【物部人物列伝】あ行
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阿佐姫 (あさひめ)
天孫本紀に、妹の加波流姫と共に物部尾輿連の妻。弓削連の祖・倭古連の娘。
尾輿連との間に四児を生したという。御狩連、守屋大連、金弓若子連、布都姫夫人、贄古連、麻伊古連、多和髪連のうちいずれかか。(旧)
阿佐利 (あさり)
国造本紀に、伊香色男命の四世孫で、応神朝に風速国造に任じられたことがみえる。(旧)
[←先頭へ]安都堅石女 (あとのかたしめ)
宝亀三年三月二日、井上内親王廃后の事件に連座して斬罪になるところだったが、減じて流罪に処せられた。カバネはそのときに剥奪されたか。(続紀)
[←先頭へ]阿刀宿禰大足 (あとのすくねおおたり)
空海の母方の叔父。
『続日本後紀』承和二年三月二十五日条に、空海は十五歳のとき讃岐国から上京し、大足のもとで学んだことが見える。従五位下だったという。
安都宿禰笠主 (あとのすくねかさぬし)
延暦十六年二月十七日、撰日本紀所への出仕により位二階を叙された。ときに太政官史生、従七位下。(日本後紀)
[←先頭へ]安都宿禰年足 (あとのすくねとしたり)
大和国佐保河畔の人。
『万葉集』巻第四に「安都宿禰年足が歌一首」がある。
安都宿禰豊嶋 (あとのすくねとよしま)
神護景雲二年七月三十日、正六位上より外従五位下に叙せられた。(続紀)
称徳天皇に仕えた女官か。
安都宿禰豊永 (あとのすくねとよなが)
大同元年二月十五日、正六位上より外五位下へ叙された。(日本後紀)
[←先頭へ]安都宿禰長人 (あとのすくねながひと)
延暦十年正月七日、正六位上より外従五位下に叙せられ、同月二十八日、主税助に任ぜられた。
同年七月二十九日、右京亮に任ぜられた。(続紀)
阿刀宿禰真足 (あとのすくねまたり)
安都宿禰真足。
宝亀二年十一月、正六位上より外従五位下に叙せられ、宝亀三年四月二十日、大学助に任ぜられた。
同五年三月五日、安芸介。
延暦元年六月二十日、再び大学助。
同二年十一月十二日、主計頭に任ぜられ、同三年正月七日、従五位下に任ぜられた。(続紀)
阿刀造子老 (あとのみやつここおゆ)
左京の人。
神護景雲三年七月十七日、阿刀宿禰の姓を賜った。(続紀)
安斗連阿加布 (あとのむらじあかふ)
天武元年六月、壬申の乱に際し、大海人皇子に従って東海道諸国の軍兵の徴発にあたった。(紀)
[←先頭へ]阿刀連粟麻呂 (あとのむらじあわまろ)
左京の人。
貞観六年八月八日、阿刀宿祢石成・阿刀連祢守・阿刀物部貞範らとともに、良階宿禰の姓を賜った。ときに玄蕃大允、正六位上。(三代実録)
阿刀連生羽 (あとのむらじいくは)
摂津国豊嶋郡の人・迹連継麻呂らの祖。
承和十年十二月四日条に従七位上と見える。天平年間、その子孫の乙浄の時、迹の一字を姓としたという。(続日本後紀)
迹連乙浄 (あとのむらじおときよ)
摂津国豊嶋郡の人・迹連継麻呂らの祖父。極位は従七位上。
『続日本後紀』承和十年十二月四日条に、乙浄はもと阿刀連だったが、天平年間に誤って迹の一字を以って姓としたので、このとき継麻呂ら同族七十人が訴え出て、庚午年籍によって検じ元の姓に復したとある。
阿刀連薬 (あとのむらじくすり)
朱鳥元年正月十四日、難波で火災があり宮室がことごとく焼けた。大蔵省での失火が原因であったが、阿刀連薬の家の失火を原因とする風聞もあったという。(紀)
[←先頭へ]安斗連智徳 (あとのむらじちとこ)
