【所縁の史跡】殖栗神社(三重県)

 

■ 殖栗神社 [地図]

三重県四日市市西村町に鎮座する、殖栗神社です。
『延喜式』神名帳の伊勢国朝明郡に、「殖栗神社」がみえます。
朝明川の右岸、市立保々中学校の隣りに位置します。保々郷には保々御厨があり、伊勢神宮とのつながりも深かった地域です。

かつては市場町の字竹千代、北西に九百mほどの場所にあり、明治四十四年に現在地へ遷座しました。

式内殖栗神社は明治期には複数の論社を持っていましたが、一村一社の方針により、すべてこの神社に合祀・統合されています。

祭神は、天児屋根命、宇迦之御魂命、応神天皇、天照大御神、大山祇命、素戔嗚尊、天穂日命、蛭子命、殖栗連、市寸島比売命、大土神。

天児屋根命は、『姓氏録』左京神別に、「大中臣と同じき祖」とされる殖栗連氏の祖神です。

朝明郡の式内社には、物部氏族穂積氏に関係するらしい穂積神社があり、隣接する員弁郡には、雄略朝の朝日郎の乱により物部目連が領することになったともいう猪名部の奉斎する猪名部神社と、物部守屋大連の配下に捕鳥部万がいる鳥取部に関係するらしい、鳥取神社・鳥取山田神社があります。

殖栗神社も、これらと同じく、物部氏の北勢地方への勢力扶植にともなって、『続日本紀』和銅二年六月二十八日条にみえる、殖栗物部により創祀された可能性があるのではないでしょうか。

境内社の稲荷神社は、保々尋常高等小学校で戦前に奉安殿として使われていた建物だそうです。

手水鉢は、藤原秀郷後胤中野城主赤堀藤太郎の遺物と称されます。

 

■ 「殖栗連之墓」 [地図]

四日市市小牧町の若宮古墳です。「殖栗連の墓」とも称されています。
殖栗神社から東へ約1.5kmのところにあります。

もとは十数基からなった若宮古墳群の一基で、若宮一号墳ともいいます。
昭和十年代には三基まで減り、現在、目立った墳丘を維持できているのは、この一号墳だけです。

明治十五年三月に発掘が行われています。
直径約八間(14.4m)ほどで、玄室が1.8m四方ほど。南に長さ1mほどの羨道を持った横穴式石室だったといわれます。
当時と比べると、墳丘は小さくなっているようですね。

玄室からは、金環一個、坩一個、皿二個、坏一個、鉄片などが出土したとされ、金環一個、須恵器壷・坏、鉄鏃十個が現存します。

そのほか、「殖栗連」の三文字が刻まれた長さ48cm程度の石が出土したと伝えられ、神体石と呼ばれます。
墓誌とすれば類例がなく、築造当初からの副葬品かは疑いが持たれるようです。

式内社の比定をめぐって、なんらかの駆け引きや造作が行われたのでしょうか。

近くには、『式内社調査報告』が「千栗説」として紹介する、殖栗神社の論社のひとつがありました。大字小牧字若宮の村社神明神社(御厨神明社)の境内社、殖栗連神社です。
古墳は、その祭神の墳墓と考えられたようです。 殖栗連神社は、神明神社ともども、明治四十一年に殖栗神社へ合祀されています。

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