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【所縁の史跡】宇留布都神社(三重県)

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  ■ 宇留布津神社  [地図] 三重県松阪市腹太町に鎮座する、宇留布津神社です。 『延喜式』神名帳の伊勢国多気郡に、「宇留布都神社」が見えます。 祭神は、埴安姫命、大綿津見命。 鎮座地名の腹太(ハラフト)は、社号のウルフツ・ウルフトの転訛と見られています。 名義は「うるふ(潤ふ)」+「と(土・地)」で、湿潤な場所を意味すると考えられています。 延喜斎宮式によれば、斎宮の祈年祭や新嘗祭に預かっています。 当社への比定は度会延経によるもので、当地にあった産神社が式内宇留布都神社にあてられました。明治四十二年に六根の大国玉神社に合祀されましたが、昭和十年に復したそうです。 宇留布都の布都を、物部氏の奉じるフツの神に関係づけたいところですが、それに冠されるウルの意が難しいです。通説に従っておくべきでしょうか。   ■ 大日堂  [地図] 三重県多気郡明和町内座の大日堂です。 御巫清直はここにウロヅの地名があることを見出し、式内宇留布都神社を当地に比定しました。『式内社調査報告』は「最有力の説と言へよう」と評価しています。 中村の畠田神社に合祀された宇気比神社が明治四十一年まであり、大日堂はその神宮寺だった可能性が指摘されています。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 宇留布都神社

【所縁の史跡】鳥取山田神社(三重県)

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  ■ 鳥取山田神社  [地図] 三重県員弁郡東員町山田に鎮座する、鳥取山田神社です。三岐鉄道北勢線の東員駅から南に七〇〇メートルほどのところです。 『延喜式』神名帳の伊勢国員弁郡に、「鳥取山田神社」がみえます。 祭神は、角凝魂命、天照大神、大山祇命、誉田別命、稲倉魂神、火産霊神、須佐之男命、菅原道真公。 御巫清直『伊勢式内神社撿録』をはじめ、社号の「鳥取」は姓氏、「山田」は地名と考えられています。 『姓氏録』右京神別に鳥取連氏は、角凝魂命の三世孫・天湯河桁命の後裔であるといいます。 祭神の角凝魂命は、これを根拠にあてられたようです。 明治四十一年に近隣の十四社を合祀しています。 天湯河桁(天湯河板挙)命は垂仁紀に鳥取造の始祖としてみえ、誉津別王に関係して鳥取部の起源が語られる伝説があります。鳥取造は、天武十二年に連の姓を賜りました。 その鳥取氏が、鳥取部を管理する職掌を負っていました。鳥取部のひとつは、当地一帯にも置かれていたと見られます。 員弁郡には猪名部氏の奉ずる猪名部神社があり、隣りの朝明郡には穂積氏の穂積神社、殖栗氏の殖栗神社があります。 鳥取部は、捕鳥部万が物部守屋大連に仕えていたことから見ると物部氏との関係が強く、これら物部氏族と同時期に、北勢地方へ進出してきたのではないでしょうか。 のちには、『神鳳鈔』にみえる山田御厨も当地に置かれました。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 鳥取山田神社

【所縁の史跡】殖栗神社(三重県)