安斗は阿刀とも。
天武元年六月、壬申の乱に際し、大海人皇子に従って東国に赴いた舎人の一人。(紀)
和銅元年正月十一日、正六位上より従五位下に叙せられた。ときに姓は阿刀宿禰とある。(続紀)
『釈日本紀』十五にその日記が引かれ、壬申の乱に天皇が戦術を唐人に問うたことが見え、傍注に従五位下と見える。
迹連継麻呂 (あとのむらじつぐまろ)
摂津国豊嶋郡の人。
承和十年十二月四日、祖父の阿刀連乙浄が天平年間に誤って迹の一字を以って姓としていたため、同族七十人とともに阿刀連に復することを願い出た。庚午年籍によって検した結果、これを許されたという。ときに左衛門府の門部、正八位上。(続日本後紀)
→迹連乙浄
[←先頭へ]阿刀連人足 (あとのむらじひとたり)
養老三年五月十五日、宿禰の姓を賜った。(続紀)
[←先頭へ]阿刀物部貞範 (あともののべのさだのり)
摂津国西成郡の人。陰陽允。
貞観四年七月二十八日、本貫を左京に移す。
同六年八月八日、良階宿禰の姓を賜る。
同十一年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられた。(三代実録)
阿比太連 (あびたのむらじ)
弥加利(御狩)大連の後裔。阿比大連と読む説がある。
家の傍らに大俣の楊樹があり、巻向宮に聖徳太子が巡幸したときこれにちなんで、阿比太に大俣連の姓を与えた。大椋(おおくら)官に任じられていたという。(録)
天津赤星 (あまつあかぼし)
天神本紀に饒速日尊に供奉して天降ったことが見える。
五部人の一にして筑紫弦田物部らの祖。(旧)
天津羽原 (あまつはばら)
天神本紀に、饒速日尊に供奉して天降ったことが見える。
船長・跡部首らの祖。(旧)
天津麻良 (あまつまら)
天神本紀に饒速日尊の降臨に供奉したことが見える。
五部人にして物部造らの祖。また梶取・阿刀造らの祖ともいう。(旧)
天香山命 (あまのかぐやまのみこと)
『紀』に一書として、天火明命の子で、尾張連らの遠祖とある。
『録』左京神別は火明命の子・天賀吾山命といい、尾張連の祖。また、河内神別の吹田連や、和泉神別の丹比連、綺連などの祖であるという。
『旧』天神本紀には天香語山命。尾張氏らの祖で、三十二防衛の一柱として父神・天火明=饒速日尊に従って天降った。
天孫本紀に別名を手栗彦、高倉下という。天降った後、紀伊国熊野邑に住む。磐余彦尊に武甕槌神の帯剣・フツノミタマを奉ることは『記』『紀』の高倉下に同じ。その功により侍臣に任じられたという。
母は天道日女で、物部氏の祖・宇摩志麻治は異母弟にあたる。異母妹・穂屋姫を妻として、天村雲(別名・天五多底)を生んだとある。
→高倉下命
[←先頭へ]天蕤桙命 (あまのぬぼこのみこと)
国造本紀に、物部連の祖のひとりとしてみえる。初代伊豆国造・若建命はその八世孫という。(旧)
伊豆直氏が物部氏と同族化する前から伝承していた祖が、消えずに残ったものか。
→若建命
[←先頭へ]有利媛 (ありひめ)
天孫本紀に、物部大人連の妻で、物部雄君連の娘。
大人連との間に一児を生したという。物部耳連がこれにあたる。(旧)
伊香色雄命 (いかがしこおのみこと)
崇神七年八月七日、しばしば災害のおこることを憂いていた天皇に、穂積臣の遠祖・大水口宿禰ら三人が奏上するに、各人の夢に貴人が現われ、大田田根子をもって大物主大神の祭主とし、市磯長尾市をもって倭大国魂神の祭主とすれば天下は太平となるだろうと告げられたことを述べた。大田田根子を探し求めたところ、その父は大物主であると答えたので、天皇は「朕、栄楽えむとするかな」と喜び、物部連の祖である伊香色雄を神班物者(神に捧げ物を分つ役)に任じた。
