【所縁の史跡】物部荘(兵庫県)

 

物部八幡神社 [地図]

兵庫県朝来市物部に鎮座する、物部八幡神社です。
上代史料上に明確には見えませんが、地名「物部」はかつての部民設置にもとづくものと見られます。

八幡神社としては朝来地域では最も早い時期の勧請らしく、中世まで遡ることができるようです。

平安期以降には当地に「物部荘」の存在が確認できます。比較的早くに、物部上荘と物部下荘のふたつに分かれたようです。

応保元年ころと見られる三河権守高佐奉書に、「自 公家被 仰下上西門院御領物部下庄申文遣之」とあり、上西門院(統子内親王:鳥羽天皇の皇女で後白河天皇の姉)を本家とする皇室領荘園だったことがわかります。

八幡神社の祭神は、品陀和気命、足仲彦命、息長足姫命。

『全国神社名鑑』によると、「鬼殺し神事」なる神事が伝えられているそうです。

社伝には、貞観十七年の創建を称します。貞享四年に火災により社殿を焼失、生野奉行坂井七郎左衛門によて再建されたといいます。明治六年には村社に列格しました。

境内末社として、弁財天社、荒神社、愛宕神社、稲荷社、庚申社、春日社などがあります。

宣陽門院所領目録に、「新御領 上西門院被進之」として「但馬国物部庄」が見え、この荘園は上西門院から宣陽門院(覲子内親王:後白河天皇の皇女) に譲られていたことがわかります。

弘安八年の但馬国太田文には、物部上庄十六町五反六十歩のうち神田四反が、物部下庄八町のうち神田一町三反百八十分が見えます。

この神田は、八幡神社のものでしょう。
同文献に見える下荘公文・物部吉清は、当地に勢力をもって物部城を築いたと伝えられる物部頼久の子とする説があります。

偽書「但馬故事記」の朝来郡故事記には、養老三年冬九月朝来軍団を廃し、健児所を設けたこと、健児所は物部邑に置き、健児五十人に兵庫・鈴蔵を守らせたことが見えます。
南方5kmほどのところにある延喜式内社・足鹿神社は、大化三年に軍団が設置されたとき少毅となった物部連飛鳥が、その祖・伊香色男命を八代丘に祀ったことに始まるとします。

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