急な造都で集めることができなかったため、大伴宿祢牛養と佐伯宿祢常人を代役とする。

天平17(745)年1月7日
外従五位下箭集宿祢堅石が従五位上を授かり、正六位下熊野直広浜と正六位下若湯坐宿祢継女が外従五位下を授かる。

天平17(745)年8月9日
従五位下中臣熊凝朝臣五百嶋の名から中臣を除いて熊凝朝臣とする。

天平17(745)年11月2日
玄昉左遷。筑紫の観世音寺に派遣し造営にあたらせる。

天平17(745)年11月17日
玄昉に与えられていた封戸と財物を没収。

天平18(746)年1月7日
この時までに石上朝臣乙麻呂が遣唐大使に任じられる。(後に遣唐が中止)

天平18(746)年4月4日
従四位上石上朝臣乙麻呂が常陸守に任じられる。

天平18(746)年4月22日
従四位上石上朝臣乙麻呂が正四位下を、外従五位下穂積朝臣老人と正六位上采女朝臣人が従五位下を授かる。

天平18(746)年5月7日
外従五位上の物部依羅朝臣人会が従五位下を授かる。

天平18(746)年6月18日
玄昉死去。俗姓阿刀氏。

天平18(746)年6月21日
従五位下物部依羅朝臣人会が信濃守とされる。

天平18(746)年9月19日
従五位下穂積朝臣老人が内蔵頭に任じられる。

天平18(746)年9月20日
正四位下石上朝臣乙麻呂が右大弁に任じられる。

天平19(747)年1月20日
無位穂積朝臣多理が従五位下を授かる。

天平20(748)年2月19日
正四位下石上朝臣乙麻呂が従三位を授かる。

天平20(748)年2月22日
東大寺に寄進した外大初位下物部連族子嶋が外従五位下を授かる。

天平20(748)年4月22日
前日に元正太上天皇崩御。従三位石上朝臣乙麻呂が御装束司に任じられる。

天平勝宝元(749)年4月1日
陸奥国小田郡で黄金産出の報を聞き天皇は東大寺に行幸。従三位中務卿石上朝臣乙麻呂が宣命を述べる。無位石上朝臣国守が従五位下を授かる。