また、同七年十一月十三日、伊香色雄に命じて物部の八十手に作らせた祭神の物(幣帛)を以って、大物主大神と倭大国魂神を祭り、その後八十万の群神を祭ったところ、疫病は止んで国内は鎮まったという。(『紀』)
『記』崇神段には、伊迦賀色許男に命じて天の八十平瓮を作り天神地祇の社を定めたとする記事がある。
『旧』天孫本紀は、伊香色謎命の弟で、父は大綜杵命、母は高屋阿波良姫であるとする。
開化天皇の時代に大臣になり、崇神天皇の時代、神物を班たしめ、天社・国社を定め、物部八十手の作った祭神の供物をもって、八十万の群神を祭った。そのとき布都大神を祀る社を石上邑に遷し、天璽瑞宝も合わせて祀って、この総称である「石上大神」を氏神としたという。
山代県主の祖長溝の娘・直木姫、荒姫、および玉手姫、また、倭志紀彦の娘・真鳥姫を娶って、合計七男を生んだとある。
天皇本紀にも、開化八年二月に大臣に任じられたことがみえる。
『録』では、巫部宿禰など、多くの物部氏族がその祖として伊香色雄の名前を挙げており、「物部八十氏」を結ぶ系譜上重要な人物。
伊香色謎命 (いかがしこめのみこと)
孝元天皇妃。開化天皇皇后。崇神天皇の母。
孝元七年二月二日、天皇の妃として彦太忍信命(武内宿禰の祖父)を生んだとあり、開化六年一月、皇后となり、御間城入彦五十瓊殖天皇を生んだとある。開化天皇は庶母と結婚したのである。
崇神天皇即位前紀に、天皇の母を伊香色謎命といい、物部氏の遠祖・大綜麻杵の娘であるとみえる。(『紀』)
古事記にも同様な記載があるが、名は伊迦賀色許売という表記である。
『旧』天孫本紀は、大綜麻杵大臣の子で、母は高屋阿波良姫といい、崇神天皇の時代、皇太后の尊号を、垂仁天皇の時代、太皇太后の尊号を贈られたという。
勇山文継 (いさやまのふみつぐ)
安野宿禰文継を見よ。
[←先頭へ]伊豆直乎美奈 (いずのあたいおみな)
伊豆国造。
宝亀二年閏三月二十二日、外従五位下から従五位下に叙せられた。(続紀)
出雲醜大臣命 (いずものしこおおみのみこと)
出雲醜大使主(『録』河内神別)、出雲色大臣(『旧』国造本紀)などともいう。
宇摩志麻治命の三世孫で、父は彦湯支命。母はおそらく出雲色多利姫だろう。
懿徳天皇の時代に、食国の政申す大夫となり、ついで大臣となって石上大神を奉斎した。大臣の号はこのときからおこったという。
倭の志紀彦の妹・真鳥姫をめとって、大木食、六見、三見宿禰を生んだ。(『旧』天孫本紀)
天皇本紀には出雲色命としてみえ、安寧四年四月に食国の政申す大夫となり、懿徳二年三月に大臣に任じられたという。
その五世孫、知波夜は成務天皇のとき参河国造に任じられた(『旧』国造本紀)
若桜部造、勇山連らの祖。(『録』)
武光誠氏が「出雲神宝と物部氏」のなかで、「大臣」など高い位置づけを得ながら有力な後裔氏を持たない出雲醜大臣について触れ、「物部氏が古い時期から、自分の遠い祖先が出雲系の妻をもらい、出雲の性格をもつ兄と大和の性格をもつ弟をもうけたといった伝承をうけついでいたのではあるまいか」とし、「出雲の性格をもつ兄は一代限り有力であっても物部氏の嫡流にはなりえないとされた。ゆえに、大和の性格をもつ弟の子孫が物部氏になったと考えられた」のではないかという伝承の形成を想定している。
石上朝臣東人 (いそのかみのあそんあずまひと)
