【所縁の史跡】小見真観寺古墳と若小玉古墳群(埼玉県)

■ 八幡山古墳 [地図]

行田市藤原町一丁目の八幡山古墳です。若小玉古墳群に属する古墳のひとつです。
工業団地の中に、公園として整備されていました。

昭和十年に小針沼の埋立てのために盛土が取り去られ、石室も荒れ放題だったそうですが、現在は奇麗に復元されています。

石室の雄大さ、整美さ、巨石を用いていることで知られます。

墳形は円墳。直径約77m、高さは11m以上だったといいます。

石室は、奥室、中室、前室に羨道がつく構造です。
金銅製太刀把頭と鞘尻金具、銀製弓弭片、直刀片、鉄鏃などが出土しています。
当時限られた皇族や貴族しか使用しなかった漆塗棺が安置されていたそうです。

被葬者に、『聖徳太子伝暦』に見える「物部連兄麻呂」をあてる説があります。

若いころ、聖徳太子の舎人だった兄麻呂は、癸巳の年(633年)に武蔵国造になり、その職を退いた後に小仁冠を賜ったといいます。

七世紀中葉の築造かと見られる八幡山古墳の被葬者像として、兄麻呂は、よく合致しているようです。

『万葉集』巻二十には埼玉郡に住む「物部刀自売」という女性が、防人に出る夫を歌った歌が残されています。物部連兄麻呂の一族は、この地の物部の現地管掌者だったと見られます。
彼らは、中央の大連を輩出した物部氏と結びついて勢力を拡大していきました。物部守屋の敗死後は、新しい権力者である聖徳太子にすばやく結びつき、埼玉古墳群を造った勢力に代わって、埼玉地方の最高首長として君臨するようになったと見られます。
また、そもそも埼玉古墳群の被葬者たちが物部氏だった可能性もあるでしょう。

古墳公園内には、物部刀自売と夫の藤原部等母麻呂の歌を刻んだ碑もあります。

物部万葉歌


■ 地蔵塚古墳 [地図]

行田市藤原町二丁目の地蔵塚古墳です。
若小玉古墳群に属し、墳頂に地蔵堂が安置されているため、この名で呼ばれます。

現在はかなり形が崩れてしまっていますが、もとは方墳で、一辺は28m程と見られています。

石室の壁に線刻画が描かれていたことで知られます。
烏帽子?をかぶった人物や、弓を引いている人物、馬、水鳥などが刻まれているそうです。

七世紀中葉の築造かといわれます。


■ 小見真観寺古墳 [地図]

埼玉県行田市小見の真観寺古墳です。秩父鉄道の武州荒木駅から、1kmほど西に行ったところにある、前方後円墳です。

道路に面して、碑が立っていました。こちらがわが前方部の裾になります。

真観寺の境内裏手にあるので、この名前がつけられました。

現代のお墓にも立派なものがありましたが、さすがに全長112mの墳丘に比べると見劣りしてしまいます。

七世紀初めの築造と見られています。ここから南方3キロメートルほどに位置する埼玉古墳群が、将軍山古墳の後、衰退していく時期に重なると考えられています。

主体部として横穴式石室をふたつ持ちます。下写真は後円部にある石室です。
緑泥片岩の一枚岩を組み合わせたもので、前後室に区切られていました。

↓もうひとつ、墳丘の上に開口している石室があります。
明治十三年に発掘されて、衝角付冑、挂甲小札、鉄鏃、頭椎太刀、刀子などが出土したそうです。


■ 虚空蔵山古墳 [地図]

小見真観寺古墳の北側にある虚空蔵山古墳です。
墳長50メートルほどの前方後円墳だったと見られていますが、ほとんど削平されてしまい、現在は前方部の一部分のみが残っています。

真観寺の敷地内にある、この平石が、虚空蔵山古墳の石室材の可能性もあるとか。

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