天平勝宝元(749)年7月2日
阿倍内親王即位(孝謙天皇)。従三位石上朝臣乙麻呂が中納言に任じられる。

天平勝宝2(750)年9月1日
中納言従三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂が薨じる。

天平勝宝3(751)年1月25日
正六位下石上朝臣宅嗣が従五位下を授かる。

天平勝宝3(751)年7月7日
女嬬の無位刑部勝麻呂が外従五位下を授かる。

天平勝宝3(751)年11月
懐風藻成る。

天平勝宝4(752)年4月9日
東大寺大仏開眼供養。

天平勝宝4(752)年5月21日
官奴の鎌取を良民とし巫部宿祢の氏姓を賜る。

天平勝宝6(754)年1月16日
正六位上物部山背が外従五位下を授かる。

天平勝宝8(756)年2月2日
橘諸兄、左大臣を辞任。

天平宝字元(757)年5月20日
藤原朝臣仲麻呂が紫微内相に任じられる。従五位下石上朝臣宅嗣が従五位上を、正六位上榎井朝臣小祖父が従五位下を授かる。

天平宝字元(757)年6月16日
従五位上石上朝臣宅嗣が相模守に任じられ、従五位下榎井朝臣子祖父が豊後守に任じられる。

天平宝字元(757)年7月4日
橘奈良麻呂が藤原朝臣仲麻呂の専制に対して決起しようとするも失敗する。

天平宝字元(757)年8月4日
正六位上采女朝臣浄庭が従五位下を授かる。

天平宝字元(757)年8月13日
駿河国益頭郡の人・金刺舎人麻呂が蚕卵が自然に字の形を描いたものを献上。

天平宝字元(757)年8月18日
瑞兆を献じた白丁の金刺舎人麻呂が従六位上を授かり、絁二十匹・調の真綿四十屯・調の麻布八十端・正税稲二千束を与えられる。

天平宝字元(757)年12月9日
功田の等級を定める。養老律令選定の功で矢集宿祢虫麻呂が賜った田五町は、子の代まで相続させる。

天平宝字2(758)年8月1日
大炊王即位(淳仁天皇)。正六位下穂積朝臣小東人が従五位下を授かる。

天平宝字3(759)年5月17日
従五位上石上朝臣宅嗣が三河守に任じられ、従五位下穂積朝臣小東人が周防守に任じられる。

天平宝字4(760)年1月21日
河内少掾従六位上石上朝臣奥継が北陸道巡察使に任じられる。

天平宝字4(760)年5月3日
従五位下石上朝臣国守が従五位上を授かる。

天平宝字5(761)年1月16日
従五位上石上朝臣宅嗣が上総守に任じられる。

天平宝字5(761)年5月23日
散位外五位下物部山背を遣わされ、畿内の溜池・井堰・堤防・用水路の適地を視察する。

天平宝字5(761)年6月26日
従五位上熊野直広浜の位一階昇進。

天平宝字5(761)年9月4日
命婦の従三位曽祢連伊賀牟志が薨じる。

天平宝字5(761)年10月1日
従五位下榎井朝臣子祖父が仁部少輔に任じられる。

天平宝字5(761)年10月22日
右虎賁衛(兵衛府)督従四位下仲真人石伴が遣唐大使に、上総守従五位上石上朝臣宅嗣が遣唐副使に任じられる。
石上宅嗣、このころ自宅を捨し阿閦寺とする。

天平宝字6(762)年1月4日
正六位上石上朝臣奥継が従五位下を授かる。

天平宝字6(762)年1月9日
従五位下石上朝臣奥継が播磨介に任じられる。

天平宝字6(762)年3月1日
従五位上石上朝臣宅嗣の遣唐副使の任を解かれ、代わりに藤原朝臣田麻呂を任じられる。石上宅嗣、このころ阿閦寺の一隅に芸亭を置く。

天平宝字7(763)年1月9日
無位石上朝臣糸手が従五位下を授かる。従五位上石上朝臣宅嗣が侍従兼任のまま文部(式部)大輔に任じられる。

天平宝字7(763)年4月
藤原朝臣宿奈麻呂(良継)・石上朝臣宅嗣らの藤原仲麻呂打倒計画失敗。

天平宝字7(763)年4月14日
従五位下石上朝臣奥継が少納言に任じられ、従五位下榎井朝臣小祖父が仁部(民部)少輔に任じられる。

天平宝字7(763)年9月4日
慈訓の少僧都を解任し、道鏡を任じることを興福寺(山階寺)へ使者を遣わして詔する。

天平宝字7(763)年9月15日
従五位下采女朝臣浄庭が豊後守に任じられる。

天平宝字8(764)年1月21日
従五位下穂積朝臣小東人が木工助に任じられ、従五位上石上朝臣宅嗣が大宰少弐に任じられる。

天平宝字8(764)年7月6日
授刀少志従八位上弓削連浄人が弓削宿祢の姓を賜る。

天平宝字8(764)年9月11日
恵美押勝の乱はじまる。孝謙上皇は山村王を淳仁天皇の御所に遣わし駅鈴・内印を奪取。押勝がこれを回収させようと遣わした中衛将監矢田部老は授刀舎人紀船守に射殺される。従八位上弓削宿祢浄人に従四位下を授け、弓削御浄朝臣の姓を賜る。押勝はこの夜近江に逃走。

天平宝字8(764)年9月12日
正六位上刑部息麻呂が外従五位下を授かる。

天平宝字8(764)年9月18日
恵美押勝敗死し、その首が京師に伝達される。愛発の関に入ろうとする押勝の軍を撃退したのは、授刀舎人の物部広成ら。

天平宝字8(764)年9月20日
道鏡が大臣禅師に任じられる。

天平宝字8(764)年10月3日
従五位上石上朝臣宅嗣が正五位上を授かり、常陸守に任じられる。従五位下采女朝臣浄庭が大宰少弐に任じられる。

天平宝字8(764)年10月7日
正六位上石上朝臣家成と弓削宿祢薩摩が従五位下を授かり、正六位上弓削連耳高と矢集宿祢大唐が外従五位下を授かり、外従五位下漆部直伊波が従五位下を授かり、正六位上漆部宿祢道麻呂と正六位上田部宿祢男足が外従五位下を授かる。