家成の父。
延暦二十三年六月二十日の散位従三位石上家成薨伝に、家成は左大臣麻呂の孫で、正六位上東人の子と見える。(続日本後紀)
石上朝臣糸手 (いそのかみのあそんいとて)
宝字七年正月九日、無位から従五位下に叙せられた。(続紀)
名の類似から石上朝臣志斐弖の妹で、石上朝臣豊庭の娘とする木本好信氏の説がある。
石上朝臣奥継 (いそのかみのあそんおきつぐ)
息嗣(天平宝字八年十一月、天平神護元年閏十条)、息継(神護景雲二年十一月条)とも。
天平宝字四年正月二十一日、北陸道巡察使に任じられる。ときに河内少掾、従六位上。
同六年正月四日、正六位上より従五位下に叙せられ、同月九日、播磨介に任ぜられる。同七年四月十四日、少納言。同八年十一月十二日、正五位下となる。
天平神護元年閏十月三日、河内守のとき、紀伊、河内、和泉行幸の賞として正五位上に叙せられる。
神護景雲二年十一月十三日、左衛士督に、同三年六月九日、美濃守に任ぜられた。宝亀二年閏三月一日には丹波守となる。
同二年十一月二十一日の大嘗祭に、石上宅嗣、石上家成、榎井種人とともに神楯桙を立て、同月二十五日、従四位下に叙せられた。
同五年三月五日、大蔵卿。同七年三月六日、造東大寺長官。同八年正月七日、従四位上。同八年十月十三日、大宰大弐となった。(続紀)
名の類似と従四位まで昇った官歴などから、石上宅嗣の弟(石上乙麻呂の子)とする見方が有力。
宝亀八年の大宰大弐任官以降、史料に見えなくなるが、宝亀十年九月に後任の佐伯今毛人が着任するまでに九州で死去したか。
石上朝臣乙名 (いそのかみのあそんおとな)
延暦八年正月六日、正六位上から従五位下に叙せられ、同年三月十九日、大監物に任じられる。(続紀)
同二十三年六月九日、散位頭に任ぜられた。(日本後紀)
石上朝臣乙麻呂 (いそのかみのあそんおとまろ)
左大臣・石上麻呂の第三子。宅嗣の父。弟麻呂ともいう。
神亀元年二月二十二日、正六位下から従五位下に昇叙。同年十一月二十三日、石上勝男・石上諸男・榎井大嶋とともに、大嘗祭に内物部を率いて神楯を斎宮南北二門に立てる。
天平四年正月二十日、従五位上。同年九月五日、丹波守。
同八年正月二十一日、正五位下。
同九年九月二十八日、正五位上。
同十年正月十三日、従四位下。同月二十六日、左大弁。
同十一年三月二十八日、藤原宇合の未亡人・久米連若売と密通した罪により配流。過大な刑のため、甥の藤原広嗣と親しかった乙麻呂を、橘諸兄一派が排斥したとする説がある。
赦されて、同十五年五月五日、従四位上。
同十六年九月十五日、西海道巡察使。
同十八年三月七日、治部卿。四月四日、常陸守。同月二十二日、正四位下。九月二十日、右大弁。
同二十年二月十九日、従三位。四月に元正上皇崩御の際には、御装束司に任じられる。
天平勝宝元年四月一日、東大寺で宣命を述べる。ときに中務卿。
同年七月二日、中納言。
同二年九月一日没。ときに中納言従三位兼中務卿。
万葉集には越前守補任がみえる。
『万葉集』に短歌2首、『懐風藻』に五言詩4首がある。土佐配流中に、『銜悲藻(かんぴそう)』2巻を成したというが、現在は伝わらない。才能すぐれ、風采よく、典籍詩文を好んだ人物だったという。
石上朝臣勝男 (いそのかみのあそんかつお)
勝雄、堅魚とも。
養老三年正月十三日、従六位下から従五位下に叙せられた。
神亀元年十一月二十三日の大嘗祭に、石上乙麻呂・石上諸男・榎井大嶋とともに、内物部を率いて神楯を斎宮の南北二門に立てる。同三年正月二十一日、従五位上に叙せられた。(続紀)
