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【所縁の史跡】渋川廃寺(大阪府)

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  ■ 渋川廃寺  [地図] 渋川廃寺は、大阪府八尾市渋川町5丁目~春日町1丁目に所在する寺院遺跡です。近鉄バス久宝寺線の春日町バス停からJR関西本線を挟んだ渋川天神社付近を中心としたところにあります。 宝積寺跡とも呼ばれます。 塔心礎の存在が大正時代以前から知られていましたが、昭和初年に貨物列車操車場が整備されたとき古瓦が出土、塔心礎は原位置を離れて民家の手水鉢になったそうです。 操車場の廃止にともない、平成になってから久宝寺駅南口から当地一帯で再開発が行われました。そのため、渋川天神社の東側で実施された第一次調査と合わせて、三度の発掘調査が行われています。 確認されている瓦のうち、もっとも有名なのが藤澤一夫氏により第一期類単弁紋系類渋川寺式(向原寺式)とされた軒丸瓦です。大和の豊浦寺(向原寺)や、河内では衣縫廃寺等で採用されたものと同系統で、これが創建瓦と見られます。 これら出土遺物から、渋川廃寺の創建は、七世紀前半、推古朝の後半から舒明朝ころと推定できます。中河内の寺院のなかでも、早い部類に入ります。 奈良時代後半以降に塔の再建があり、その後、九世紀のうちには廃絶したことが判明しています。 渋川寺に関する唯一の史料が『太子伝玉林抄』で、 「渋川寺 河州 推古天皇御願 在彼神妙椋東北六七町」 とあります。 文安五年(1448年)に訓海によって書かれたもので、神妙椋=大聖勝軍寺の東北六町~七町はまさしく当地一帯にあたります。『玉林抄』は飛鳥寺については「今者堂塔本尊無之」と廃絶を記しています。そのような表記のない渋川寺は、上記のように原位置では廃絶しつつも、隣接した場所で、室町時代中頃までは存続していたことがわかります。 渋川廃寺を有名にしているのが、「物部氏の氏寺説」「物部守屋創建説」ではないでしょうか。 安井良三氏が「物部氏と仏教」(三品彰英編『日本書紀研究』第三冊、1968年)でとなえた説です。現在でも、「物部氏は守旧派で、新文化の仏教とは相容れなかった」という見方を批判する目的で引用されることがあります。 しかし、物部守屋は西暦587年に滅んでおり、七世紀前半にはじまる渋川廃寺とは、時代が合いません。 前身となる草堂的なものも、確認されていません。物部守屋以前の物部氏の問題とは、切り離して考えるべきでしょう。 物部氏の衰退により

【所縁の史跡】穴太神社(大阪府)

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  ■ 穴太神社  [地図] 大阪府八尾市宮町一丁目に鎮座する、穴太神社です。 河内国若江郡の穴太邑が当地で、『姓氏録』未定雑姓の河内国にみえる孔王部首 (あなほべのおびと) 氏の住地でもありました。 穴太は現在、「あのう」と読まれています。 祭神は、天照皇大御神、住吉四神(上筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后)、春日四神(建御賀豆智命・伊波比主命・天子八根命・比売神)です。 聖徳太子の生母で用明天皇の皇后である間人(泥部)穴穂部皇女の生地と称しています。 穴穂部の名前からのアイディアでしょうが、欽明天皇の皇子女には、彼女の同母弟に同じ名前を持つ皇子がいます。 物部守屋が皇位に擁立しようとした、泥部穴穂部皇子です。 また、穴穂部皇子には、書紀の一書によると住跡皇子という別名があったようで、『旧事本紀』天神本紀にみえる住跡物部の本拠地にも縁のある人物のようです。 「穴穂部(孔王部)」は石上穴穂宮に都した安康天皇(穴穂天皇)の名代部で、大和においては宮殿伝承のある石上地域、河内ではここ若江郡の穴太に、その拠点があったと考えられます。 住跡物部も、このいずれかの地域を住地にしていたのでしょう。 さらに、もうひとつこの姉弟が領する泥部(間人=はしひと=土師人)を統括する伴造として間人連があり、天神本紀によると、その祖・天玉櫛彦命は物部氏の祖である櫛玉饒速日尊に従って天降ったとされます。 同本紀には、やはり饒速日尊に随伴した二十五物部のなかに羽束物部がみえます。 泥部は『令集解』職員令の注で「穴云。泥部者。古言。波都加此乃友造。」(穴記はいう。泥部は、古い言葉で「ハツカシのとものみやつこ」である。)とあり、ハツカシとも読むことが知られます。和銅六年の好字二字化で「羽束」と表記されることもありました。 泥部の拠点があることによってハツカシの地名が生じた地域に、物部も設置されたことがわかります。 ここにも、物部氏と穴穂部皇子の接点が見出だせます。 石上と若江、どちらも物部連に関係が深く、蘇我氏の血を引く穴穂部皇子を守屋がなぜ擁立したのかを考える上で「地縁」は欠くことのできない視点です。 穴穂部を管理する上位伴造に、大連家の滅亡後に消えていった、物部氏族の穴穂部連もいたのかもしれませんね。 境内のクスノキは