天平宝字8(764)年10月8日
無位の弓削宿祢美努久女・乙美努久女・刀自女が従五位下を授かる。

天平宝字8(764)年10月20日
衛門督従四位下弓削御浄朝臣浄人が上総守を兼任する。

天平宝字8(764)年10月28日
従五位下弓削宿祢薩摩が下野員外介に任じられる。

天平宝字8(764)年11月12日
従五位下石上朝臣息継が正五位下を授かる。

天平神護元(765)年1月7日
正五位上石上朝臣宅嗣が従四位下を授かり、従五位下の穂積朝臣小東人と榎井朝臣小祖が従五位上を授かり、正六位上中臣習宜朝臣山守が従五位下を授かり、従六位下の弓削御清朝臣秋麻呂と弓削宿祢牛養が従五位下を授かり、正六位上若湯坐宿祢子人と正六位上田部宿祢足嶋と正六位上金刺舍人八麻呂が外従五位下を授かる。従四位下弓削御清朝臣浄人が勲三等を授かる。正五位下熊野直広浜が正五位上を授かる。外従五位下金刺舎人八麻呂に勲六等を授かる。

天平神護元(765)年2月2日
従四位下弓削御浄朝臣浄人が従四位上を授かる。

天平神護元(765)年2月5日
従五位下弓削宿祢牛養が近衛少将に任じられる。

天平神護元(765)年2月8日
従四位下石上朝臣宅嗣が常陸守兼任で中衛中将に任じられ、従五位下弓削御浄朝臣秋麻呂が右兵衛佐に任じられる。

天平神護元(765)年2月10日
摂津国嶋下郡の人で右大舎人の采女臣家麻呂と、采女司の采部の采女臣家足ら四人が朝臣の姓を賜る。

天平神護元(765)年3月10日
大宰少弐・従五位下采女朝臣浄庭が水城を修理する専知官に任じられる。

天平神護元(765)年10月22日
淡路で幽閉中の淳仁天皇が逃亡を図るが掾の高屋連並木らが率いる兵によって阻止される。
紀伊国牟婁の采女・正五位上熊野直広浜が従四位下を授かる。

天平神護元(765)年閏10月3日
河内国のこの年の調を免除し、大県・若江の二郡は田祖も免除。河内国守の正五位下石上朝臣息嗣が正五位上を授かる。

天平神護元(765)年11月1日
上野国甘楽郡の人、中衛物部蜷淵ら五人が物部公の姓を賜る。

天平神護元(765)年11月23日
従五位下越前介弓削宿祢牛養が従五位上を授かる。同月六日に越前国は称徳天皇の大嘗祭の須伎に定められていたため。

天平神護2(766)年1月8日
右大弁従四位上石上朝臣宅嗣が参議に任じられる。

天平神護2(766)年4月29日
石上朝臣志斐弖が生んだ聖武天皇の皇子と称する男が現れるが、詐欺であったので遠流に処される。

天平神護2(766)年5月20日
上野国甘楽郡の人、外大初位下磯部牛麻呂ら四人が物部公の姓を賜る。

天平神護2(766)年6月1日
正六位上中臣習宜朝臣阿曽麻呂が従五位下を授かる。

天平神護2(766)年10月19日
正六位上弓削御浄朝臣塩麻呂が従五位下を授かる。

天平神護2(766)年10月20日
道鏡、法王となる。隅寺の舎利を法華寺に安置。基真禅師が法参議・大律師として正四位上を授かり、物部浄之の朝臣の姓を授かる。従三位参議弓削御浄朝臣浄人が正三位を授かり中納言に任じられる。