神亀五年、式部大輔で勅使として大宰府に下向したとき、「式部大輔石上堅魚朝臣の歌一首」があり、その左注に「右、神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿の妻大伴郎女、病に遇ひて長逝せり。ときに勅式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣して喪を弔い並に物を賜ひき。その事既に畢りて駅使及び府の諸卿大夫等共に記夷城に登りて望遊する日、すははちこの歌を作る」とある。(万葉集巻八)
天平三年正月二十七日、正五位下。同八年正月二十一日、正五位上に叙せられた。(続紀)
石上朝臣国守 (いそのかみのあそんくにもり)
石上麻呂の娘。藤原宇合の妻で、広嗣、良継の母。国盛ともいう。(公卿補任)
天平勝宝元年四月一日、無位より従五位下に叙せられ、天平宝字四年五月三日、従四位上に進んだ。(続紀)
石上朝臣志斐弖 (いそのかみのあそんしびて)
天平神護二年四月二十九日、ある男がいて、自分は聖武天皇の子で、石上朝臣志斐弖が産んだものであると称した。勘問したところ詐偽だったため、遠流に処された。(続紀)
石上豊庭の娘とする木本好信氏の説がある。
石上朝臣雖 (いそのかみのあそんただし)
弘仁十三年十月一日、正六位上から従五位下に叙せられる。(日本後紀)
[←先頭へ]石上朝臣継足 (いそのかみのあそんつぐたり)
宝亀三年正月三日、正六位上より従五位下に叙せられ、同三年四月二十日、主税頭に任ぜられた。(続紀)
[←先頭へ]石上朝臣等能能古 (いそのかみのあそんとののこ)
神護景雲元年十月十八日、無位より従五位上に叙せられた。(続紀)
[←先頭へ]石上朝臣豊庭 (いそのかみのあそんとよにわ)
慶雲元年正月七日、従六位上より従五位下に叙せられ、同四年十月三日、文武天皇の大葬に造山陵司となった。
和銅四年四月七日、従五位上より従四位下に叙せられ、同四年九月四日、造平城宮の役民の逃亡者が多いので、紀男人らとともに将軍として兵庫を守った。同七年十一月二十六日には、迎新羅使右将軍となる。
霊亀元年正月十日、従四位上。同元年七月二十七日、穂積親王の喪事を監護した。
養老二年五月三十日卒。ときに従四位上。(続紀)
石上麻呂の長子とする説が妥当か。
石上朝臣並松 (いそのかみのあそんなみまつ)
仁和二年正月七日、従七位上から従五位下に叙せられる。ときに散位。(三代実録)
六国史に登場するなかでは最後の石上氏の人物。古今和歌集にこの時の叙位を祝う布留今道の歌があるが、その詞書には「いそのかみのなむまつが宮づかへもせで、石上といふ所にこもり侍りける」とあり、官職を与えられていなかったため在京せず、大和国石上にひきこもっていたことが知られる。
石上朝臣真足 (いそのかみのあそんまたり)
神護景雲元年正月十八日、正六位上より従五位下に叙せられ、同元年三月二十日、内匠助に、七月十日、大監物に任じられた。同二年二月十八日には遠江介。(続紀)
[←先頭へ]石上朝臣真家 (いそのかみのあそんまやか)
延暦八年正月二十六日、従六位上から従五位下に叙せられる。(続紀)
同十八年正月十二日、従五位下から従五位上に叙せられる。(日本後紀)
石上朝臣麻呂 (いそのかみのあそんまろ)
もと物部連麻呂といい、のち石上朝臣へ改氏姓。孝徳朝の衛部・物部連宇麻呂の子。『旧』にも物部馬古連公の子で、大市御狩連公の曾孫という。壬申の乱のとき近江朝側に属し、大友皇子に最後まで忠誠を尽くした。
