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【所縁の史跡】多伎神社と象鼻山古墳群(岐阜県)

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  ■ 多岐神社   [地図] 岐阜県養老郡養老町三神町に鎮座する多岐神社です。 『延喜式』神名帳の美濃国多芸郡に、「多伎神社」がみえます。 祭神は、倉稲魂神、素盞嗚命、大市比咩神。 和銅五年の創建と伝えます。 『和名抄』の多芸郡物部郷がこの一帯に比定されます。 創祀については、物部多芸氏の関与を考える説が有力です。 ただし、美濃国内神名帳は多芸郡の「従四位下 物部明神」を、「従五位下 多岐明神」とは別々の神として記します。 境内には多くの摂末社がありますが、饒速日命や経津主命など、物部氏系といわれる神を祀るものは現在は無いようです。 ↑社殿背後にある塚です。 神社の鎮座地も、かつては「多芸村大塚」といいました。 物部多芸氏を葬った円墳ともいわれますが、実際は経塚のようです。文治五年八月二十八日銘の法華経碑があります。 ■ 象鼻山古墳群   [地図] 岐阜県養老郡養老町橋爪の象鼻山古墳群です。 多岐神社からは北西に2キロメートル弱の距離に位置します。 1989年の調査では、前方後方墳2基、方墳17基、円墳40基、形状不明3基の計62基が確認されたそうです。 ↓北側から見た一号墳です。手前が前方部、奥が後方部。 邪馬台国奈良説の論者の中には、美濃地方を狗奴国に比定し、この象鼻山1号墳をその王や王族の墓と見る方もいるようです。 墳丘の上からは、広々とした濃尾平野が一望できます。 ↓1号墳の後方部です。 全長40.1メートルの前方後方墳。 ↓1号墳の前方部です。 古墳時代前期に築かれたものはどうなのかわかりませんが、古墳群の大半を占めると考えられる後期の小型の古墳の被葬者については、「多芸」の地名をウヂ名に冠して、当地の有力集団だったことが推定できる、物部多芸氏が最も相応しいと思います。 下写真は2号墳です。方墳らしいです。 物部多芸氏については、『続日本紀』の宝亀八年十一月条に、多芸連国足らに物部多芸宿禰の姓を与えたこと、多芸郡の人・物部坂麻呂ら九人に物部多芸連の姓を与えたこと、などが見えます。 3号墳です。 近年の調査で、上円下方形をしていることがわかりました。古墳群の中で、最も古い段階のも

【所縁の史跡】物部明神(岐阜県)

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  ■ 物部神社 (方県郡)  [地図] 岐阜県岐阜市中西郷に鎮座する、物部神社です。 美濃国内神名帳の方県郡に、「従五位上 物部明神」が見えます。 この神を祀ったものと考えられています。 現在の祭神は、宇摩志麻遅命とされています。 当国に移住した物部氏により奉斎された古社であるとの社伝を持ちます。 旧社格は郷社で、戦後荒廃していたのを、昭和61年ころ、拝殿の再建等の整備が行われたそうです。 ■ 物部神社 (本巣郡)  [地図] 岐阜県本巣市上真桑に鎮座する、物部神社です。 八幡神社も合祀されていました。 元禄のころ始まった人形浄瑠璃が伝えられており、「でこ芝居の宮」とも通称されているそうです。 美濃国内神名帳の本巣郡に、「従五位上 物部明神」が見えます。 また、『和名抄』にある美濃国本巣郡「物部郷」も、当地に比定されます。 主祭神は物部十千根命。 その他、水波能売神、天照大御神、応神天皇、仁徳天皇、倉稲魂命、菅原道真公、熊野久須美神、速玉男神の八柱を祀るようです。 鎌田純一氏の『先代旧事本紀の研究』では、「物部守屋をまつる社と称する」とされます。 『新撰美濃志』に「物部大明神社は、当村の生土神にて祭神は弓削守屋大連なりと『埴生の涼風』に記せり」とあって、物部守屋を祭神にあてる説も存在します。 隣接する法暎寺観音堂です。 県指定の重要文化財だそうです。 ■ 十剣神社   [地図] 岐阜県大垣市上石津町細野の十剣神社です。 美濃国内神名帳の石津郡にみえる、「正六位上 物部補剣明神」を祀る神社に比定されます。 『濃飛両国通史』によれば、鎮座地名を「法剣谷」というそうで、「補剣」と関係しているのでしょう。 戸剣大明神とも称されたようで、これだと現社号に通じそうです。 祭神は、素盞嗚命と邇芸速日命です。 鈴鹿山系に属し美濃富士とも呼ばれる烏帽子岳を仰ぎ見る位置にあります。登山道入り口もすぐ近くです。一帯は、義賊熊坂長範伝説で知られるとか。 烏帽子岳は、頂上付近には奇岩・怪石も複数みられるそうです。 ■ 津島神社   [地図] 岐阜県安八郡安八町東結の津島神社です。 『濃飛両国通史』は、美濃国内神名帳の安八郡にみえる、「従五位下 物部明神」にあてま

【所縁の史跡】可児の古墳3/3(岐阜県)

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  ■ 高倉山古墳   [地図] 岐阜県可児郡御嵩町伏見の伏見高倉山古墳です。国道21号線沿いの高台にあります。 美濃最古の古墳のひとつとして知られる前方後方墳です。前方部がかなり小さく低く、これぞ前期古墳、といった特徴が見られます。 墳丘全長41メートル、後方部辺24.5メートル、前方部幅13メートル。 ↓「金山城、武田久隆公」? 墳丘上にありました。戦国時代に森氏の居城になった金山城跡からは1.8kmほどの距離です。   ■ 東寺山古墳   [地図] 可児郡御嵩町伏見の東寺山2号墳です。伏見寺山西塚古墳ともいうようです。 高倉山古墳、東寺山1号墳とあわせて伏見古墳群を成す前方後方墳です。 後方部の上は平らに均されていて、稲荷祠があります。 墳丘全長58メートル、後方部辺32メートル、復元推定される前方部幅は18メートルになります。 現状では確認できませんが、もとは周濠もあったそうです。 ↓南側からくびれ部付近です。 ↓東寺山1号墳です。2号墳の東隣りにあります。 前方部は消失、後方部もかなり削平を受けていて、古墳だと気づかずに通り過ぎそうになりました… 全長およそ41メートルの前方後方墳だったと見られています。   ■ 宝塚古墳   [地図] 可児郡御嵩町中の宝塚古墳です。 直径43メートル。円墳としては当地域最大の規模です。 二段に築成されてる様子が見て取れます。 墳頂も平らで広々です。 4世紀後半から5世紀初頭ころの築造と見られています。 ■ 中切古墳   [地図] 岐阜県可児御嵩町中切の中切古墳です。 美濃最東端の前方後円墳として知られています。 墳丘全長42メートル、後円部径28.5メートル、前方部幅28メートル。 南側に片袖式横穴式石室が開口しています。 石室の全長は10.6メートル、玄室奥行7.3メートル、幅2.15メートル。 6世紀前半ころの築造です。 石室の奥壁は崩れています。 可児郡、土岐郡、恵奈郡の一帯をその領域としたと推定できる「三野後国」。 長塚古墳の後に途絶した当地域での前方後円墳の造営は、この中切古墳で再開します。 中切古墳→狐塚古墳(大正時代に消滅した前方後円墳)→次郎兵衛塚古墳へと有力な首長墳が続くことから、可児市・御嵩町が三野後国の中心地と見