天平神護2(766)年10月25日
従四位上石上朝臣宅嗣が正四位下を授かる。

神護景雲元(767)年1月18日
正六位上の弓削御浄朝臣広方と石上朝臣真足が従五位下を授かり、正六位上高屋連赤麻呂が外従五位下を授かる。

神護景雲元(767)年1月19日
正六位上榎井朝臣祖足が従五位下を授かる。

神護景雲元(767)年2月20日
伊予国越智郡の大領・外正七位下越智直飛鳥麻呂が絁二百三十疋・銭千二百貫を献上したことにより、外従五位下を授かる。

神護景雲元(767)年3月9日
大安寺に天皇行幸。造寺大工の正六位上軽間連鳥麻呂が外従五位下を授かる。

神護景雲元(767)年3月20日
従五位下石上朝臣真足が内匠助に任じられ、従五位下榎井朝臣祖足が木工助に任じられる。

神護景雲元(767)年6月3日
伊予国の人で白丁の越智直国益が献物したため外従五位下を授かる。

神護景雲元(767)年7月10日
従五位下弓削御浄朝臣秋麻呂が左少弁、従五位下石上朝臣真足が大監物となる。内竪省を新設され正三位弓削御浄朝臣浄人が卿となる。近衛従八位下物部磯浪は天平宝字八年の恵美押勝の乱で、駅鈴と内印が奪われようとしたとき、いち早く駆けつけ急を告げた。その時の功により外従五位下を授かる。

神護景雲元(767)年7月24日
河内国志紀郡の人・従六位上依羅造五百世麻呂、丹比郡の人・従六位下依羅造里上ら十一人が依羅連の姓を賜る。

神護景雲元(767)年8月11日
従五位上榎井朝臣子祖が兵部大輔に任じられ、従五位下弓削宿祢大成が因幡掾に任じられる。

神護景雲元(767)年8月21日
従五位上近衛少将弓削宿祢牛養が越前介を兼任する。

神護景雲元(767)年8月29日
従五位下弓削宿祢薩摩が陰陽助に任じられ、従五位下弓削御浄朝臣広方が武藏国の員外介に任じられる。

神護景雲元(767)年9月4日
従五位下中臣習宜朝臣阿曽麻呂が豊前介に任じられる。

神護景雲元(767)年10月18日
無位石上朝臣等能能古が従五位上を授かり、無位の弓削御浄朝臣美夜治と弓削御浄朝臣等能治が従五位下を授かる。

神護景雲元(767)年10月壬戌?
外従五位下田部宿祢男足が従五位下を授かる。

神護景雲2(768)年1月10日
正四位下石上朝臣宅嗣が従三位を授かる。

神護景雲2(768)年2月18日
正三位弓削御浄朝臣清人が内竪卿・衛門督・上総守兼任のまま大納言に任じられ、従五位上榎井朝臣子祖が宮内大輔に任じられ、従五位下弓削御浄朝臣塩麻呂が左兵衛督に任じられ、従五位下石上朝臣真足が遠江介に任じられ、従五位下田部宿祢男足が主計助に任じられる。

神護景雲2(768)年2月19日
無位の弓削御浄朝臣浄方が従五位下を授かる。

神護景雲2(768)年3月20日
私財を献じた外正八位上越智直蜷淵らが外従五位下を授かる。

神護景雲2(768)年4月12日
従五位下弓削御浄朝臣広方が近衛将監兼任のまま武蔵介に任じられる。

神護景雲2(768)年6月26日
従五位下石上朝臣家成が上総守に任じられる。

神護景雲2(768)年閏6月8日
私財を献じた外正八位下物部孫足が外従五位下を授かる。

神護景雲2(768)年7月11日
武蔵国入間郡の人、正六位上勲五等物部直広成ら六人が入間宿祢の姓を賜る。

神護景雲2(768)年7月30日
正六位下安都宿祢豊嶋が外従五位下を授かる。

神護景雲2(768)年10月24日
石上神宮に封五十戸を充てる。大宰府の綿を弓削御浄朝臣清人が一万屯、式部卿従三位石上朝臣宅嗣が四千屯賜る。

神護景雲2(768)年11月13日
従五位下石上朝臣家成が勅旨少輔に任じられ、正五位上石上朝臣息継が河内守兼任で左衛士督に任じられ、大納言衛門督正三位弓削御浄朝臣清人が大宰帥に任じられる。