天武五年、大乙上で遣新羅大使に任ぜられ、翌年二月帰朝。同十年十二月、小錦下。
天武十三年十二月二日、物部連は朝臣の姓を賜る。
朱鳥元年九月二十八日、天武天皇の殯にあたって法官の事を誄(しのびごと)した。ときに直広参で、このときまでに石上のウヂ名を称していたことがわかる。
持統三年九月、大宰府に位記給送使として下向。
翌年正月、持統天皇即位の大盾を立てる。(『紀』)
持統六年、持統天皇の伊勢行幸に従駕。(『万葉集』)
持統十年十月二十二日、舎人五十人を賜る。ときに直広壱。(『紀』)
文武四年十月十五日に筑紫惣領。ときに直大壱。
大宝元年三月二十一日、正冠正三位大納言。
翌年八月十六日、太宰師を兼任。
慶雲元年正月七日、右大臣。同月十一日、二千百七十戸を封ぜられる。ときに従二位。
和同元年正月十一日、正二位。
同三月、左大臣。
和銅三年三月十日、平城遷都にあたって藤原京留守司となる。
霊亀三年(養老元年)三月三日薨ず。歴代天皇から厚い信任を得ていたらしく、その死に際して廃朝のうえ従一位を追贈され、太政官以下の誄を述べられ、また百姓も追慕し痛惜したという。(『続紀』)
享年は七十八歳という。(『公卿補任』)
大連家の滅亡後、低迷していた物部氏から大臣まで昇った中興の祖。以降、子の乙麻呂、孫の宅嗣と石上氏は議政官を輩出した。
『竹取物語』に登場する五貴公子の一人、中納言石上麻呂足(いそのかみのまろたり)のモデルともいわれ、高松塚古墳の被葬者にあてる説がある。
石上朝臣美奈麻呂 (いそのかみのあそんみなまろ)
弘仁元年正月七日、正六位上から従五位下に叙せられる。
同二年六月朔、兵部少輔。
同三年八月朔、周防守。同十三年十一月朔、従五位下から従五位上。
天長八年正月七日、従五位上から正五位下に叙せられる。(日本後紀)
石上朝臣諸男 (いそのかみのあそんもろお)
神亀元年十一月二十三日の大嘗祭に、石上勝男、石上乙麻呂、榎井大嶋とともに、内物部を率いて神楯を斎宮の南北二門に立てた。ときに従六位上。(続紀)
名の類似から、勝男の弟か。
石上朝臣宅子 (いそのかみのあそんやかこ)
延暦十五年七月九日、従五位下から従五位上に叙せられる。(日本後紀)
石上朝臣宅嗣のむすめで、同日昇叙した藤原朝臣雄友の妻か。
石上朝臣宅嗣 (いそのかみのあそんやかつぐ)
石上麻呂の孫で、乙麻呂の子。
天平勝宝三年正月二十五日、従五位下。
天平宝字元年五月二十日、従五位上。同六月十六日、相模守。
同三年五月十七日、三河守。
同五年正月十六日、上総守。
同年十月二十二日に遣唐副使に任じられるが、六年三月朔に解任される。
同七年正月九日、文部大輔。このとき、侍従職も元のままに兼任。
同年四月、藤原宿奈麻呂(良継)らとともに藤原仲麻呂打倒を企てるが失敗。
同八年正月二十一日、大宰少弐。
同年十月三日、正五位上、常陸守。
天平神護元年正月七日、従四位下。
同二月、中衛中将。常陸守は兼任のまま。
翌年正月八日、参議。ときに右大弁。
同年十月二十五日、正四位下。
神護景雲二年正月十日、従三位。
同年十月二十四日、大宰綿・四千屯を賜る。ときに式部卿。
宝亀元年八月四日、称徳天皇崩御。宅嗣は藤原宿奈麻呂・百川らと謀って白壁王を擁立。
同年九月十六日、大宰師。
同二年三月十三日、式部卿。
同年十一月二十一日、大嘗会の神楯矛を立てる。
同月二十三日、中納言。
同六年十二月二十五日、物部朝臣への改姓を願い出て許される。
