【所縁の史跡】北野天満宮(京都府)

 

■ 北野天満宮 [地図]

京都府京都市上京区馬喰町に鎮座する、北野天満宮です。
祭神は菅原道真公。
学問の神としても親しまれ、多くの崇敬を集めてきました。

昌泰二年に右大臣に昇った道真でしたが、二年後の延喜元年正月、太宰権帥に任じられ、中央政界から放逐されてしまいました。
翌々年に太宰府で道真は死去。そののち、藤原時平(三十九歳)、皇太子保明親王(二十一歳)、慶頼王(五歳)の死去を経て、延長八年には宮中清涼殿への落雷と大納言藤原清貫らの焼死と、災難が続いたことにより、道真は「御霊」化されていきました。

天慶五年に右京七条二坊十三町に住む多治比文子に託宣があり、五年後には近江の神官の子で太郎丸にも託宣があったことから、天暦元年六月に現在地において創建されたと伝えます。

多治比文子は『菅家御伝記』によると「婢」、『帝王編年記』では「賤の娘」とあって、身分の低い女性だったようですが、延喜八年から十一年にかけて起こった旱魃・疫病流行・洪水・大風雨の原因を、不遇のうちに亡くなった道真のせいにしようとする庶民の動きがあったようです。
宮中だけでなく、一般庶民のなかにも早くから畏れと信仰が生まれていたと見られます。

社殿のうち、本殿・石の間・拝殿・楽の間が国宝に指定されています。

渡邊綱の寄進とされる石燈籠。
一条戻り橋の鬼退治にからんだ伝説を持ちます。

↓本社の真後ろに祀られる「後后三柱」。
祭神は天穂日命、菅原清公卿、菅原是善卿です。

菅原氏の祖神、および道真の祖父と父にあたります。

清公には、石上宅嗣の創設した芸亭に出入りして学んだとする説があります。
後進の育成に力を注ぎ、私邸に多くの学生が集った「菅家廊下」の成立には、若き日の清公が芸亭で受けた影響があったのかもしれません。

末社の伴氏社です。菅原道真の母を祭神とします。

『延喜式』神名帳の葛野郡「伴氏神社」の論社のひとつです。
『続後紀』承和元年正月十九日条に、伴宿祢らへ山城国葛野郡上林郷に一町四方の土地を、氏神を祀るため賜ったことがみえます。これが伴氏神社の創建と見られます。

神明社。
天照大神と豊受大神を祀ります。かつては天満宮の北の神明町に鎮座していたようです。

『延喜式』神名帳の山城国愛宕郡に「高橋神社」がみえ、その比定社とされます。

『姓氏録』山城国神別には高橋連氏の存在がみえ、饒速日命の十二世孫・小前宿祢の後裔とします。
高橋神社は、この氏の祀っていたものでしょうか。

↓末社の文子社。
祭神は多治比文子で、相殿に神良種・太郎丸・最鎮を祀ります。

良種は太郎丸の父。最鎮は当地にあった朝日寺の僧だそうです。

↓末社の野見宿祢神社(野見宿祢)、豊国神社(豊臣秀吉公)、一夜松社(一夜千松の霊)。

野見宿祢は垂仁紀にみえる人物で、菅原氏など土師氏族の祖です。

↓末社の老松社。島田忠臣を祀ります。

忠臣は道真の家臣とも、岳父ともいわれるそうです。

↓摂社の地主神社。

『続後紀』承和三年二月一日条に、遣唐使のために天神地祇を北野で祭ったことがみえます。
道真以前に「天神」が当地で祭祀されていたことを示す史料です。

その天神地祇を祭神とします。
ほか、相殿に敦実親王、斎世親王、源英明朝臣を祀ります。

↓摂社の火之御子社です。

祭神は火雷神。
天満宮鎮座以前から当地で北野雷公と称え祀られてきた雷神とされます。

『西宮記』巻七裏書に、延喜四年十二月十九日、左衛門督藤原朝臣を使いとして雷公を北野に祭ったことがみえます。


参考:
新村出「石上宅嗣の芸亭について」『史傅叢考』
上田正昭編『天満天神』

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