神護景雲2(768)年11月29日
正三位弓削御浄朝臣清人が検校兵庫将軍に任じられる。

神護景雲2(768)年12月4日
僧基真、その師の法臣円興をあなどり欺いたことから、飛騨国に退けられる。

神護景雲3(769)年1月3日
法王道鏡、西宮の前殿で大臣以下の拝賀を受ける。

神護景雲3(769)年1月7日
天皇、法王宮へ出御。道鏡は五位以上の官人に摺衣を各一領、蝦夷に緋袍を各一領与える。

神護景雲3(769)年3月28日
従五位上榎井朝臣子祖が山背守に任じられる。

神護景雲3(769)年4月6日
散事で従四位下の牟漏の采女・熊野直広浜が卒する。

神護景雲3(769)年4月24日
天皇、西大寺に行幸。従五位下弓削宿祢大成が従五位上を授かる。

神護景雲3(769)年6月9日
従五位下弓削御浄朝臣広方が武藏介兼任で右兵衛佐に任じられ、正五位上石上朝臣息嗣が美濃守に任じられ、従五位下弓削宿祢薩摩が能登員外介に任じられ、左少弁従五位下弓削御浄朝臣秋麻呂が周防守を兼任する。

神護景雲3(769)年6月26日
備前国御野郡の人、物部麻呂ら六十四人が石生別公の姓を賜る。

神護景雲3(769)年7月17日
左京の人・阿刀造子老ら五人が阿刀宿祢の姓を賜る。

神護景雲3(769)年8月19日
従五位上弓削宿祢大成が信濃員外介に任じられ、外従五位下田部宿祢足嶋が淡路守に任じられる。

神護景雲3(769)年10月17日
天皇、由義宮に行幸。

神護景雲3(769)年10月30日
正三位弓削御浄朝臣清人が従二位を授かり、従五位上弓削御浄朝臣広方が正五位下を授かり、従五位下の弓削御浄朝臣秋麻呂と弓削御浄朝臣塩麻呂が従五位上を授かり、無位弓削御浄朝臣広津が従五位下を授かる。従五位上の弓削御浄朝臣美努久売と乙美努久売が正五位下を授かり、無位弓削宿祢東女が従五位下を授かる。

宝亀元(770)年4月8日
弓削氏の男女に身分に応じて物を賜る。

宝亀元(770)年4月11日
従五位上弓削宿祢牛養ら九人が弓削朝臣の姓を賜り、外従五位下弓削連耳高ら三十八人が宿祢の姓を賜り、正八位上矢作造辛国が宿祢の姓を賜る。しかし、道鏡失脚によりまもなく皆もとの姓に戻されたという。