同八年十月十三日、中務卿。
同十年十一月十八日、石上大朝臣を賜る形で物部朝臣から復姓する。
翌年二月朔、大納言。
天応元年四月十五日、正三位。
同年六月二十四日、没。贈正二位。享年五十三歳。
晩年には皇太子傅の地位にもあった。書物を愛し書に巧みで、詩文を作る才に秀で、淡海三船とならぶ奈良朝後半の代表的文人といわれている。その学識は広く、宝亀十年の唐使迎接の際の天皇の位置について国際常識に則った礼をつくすことを主張し採用され、天皇の詔を唐語で宣べる役についている。
また、仏教に帰依して自宅を阿醗寺(あしゆくじ)という寺にしている。この寺に建てられた芸亭(うんてい)は、儒教の典籍などを収蔵し、希望者に開放したもので、日本最初の公開図書館として名高い。
才敏で姿、ようすがすぐれ、言語、動作が閑雅であったと伝えられている。
石上朝臣家成 (いそのかみのあそんやかなり)
東人の子。宅嗣の従兄弟にあたる。
天平宝字八年十月七日、藤原仲麻呂追討の行賞にあたって、外従五位下から従五位下に叙せられた。
神護景雲二年六月二十六日、上総守。同二年十一月十三日、勅旨少輔。
宝亀元年十月一日、従五位上となり、同二年正月二十三日、春宮員外亮を兼ねる。同二年十一月二十一日の大嘗祭には神楯桙を立てた。
同三年九月二十六日、南海道覆検使。同七年正月七日、正五位下。同年同月十九日、東山道検税使。同九年二月二十三日、宮内大輔。
天応元年五月二十五日、民部大輔。同元年十一月十五日、大嘗祭叙位で従四位下に進む。
延暦元年閏正月十七日、伊予守。同元年六月二十日、大宰大弐。同二年五月十五日、造東大寺長官。同三年七月十三日、内蔵頭。同四年九月二十七日、造東大寺長官・内蔵頭兼任のまま衛門権督。同五年二月十七日、衛門督に任ぜられた。
同七年三月二十一日、右衛士督。同八年三月十六日、宮内卿。
同八年十二月二十九日、中宮(高野新笠)御葬司。同九年閏三月十一日、皇后(藤原乙牟漏)御葬司となり、同十年正月七日、従四位上に昇叙。(続紀)
同二十三年六月二十日に薨じた。ときに散位従三位。八十三歳だったという。(日本後紀)
出石心大臣命 (いづしごころおおみのみこと)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の三世孫で、彦湯支命の子とされる。
孝昭朝に大臣となり石上大神を奉斎し、新河小楯姫を妻として二児(大水口宿禰・大矢口宿禰)を生した。
天皇本紀も宇摩志麻治命の後裔で、孝昭元年七月に大臣に任じられたと記す。(旧)
印幡足尼 (いなばのすくね)
国造本紀に、伊香色男命の孫で、仲哀朝に久努国造に任じられたことがみえる。(旧)
[←先頭へ]入間宿禰広成 (いるまのすくねひろなり)
武蔵国入間郡の人。蝦夷征伐の将。もと物部直広成といった。
天平宝字八年九月、藤原朝臣仲麻呂が愛発関に入ろうとしたとき、広成らがこれを防ぎ退け、仲麻呂に進退の拠り所を失わしめた。ときに授刀舎人。
神護景雲二年七月十一日、入間宿禰の姓を賜る。ときに正六位上、勲五等。
天応元年九月二十二日、征夷の労を賞して外従五位下に叙せられた。
延暦元年六月十七日、陸奥介。
同三年二月、持節征東将軍大伴家持のもとで軍監。
同七年二月十四日、近衛将監。
同七年三月二十一日、征東副使。
同八年六月九日、征東将軍の奏状によって軍状が奏上された。これに対する天皇の詔によると、広成は戦場経験が豊富なことに期待され派遣されたのに、陣中から出て自ら指揮を取ることをせず、大敗をまねいたという。