【所縁の史跡】波久奴神社(滋賀県)

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    ■ 波久奴神社   [地図] 滋賀県長浜市高畑町に鎮座する、波久奴神社です。 『延喜式』神名帳の近江国浅井郡に、「波久奴神社」が見えます。 祭神は高皇産霊神。相殿に、物部守屋大連公を祀ります。 高皇産霊神を主祭神とすることは、明治三十四年に許可されたもの。 『三代実録』貞観十八年八月二日に、従五位下へ叙されたことが見える、「近江国正六位上天高結神」に付会したのではないかとする説もあるようです。 用明二年七月、物部守屋は河内で蘇我馬子らと対決して敗れたが、そのとき家臣の漆部巨坂という者が守屋に代わって激闘のすえ戦死。その間に守屋は巨坂の弟の小坂を伴って当地へ落ちのび、草庵を結んで定住し、自らを萩生翁と称して土地の人々に読み書きや農業技術を教えるなど恩恵を施した。守屋の死後、人々は彼を萩野大明神として崇敬し、これが当社のはじまりである―― というような創建伝説で知られます。 もとは御神木だった杉の根幹部分が、境内に保存されていました。 樹齢四百年にはなろうかという大木だったが、幹に枯傷が生じたために、倒伏の危険からやむなく伐採に至ったそうです。 特殊神事として、神迎え・神送りの神事があります。 こんにち、神社の神は常に本殿に坐ますと考えるのが一般的ですが、古代においては石や木などを依り代とし、祭りに際して来臨し、祭りが終わるとまた帰るとする考え方が広く行われていたと見られています。 波久奴神社後方の山腹には、物部守屋が隠れ住んだ岩屋とも、死後葬られた墓所ともいわれる、巨大な磐座があり、そこで神事が行われるといいます。 古態を伝える祭祀といえそうです。 鳥居と向かい合うように、道を挟んだところに御旅所があります。 隣接して西池があります。 周囲一.七km、一〇.六haの広さを持つこの池は、物部守屋が土地の人々のために造らせたものと伝えられるそうです。 水圧のかかる南が狭く、奥で膨らんでいるいるので、たくさんの水を貯え、水門となる部分は頑丈な岩の上に築かれており、農業用池としては大変すぐれた構造・工法に拠っているのだとか。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 波久奴神社

【所縁の史跡】石の宝殿(兵庫県)

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  ■ 石の宝殿   [地図] 兵庫県高砂市阿弥陀町生石に鎮座する、生石(おうしこ)神社です。 養和年間の成立かという播磨国内神名帳に見える、「生石太神」はこの神社に祀られる神と見られます。 全山が熔結凝灰岩からなり、古墳時代の石棺の石材産地として有名な、竜山の東中腹に位置します。 祭神は、大己貴神と少彦名神。社伝には崇神朝の創建といいます。 この神社のご神体が、謎の石造物「石の宝殿」です。 拝殿の下を通って奥に進むと、その巨大な姿に圧倒されます。 正面の最大幅は645センチ、 奥行きは546センチ、 最大高は570センチのほぼ直方体です。 背面に角状の突起を作り出しているので、奥行きの全長は720センチ程になります。 両側面とおそらく上面には、幅約160センチ、深さ20数センチの溝が廻っています。 下部は周囲からえぐられ、雨水がたまっているので、石は池に浮かんでいるかのように見えます。 『播磨国風土記』の印南郡大国里条に「作石」「大石」として記されており、8世紀初頭以前から現在の形で存在していたことがわかります。 古代史料と考古学上の遺跡とが一致する、貴重な例のひとつです。 『万葉集』巻三には、生石村主真人の歌として、 「大汝少彦名のいましけむ 志都の石屋は幾代へぬらむ」 が見えます。「しづのいわや」の比定地は島根県などにもあるようですが、石の宝殿をあてる説が最も有力視されています。 比較的早くから信仰の対象になったことがわかります。 風土記は位置と大きさに続いて、 「聖徳王御世弓削大連所造之石也」 という伝説を記します。物部弓削大連、守屋が造らせたものだというのです。 印南郡には法隆寺の寺地が多く、物部守屋が聖徳太子に討たれたという伝承が一帯に広がっていた可能性が高いです。その伝承と未完成に見える石造物を結びつけ、太子伝説の一環として、守屋の遺品という伝えが生まれたものでしょうか。 『兵庫県史 考古資料編』(平成4年)の中で西谷真治氏は、「家型石棺の製作技術との類似から考えると、およそ六世紀代のものとしてよいであろう」としています。 森浩一氏のように、物部守屋の墓として製作されていたものが、未完成のまま、河内へ運ばれることなく放棄されたと見るのも面白いかもしれません。 JR宝殿駅前