宝亀元(770)年6月3日
従五位上弓削御浄朝臣秋麻呂が大蔵少輔に任じられる。

宝亀元(770)年7月29日
今良大目の東人の子・秋麻呂ら六十八人が若桜部、真髪部、石上部、宇治部、穂積部、伊福部、采女部などの氏姓を賜る。

宝亀元(770)年8月4日
称徳天皇崩御。参議式部卿従三位石上朝臣宅嗣らが禁中で協議し、白壁王を立てて皇太子とする。

宝亀元(770)年8月17日
称徳天皇を高野山陵に葬る。道鏡は山陵に仕えて留まる。

宝亀元(770)年8月21日
道鏡を下野国薬師寺別当として左遷するようにとの皇太子(白壁王)の令旨。従五位下中臣習宜朝臣阿曽麻呂が多褹嶋守に任じられる。

宝亀元(770)年8月22日
道鏡の弟の弓削浄人と、その子の広方・広田・広津が土佐国へ流される。

宝亀元(770)年9月12日
基真(基信)の親族である近江国の人、従八位下物部宿祢伊賀麻呂ら三人が宿祢をはずし元の物部の姓に戻される。

宝亀元(770)年9月16日
従五位上榎井朝臣子祖が上総守に任じられ、従三位石上朝臣宅嗣が大宰帥に任じられる。

宝亀元(770)年10月1日
光仁天皇即位。従五位下石上朝臣家成が従五位上を授かる。

宝亀元(770)年10月26日
外散位・外従五位下の越智直飛鳥麻呂・越智直南淵麻呂が外従五位上を授かる。

宝亀2(771)年1月23日
勅旨少輔従五位上石上朝臣家成が春宮員外亮を兼任する。

宝亀2(771)年2月11日
外従五位下物部磯波が左兵衛大尉に任じられる。

宝亀2(771)年3月13日
藤原朝臣良継が内臣に任じられ、従三位石上朝臣宅嗣が式部卿に任じられる。

宝亀2(771)年閏3月1日
正五位上石上朝臣息継が丹波守に任じられる。

宝亀2(771)年閏3月22日
外従五位下伊豆国造伊豆直乎美奈が従五位下を授かる。

宝亀2(771)年9月16日
従五位上榎井朝臣子祖が造宮大輔に任じられ、従五位下田部宿祢男足が典薬員外助に任じられる。

宝亀2(771)年11月21日
太政官院にて大甞祭の神事を行う。参議従三位式部卿石上朝臣宅嗣、丹波守正五位上石上朝臣息嗣、勅旨少輔兼春宮員外亮従五位上石上朝臣家成、散位従七位上榎井朝臣種人が神楯桙を立てる。

宝亀2(771)年11月23日
従三位石上朝臣宅嗣が中納言に任じられる。

宝亀2(771)年11月25日
正五位上石上朝臣息嗣が従四位下を授かり、正六位上阿刀宿祢真足に外従五位下を授かる。

宝亀2(771)年11月26日
正六位上日下部直安提麻呂が外従五位下を授かる。

宝亀3(772)年1月3日
正六位上石上朝臣継足が従五位上を授かる。

宝亀3(772)年1月10日
正六位上若湯坐宿祢子虫が外従五位下を授かる。

宝亀3(772)年3月2日
井上内親王が謀反を企んだことにより、皇后の地位を追われる。安都堅石女が内親王に呪詛の罪のあることを知りながら隠していたことにより遠流の刑に処される。

