【所縁の史跡】穴太神社(大阪府)

 

■ 穴太神社 [地図]

大阪府八尾市宮町一丁目に鎮座する、穴太神社です。

河内国若江郡の穴太邑が当地で、『姓氏録』未定雑姓の河内国にみえる孔王部首(あなほべのおびと)氏の住地でもありました。

穴太は現在、「あのう」と読まれています。

祭神は、天照皇大御神、住吉四神(上筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后)、春日四神(建御賀豆智命・伊波比主命・天子八根命・比売神)です。

聖徳太子の生母で用明天皇の皇后である間人(泥部)穴穂部皇女の生地と称しています。
穴穂部の名前からのアイディアでしょうが、欽明天皇の皇子女には、彼女の同母弟に同じ名前を持つ皇子がいます。

物部守屋が皇位に擁立しようとした、泥部穴穂部皇子です。

また、穴穂部皇子には、書紀の一書によると住跡皇子という別名があったようで、『旧事本紀』天神本紀にみえる住跡物部の本拠地にも縁のある人物のようです。

「穴穂部(孔王部)」は石上穴穂宮に都した安康天皇(穴穂天皇)の名代部で、大和においては宮殿伝承のある石上地域、河内ではここ若江郡の穴太に、その拠点があったと考えられます。
住跡物部も、このいずれかの地域を住地にしていたのでしょう。

さらに、もうひとつこの姉弟が領する泥部(間人=はしひと=土師人)を統括する伴造として間人連があり、天神本紀によると、その祖・天玉櫛彦命は物部氏の祖である櫛玉饒速日尊に従って天降ったとされます。

同本紀には、やはり饒速日尊に随伴した二十五物部のなかに羽束物部がみえます。
泥部は『令集解』職員令の注で「穴云。泥部者。古言。波都加此乃友造。」(穴記はいう。泥部は、古い言葉で「ハツカシのとものみやつこ」である。)とあり、ハツカシとも読むことが知られます。和銅六年の好字二字化で「羽束」と表記されることもありました。
泥部の拠点があることによってハツカシの地名が生じた地域に、物部も設置されたことがわかります。
ここにも、物部氏と穴穂部皇子の接点が見出だせます。

石上と若江、どちらも物部連に関係が深く、蘇我氏の血を引く穴穂部皇子を守屋がなぜ擁立したのかを考える上で「地縁」は欠くことのできない視点です。
穴穂部を管理する上位伴造に、大連家の滅亡後に消えていった、物部氏族の穴穂部連もいたのかもしれませんね。

境内のクスノキは、市の保全樹木に指定されているそうです。

境内社には、稲荷神社(半九郎稲荷大明神)がありました。

鳥居の前にあった市教育委員会の案内板には、「当社は古代氏族穴太氏の一族の祖神を祭る産土神」ともありました。

穴太氏は東漢氏同族の渡来系氏で、近江国滋賀郡の穴太村を本拠としたと見られています。
当地との関わりはどうでしょうか。

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