【先代旧事本紀】巻第五・天孫本紀 - 現代語訳

天璽瑞宝トップ   >  先代旧事本紀   >  現代語訳   > 巻第五・天孫本紀 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 《 あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと 》 。 またの名を天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命という。またの名を 胆杵磯丹杵穂命 《 いきいそにきほのみこと 》 。 天照孁貴 《 あまてらすひるめむち 》 の太子・ 正哉吾勝々速日天押穂耳尊 《 まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと 》 は、 高皇産霊尊 《 たかみむすひのみこと 》 の娘の 万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命 《 よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと 》 を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊をお生みになった。 天照太神と高皇産霊尊の、両方のご子孫としてお生まれになった。そのため、天孫といい、また皇孫という。 天神の御祖神は、 天璽瑞宝 《 あまつしるしのみずたから 》 十種を饒速日尊にお授けになった。 そうしてこの尊は、天神の御祖先神のご命令で、天の磐船に乗り、河内国の川上の 哮峰 《 いかるがのみね 》 に天降った。さらに、 大倭 《 やまと 》 国の 鳥見 《 とみ 》 の白庭山へ遷った。 天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。 いわゆる、天の磐船に乗り、 大虚空 《 おおぞら 》 をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られ、“ 虚空 《 そら 》 見つ 日本 《 やまと 》 の国”といわれるのは、このことである。 饒速日尊は 長髓彦 《 ながすねひこ 》 の妹の 御炊屋姫 《 みかしきやひめ 》 を娶り妃として、 宇摩志麻治命 《 うましまちのみこと 》 をお生みになった。 これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。 「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば 味間見命 《 うましまみのみこと 》 と名づけなさい。もし女子であれば 色麻弥命 《 しこまみのみこと 》 と名づけなさい」 産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が 速飄神 《 はやかぜのかみ 》 にご命令して仰せられた。 「我が御

【所縁の史跡】樟本神社と「稲城址」(大阪府)

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  ■ 樟本神社 (北木の本)   [地図] 大阪府八尾市北木の本に鎮座する、樟本神社です。 『延喜式』神名帳の河内国志紀郡に、「樟本神社」がみえます。 祭神は布都大神です。 『延喜式』は三座の神が祀られるとしていますが、同名の神社が三ヶ所あり、それぞれに一座ずつ祀られているという解釈が現在はされています。 一社におさまるべき三座が分散しているのは不自然ですが、『特選神名牒』などがいうように、人口が増えて分村するとき一座ずつ分かれたのではないか、と推測されています。 もしくは、有力な論社が複数あったために妥協案としてこのような解釈が生じたのでしょう。 大和岩雄氏は、明神山や天冠山、応神陵古墳や仲哀陵古墳、允恭陵古墳などとの位置関係を重視し、鎮座地の由来を説きます。 これらの山や古墳と、神社の位置が、直線状に並ぶか、特定の角度をもって繋がっていることに着目した説です。 境内は、小公園になっています。 その一角にあるのが、「守屋首洗池」です。 587年の丁未の乱で討たれた物部守屋の首を洗った場所と伝えます。 なお、ここは住吉津から真東へ伸びると想定される「磯歯津路」(雄略紀十四年春正月是月条)に接する場所です。 北木の本二丁目遺跡など周辺の環境からは鎌倉時代までこの道が存続していた可能性が高く、人びとの往来・賑わいによって樟をランドマークとする神社が創建したとすれば、樟本三社のなかでも最も「古さ」が感じられる立地といえるかもしれません。 ■ 樟本神社 (南木の本)  [地図] 八尾市南木の本に鎮座する樟本神社です。 三社ある樟本神社のひとつです。 祭神は布都大神。一説には饒速日命ともいいます。 境内に、高樹山日羅寺があります。 薬師如来を本尊とするそうです。 日羅は敏達朝の人物で、肥葦分国造阿利斯登の子です。 日本人の父を持ちながら、百済王宮に仕え、達率の官位まで昇った高官でした。 敏達天皇は欽明朝に失った「任那」の復興について相談するため、日羅を日本へ招き、阿斗の桑市に館を与えたといいます。 阿斗は渋川郡跡部郷の一帯で、ここからほど近い場所だったと見られます。 日羅は、今は国力を蓄えるときと説き、討つべき相手は新羅よりもまず百済であると進言したため、百済