宝亀3(772)年4月7日
下野国から薬師寺別当の道鏡が死んだことが報告され、庶民としての待遇で葬る。

宝亀3(772)年4月20日
外従五位下安都宿祢真足が大学助に任じられ、従五位下石上朝臣継足が主税頭に任じられる。

宝亀3(772)年6月6日
従五位下中臣習宜朝臣阿曽麻呂が大隅守に任じられる。

宝亀3(772)年9月26日
従五位上石上朝臣家成が南海道に派遣され政情を調査する。

宝亀3(772)年11月1日
外従五位下日下部直安提麻呂が内匠員外助に任じられ、外従五位下軽間連鳥麻呂が修理次官に任じられる。

宝亀3(772)年12月6日
武蔵国入間郡の人・矢田部黒麻呂の父母への孝行を顕彰するためその戸の雑徭を免除。

宝亀4(773)年10月14日
天皇の同母姉・難波内親王が薨じたため、中納言従三位兼式部卿石上朝臣宅嗣らが遣わされ弔意を表わす。

宝亀5(774)年1月7日
従五位上榎井朝臣子祖が正五位下を授かる。

宝亀5(774)年3月5日
従四位下石上朝臣息継が大蔵卿に任じられ、外従五位下阿刀宿祢真足が安芸介に任じられる。

宝亀5(774)年9月4日
従五位上弓削宿祢塩麻呂が右京亮に任じられる。

宝亀6(775)年1月16日
従五位下中臣習宜朝臣山守が従五位上を授かり、正六位上越智直入立が外従五位下を授かる。

宝亀6(775)年2月8日
天平宝字八年に弓削宿祢を弓削御清朝臣に、弓削連を弓削宿祢にしていたが、元に戻す。

宝亀6(775)年9月13日
従五位上弓削宿祢塩麻呂が豊前守に任じられる。

宝亀6(775)年12月25日
情願により、従三位石上朝臣宅嗣が物部朝臣の姓を賜る。

宝亀7(776)年3月
このころ物部朝臣宅嗣が皇太子山部親王の傅に任じられる。

宝亀7(776)年1月7日
従五位上石上朝臣家成が正五位下を授かり、正六位上刑部大山が外従五位下を授かる。

宝亀7(776)年1月19日
正五位下石上朝臣家成が東山道検税使に任じられる。

宝亀7(776)年3月4日
宝亀六年二月に弓削宿祢を弓削連に戻したが、故・従五位下弓削宿祢薩摩はそのまま宿祢の姓で改めることがないようにとの勅。

宝亀7(776)年3月6日
従四位下石上朝臣息嗣を造東大寺長官に任じられ、従五位下矢集宿祢大唐を能登守に任じられる。

宝亀8(777)年1月3日
藤原朝臣良継が内大臣になる。

宝亀8(777)年1月7日
従四位下石上朝臣息嗣が従四位上を授かり、正五位下榎井朝臣子祖が正五位上を授かる。

宝亀8(777)年5月13日
勅旨少録・正六位上丹比新家連稲長と大膳膳部・大初位下東麻呂が丹比宿祢の姓を賜る。

宝亀8(777)年6月24日
佐伯今毛人が病のため大使不在のまま遣唐使船が出帆。録事に韓国連源。

宝亀8(777)年9月18日
内大臣従二位藤原朝臣良継薨じる。中納言従三位物部朝臣宅嗣らが弔に遣わされる。

宝亀8(777)年10月13日
中納言従三位物部朝臣宅嗣、中務卿を兼任。従四位上石上朝臣息嗣が太宰大弐に任じられる。

宝亀8(777)年11月8日
左京の人、正八位下多芸連国足ら二人が物部多芸宿祢の姓を、美濃国多芸郡の人、物部坂麻呂ら九人が物部多芸連の姓を賜る。

宝亀9(778)年1月13日
唐の長安城に遣唐副使小野朝臣石根・大神朝臣末足、録事韓国連源らが到着。

宝亀9(778)年1月25日
女孺で無位の物部得麻呂が外従五位下を授かる。

宝亀9(778)年2月23日
正五位下石上朝臣家成を宮内大輔に任じられる。

宝亀9(778)年11月13日
韓国連源らが乗った遣唐第四船が薩摩国甑島に到着。

宝亀10(779)年1月23日
正六位上采女朝臣宅守らが従五位下を授かる。

宝亀10(779)年5月17日
唐使を朝堂で饗応。中納言従三位物部朝臣宅嗣、天皇の勅を宣べる。

宝亀10(779)年5月25日
唐使の孫興進らが暇乞いに拝謁。中納言従三位物部朝臣宅嗣、勅を宣べる。

宝亀10(779)年7月9日
藤原朝臣百川薨じる。

宝亀10(779)年11月18日
中納言従三位物部朝臣宅嗣が、物部朝臣を改めて石上大朝臣の氏姓を賜る。

宝亀11(780)年2月1日
中納言従三位石上大朝臣宅嗣が大納言に任じられる。

宝亀11(780)年3月22日
陸奥国で伊治呰麻呂の乱。

宝亀11(780)年7月22日
伊予国越智郡の人・越智直静養女は私財で困窮した人民を助けたので、天平宝字八年三月二十二日の勅書により、爵二級を賜る。

天応元(781)年4月3日
光仁天皇が譲位し、山部皇太子即位(桓武天皇)。

天応元(781)年4月15日
従三位石上大朝臣宅嗣が正三位を、正七位上物部多芸宿祢国足が外従五位下を授かる。

天応元(781)年5月17日
中宮職を設置。外従五位下物部多芸宿祢国足が少進に任じられる。

天応元(781)年5月25日
正五位下石上朝臣家成が民部大輔に任じられ、中宮少進外従五位下物部多芸宿祢国足が因幡介を兼任する。

天応元(781)年6月9日
正六位上物部射園連老が外従五位下を授かる。

天応元(781)年6月18日
河内国若江郡の人の弓削浄人とその子らは土佐国に流されていたが、許されて郷里に放ち還される。

天応元(781)年6月24日
大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨じる。正二位を追贈される。五十三歳。