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  ■ 殖栗神社  [地図] 三重県四日市市西村町に鎮座する、殖栗神社です。 『延喜式』神名帳の伊勢国朝明郡に、「殖栗神社」がみえます。 朝明川の右岸、市立保々中学校の隣りに位置します。保々郷には保々御厨があり、伊勢神宮とのつながりも深かった地域です。 かつては市場町の字竹千代、北西に九百mほどの場所にあり、明治四十四年に現在地へ遷座しました。 式内殖栗神社は明治期には複数の論社を持っていましたが、一村一社の方針により、すべてこの神社に合祀・統合されています。 祭神は、天児屋根命、宇迦之御魂命、応神天皇、天照大御神、大山祇命、素戔嗚尊、天穂日命、蛭子命、殖栗連、市寸島比売命、大土神。 天児屋根命は、『姓氏録』左京神別に、「大中臣と同じき祖」とされる殖栗連氏の祖神です。 朝明郡の式内社には、物部氏族穂積氏に関係するらしい穂積神社があり、隣接する員弁郡には、雄略朝の朝日郎の乱により物部目連が領することになったともいう猪名部の奉斎する猪名部神社と、物部守屋大連の配下に捕鳥部万がいる鳥取部に関係するらしい、鳥取神社・鳥取山田神社があります。 殖栗神社も、これらと同じく、物部氏の北勢地方への勢力扶植にともなって、『続日本紀』和銅二年六月二十八日条にみえる、殖栗物部により創祀された可能性があるのではないでしょうか。 境内社の稲荷神社は、保々尋常高等小学校で戦前に奉安殿として使われていた建物だそうです。 手水鉢は、藤原秀郷後胤中野城主赤堀藤太郎の遺物と称されます。   ■ 「殖栗連之墓」  [地図] 四日市市小牧町の若宮古墳です。「殖栗連の墓」とも称されています。 殖栗神社から東へ約1.5kmのところにあります。 もとは十数基からなった若宮古墳群の一基で、若宮一号墳ともいいます。 昭和十年代には三基まで減り、現在、目立った墳丘を維持できているのは、この一号墳だけです。 明治十五年三月に発掘が行われています。 直径約八間(14.4m)ほどで、玄室が1.8m四方ほど。南に長さ1mほどの羨道を持った横穴式石室だったといわれます。 当時と比べると、墳丘は小さくなっているようですね。 玄室からは、金環一個、坩一個、皿二個、坏一個、鉄片などが出土したとされ、金環一個、須恵器壷・坏

【所縁の史跡】加富神社(三重県)

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  ■ 加富神社  [地図] 三重県四日市市山田町に鎮座する、加富神社です。 『延喜式』神名帳の伊勢国三重郡に「加富神社」がみえ、伊勢国内神名帳に「賀保太神」がみえます。 その論社です。 祭神は、天饒速日命。 ほか、素盞嗚尊、豊受大神、誉田別尊、金山毘古神、大己貴神、倉稲魂神、保食神、天照大御神、伊弉冉尊、五男三女神、大山祇命、麓山祇命、中山祇命、市寸島比売命、豊石窓神、櫛石窓神、文屋宮田麻呂公、吉備真備公、伊予親王、橘大夫逸勢公、藤原広嗣公、崇道天皇、藤原大夫人、火雷神、天児屋根命、が合祀されています。 往古、当地は吉田ヶ原と称し、そこに十丁四方松杉の生い茂る地を加富森と称し、榊を立て神籬のしるしとし奉祀した。その後、森の真中に宮を建てて加富大明神と号した、といいます。 御巫清直『伊勢式内神社検録』は、当村の神官は秦氏で、秦忌寸の末裔を称し、『姓氏録』山城国神別にもみえる祖神(神饒速日命)を祀ったものと口伝されているとします。 境内社には稲荷神社がありました。 ■ 加富神社  [地図] 三重県四日市市波木町に鎮座する、加富神社です。 こちらも式内「加富神社」の論社といわれます。 林の中にあり、静かなたたずまいです。 祭神は大日孁女貴命、天饒速日命、天児屋根命、品陀和気命、天穂日命、建速須佐之男命、金山毘古命、市杵嶋姫命、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、大山祇神。 当地は『和名抄』にもみえる三重郡釆女郷の郷域内。 雄略記で天皇に「纏向の日代の宮」の歌を奉った伊勢国三重の釆女に所縁の地といわれます。 成務天皇の治世三十八年、釆女臣の祖神・天饒速日命を祀ったことに始まると称します。 一帯の豪族だった土師氏に崇敬されたと伝えます。 釆女郷内七ヶ村(波木・貝家・釆女・古市場・清水谷・南小松・北小松)の総鎮守とされ、「火の宮」「火宮明神」と通称されたそうです。 火の宮を「日の宮」として、饒速日命に関係すると考えられたようですが、比較的新しい解釈なのではないかと思います。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 加富神社