【所縁の史跡】宇度墓古墳と西陵古墳(大阪府)

■ 宇度墓古墳 [地図]

大阪府泉南郡岬町淡輪にある、淡輪ニサンザイ古墳です。宮内庁が垂仁天皇の皇子「五十瓊敷入彦命」の墓「宇度墓」として治定しています。
南海本線淡輪駅を降りて、すぐのところにあります。
盾形の周濠がめぐり、6基の陪塚を従える、立派な古墳です。

宇度墓は、『延喜式』によると和泉国日根郡にあり、墓域は「東西三町、南北三町」、管理にあたる守戸は「二烟」だったとされます。

五十瓊敷皇子は、『日本書紀』に、石上神宮へ千口の剣を納めて神宝を掌ったことが記されます。

武光誠氏は、「物語の起こりに関する言いつたえは、長い期間にわたって語りつがれることが多い」としたうえで、「五十瓊入彦が石上神宮の宝剣をつくった」話は、「きわめて古い時代につくられた可能性が高い」とされています。

雄略紀にある紀小弓の墓の記述には、妻の大海が、大伴室屋大連を通じて、わざわざ天皇に墓所とすべき地を請うて、はじめて墓を造ることが許されたとしています。

この地方の主権者は、皇室であると認識されていたと見ることができそうです。
その背景には、「かつて泉南を拠点とした、有力な王族がいた」という伝承が、古くから存在していた可能性はあるでしょう。

墳丘全長は180メートル、後円部径は100メートル、前方部幅は120メートルあり、くびれ部の両側に造り出しがあります。

築造は5世紀後半と見られているので、実在すれば4世紀の人物らしい五十瓊敷皇子の墓ではありえません。

■ 西陵古墳 [地図]

岬町淡輪の西陵(にしのみささぎ)古墳です。
南海本線のみさき公園駅と淡輪駅の中間あたりにある、前方後円墳です。西ニサンザイ古墳とも呼ばれるようです。

墳丘全長210メートル、後円部径115メートル、前方部幅108メートルで、泉南地方では最大規模を誇ります。

周濠は盾形にめぐり、水をたたえていますが土橋のようになっている部分があり、墳丘へは進入可能です。墳丘に立ち入れる古墳としては、大阪府で一番おおきいとおもいます。

円筒埴輪には土師質と須恵質のものが両方あり、形象埴輪は盾・短甲・家形埴輪などの破片が出土しています。

↓くびれ部に近いあたりから、後円部を見上げました。

かつて、後円部の墳頂付近には、長持形石棺の蓋が露出していたそうです。大正十一年の史跡指定のときに、埋め戻したといいます。

↓後円部の上から、前方部側を望みます。

この古墳を、雄略紀に見える「紀小弓宿禰」の墓とみる説がありました。
雄略九年三月条に、紀小弓は新羅征討将軍として朝鮮に派遣されましたが、病を得て陣中で没し、その後、田身輪(淡輪)邑に葬られたとあります。

葺石だったものでしょうか。石が多数みられました。

築造は5世紀前半と見られています。
とりあえず、5世紀後半の人物らしい紀小弓が、ここに眠っているということはなさそうです。どちらかというと、先に紹介した宇度墓古墳のほうが時期が合います。

↓西側から見ます。写真中央のあたり、くびれ部に造り出しがあります。


■ 西小山古墳 [地図]

西陵古墳から東に400メートルほど。国道26号線の北に接してあります。
削平されたり一部埋め立てられたりしているので、国道と同じ高さになっています。気づかずに通り過ぎそうになりました。

直径50メートル前後の円墳だったと推定されています。

副葬品は、短甲二つに眉庇付冑、頚鎧、肩鎧、桂甲の小札や刀、鉾、鉄鏃など、武器が多く出土しています。

紀小弓の妻、吉備上道の大海の墓とする見方もあったそうですが、男性的な被葬者像が浮かんできそうです。
築造は、5世紀後半と見られています。

「西小山陵之跡」と小さな碑があります。

 

参考:武光誠『大和朝廷と天皇家』

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