天応元(781)年11月15日
天皇、五位以上の官人と宴を催す。正五位下石上朝臣家成が従四位下を授かる。

延暦元(782)年閏1月17日
中宮少進外従五位下物部多芸宿祢国足が越中介を兼任し、従四位下石上朝臣家成が伊予守に任じられる。

延暦元(782)年6月20日
外従五位下安都宿祢真足が大学助に任じられ、従四位下石上朝臣家成が大宰大弐に任じられる。

延暦2(783)年1月16日
正六位上穂積朝臣賀祜が従五位下を授かる。

延暦2(783)年2月5日
外従五位下若湯坐宿祢子虫が従五位下を授かる。

延暦2(783)年2月25日
外従五位下物部多芸宿祢国足が中宮大進に任じられ、従五位下穂積朝臣賀祜が主税頭に任じられる。

延暦2(783)年4月20日
越智池を築いた功により正六位上贄田物部首年足が外従五位下を授かる。

延暦2(783)年5月15日
従四位下石上朝臣家成が造東大寺長官に任じられる。

延暦2(783)年11月12日
外従五位下阿刀宿祢真足が主計頭に任じられる。

延暦3(784)年1月7日
外従五位下阿刀宿祢真足が従五位下を授かる。

延暦3(784)年7月13日
従四位下石上朝臣家成が内蔵頭に任じられ、従五位下穂積朝臣賀祜が散位頭に任じられる。

延暦3(784)年11月11日
長岡京に遷都。

延暦4(785)年1月1日
天皇大極殿に出御して朝賀を受け、石上・榎井の二氏が桙楯を立てる。

延暦4(785)年1月27日
従五位上弓削宿祢大成が西市正に任じられる。

延暦4(785)年9月23日
藤原朝臣種継暗殺される。

延暦4(785)年9月27日
造東大寺長官内蔵頭従四位下石上朝臣家成が衛門権督を兼任する。

延暦4(785)年10月12日
従五位上弓削宿祢塩麻呂が造東大寺次官に任じられる。

延暦5(786)年1月7日
外従五位下物部多芸宿祢国足が従五位下を授かる。

延暦5(786)年2月17日
従四位下石上朝臣家成が衛門督に任じられる。

延暦5(786)年8月8日
中宮大進従五位下物部多芸宿祢国足が常陸大掾を兼任する。

延暦5(786)年10月21日
常陸国信太郡の大領外正六位上物部志太連大成が、私物をもって民の危急を救ったため、外従五位下を授かる。

延暦6(787)年9月17日
従五位下采女朝臣宅守が日向守に任じられる。

延暦7(788)年3月21日
従四位下石上朝臣家成が右衛士督に任じられ、外従五位下入間宿祢広成が征東副使に任じられる。

延暦8(789)年1月6日
正六位上の榎井朝臣靺鞨と石上朝臣乙名が従五位下を授かり、正六位上韓国連源が外従五位下を授かる。

延暦8(789)年1月26日
従六位上石上朝臣真家が従五位下を、正六位上物部韓国連真成および従六位下采女臣阿古女が外従五位下を授かる。

延暦8(789)年2月10日
従五位上弓削宿祢塩麻呂が左京亮に任じられる。

延暦8(789)年3月16日
従四位下石上朝臣家成が宮内卿に任じられる。

延暦8(789)年3月19日
従五位下石上朝臣乙名が大監物に任じられる。

延暦8(789)年11月9日
造宮大工正六位上物部建麻呂が外従五位下を授かる。

延暦8(789)年12月29日
宮内卿従四位下石上朝臣家成らが前日崩じた皇太后(高野新笠)の御葬司に任じられる。

延暦8(789)年
この年、高橋氏文が奏上される。

延暦9(790)年3月26日
従五位下物部多芸宿祢国足が常陸大掾のまま図書助を兼任する。

延暦9(790)年閏3月11日
従四位下石上朝臣家成らが前日崩じた皇后(藤原乙牟漏)の御葬司に任じられる。

延暦9(790)年10月25日
女孺従七位上物部海連飯主が外従五位下を授かる。

延暦9(790)年11月10日
外従五位下韓国連源らが改氏姓の願いを言上。許可され高原連に。

延暦9(790)年12月19日
常陸国信太郡の大領外従五位下物部志太連大成が外従五位上を授かる。

延暦10(791)年1月7日
従四位下石上朝臣家成が従四位上を授かり、従五位下物部多芸宿祢国足が従五位上を授かり、正六位上安都宿祢長人が外従五位下を授かる。

延暦10(791)年1月28日
外従五位下安都宿祢長人が主税助に任じられる。

延暦10(791)年4月18日
駿河国駿河郡の大領・正六位上金刺舎人広名が駿河国造に任じられる。

延暦10(791)年7月29日
外従五位下安都宿祢長人が右京亮に任じられる。

延暦10(791)年9月6日
佐渡国の物部天神が従五位下に叙される。

天璽瑞宝トップ 物部氏年表 > 2・奈良時代