同八年九月八日、帰京。同月十九日、敗戦の責任を追及されるも、他の副将軍が官位の剥奪の罰を受けるなか、広成だけこれを免れる。このときも外従五位下。
同九年二月二十六日、従五位下に叙せられ、同年三月十日、常陸介となる。(続紀)
同十八年三月十日、造東大寺次官。(日本後紀)
「録」左京神別に入間宿禰氏が見える。晩年には武蔵から左京へ本貫を移したか。
宇治宿禰常永 (うじのすくねつねなが)
山城国宇治郡の人。
元慶元年十二月二十五日、宇治宿祢春宗とともに本拠を左京三条へ改めた。ときに左衛門少志従六位下。(三代実録)
宇治宿禰丹生麻呂 (うじのすくねにうまろ)
承和十一年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられる。(続後紀)
[←先頭へ]宇治宿禰春宗 (うじのすくねはるむね)
山城国宇治郡の人。
元慶元年十二月二十五日、宇治宿祢常永とともに、本拠を左京三条へ改めた。ときに鎮守府軍曹従八位上。(三代実録)
欝色雄命 (うつしこおのみこと)
孝元天皇の皇后・欝色謎命の兄。
開化天皇即位前紀に、穂積臣の遠祖で、欝色謎命はその妹であることがみえる。(『紀』)
『記』孝元巻には、内色許男とある。内色許売の兄であるとともに、孝元妃・伊迦賀色許売の父でもあったという(『紀』『旧』では、伊香色謎は大綜麻杵の娘)。
『旧』天孫本紀では、宇摩志麻治命の五世孫で、父を大矢口宿禰、母を坂戸由良都姫とする。
孝元天皇の時代、大臣になり、大神を斎き祀った。活馬の長沙彦の妹・芹田真稚姫を娶って、武建大尼(たけたつおおね)を生んだという。
欝色謎命 (うつしこめのみこと)
孝元天皇の皇后。欝色雄の妹。
孝元七年二月、皇后となる。大彦命、稚日本根子彦大日日天皇(開化)、倭迹迹姫命の三人を生むという。一書には少彦男心命が開化の同母弟にある。
開化元年一月、皇太后になった。(『紀』)
『記』孝元段では、内色許売とあり、所生の子を大毘古命、少名日子建猪心命、若倭根子日子大毘毘命(開化)とする。
『旧』天孫本紀に、宇摩志麻治命の五世孫で、父を大矢口宿禰、母を坂戸由良都姫とし、開化天皇の時代に皇太后、崇神天皇の時代に太皇太后になったという。
采女朝臣首名 (うねめのあそんおびとな)
天平十一年正月十三日、無位から従五位下に叙せられた。(続紀)
[←先頭へ]采女朝臣浄庭 (うねめのあそんきよにわ)
天平宝字元年八月四日、正六位上から従五位下に叙せられる。
同七年九月十五日、豊後守。
同八年十月三日、大宰少弐。
天平神護元年三月十日、修理水城専知官に任じられた。(続紀)
官歴からすると、九州地方の事情に通じていた人物のようである。
采女朝臣人 (うねめのあそんひと)
天平十八年四月二十二日、正六位上から従五位下に叙せられた。(続紀)
[←先頭へ]采女朝臣枚夫 (うねめのあそんひらふ)
比良夫とも。
慶雲元年正月七日、従六位上から従五位下に叙せられ、
同四年十月三日、文武天皇大葬の御装司となった。ときに従五位上。
和銅二年三月二十三日、はじめて造雑物法用司が置かれたとき、これに任じられた。
同三年四月二十三日、近江守に任じられ、
同四年四月七日、正五位下に叙せられた。(続紀)
この後、正五位上で近江守だったことが『懐風藻』に一首を収められていることから知られる。
常陸国風土記香島郡高松浜条に、慶雲元年に鍛治師佐備大麻呂らに若松浜の鉄を採って剣を造らせてた国司の采女朝臣(名欠)がいる。あるいは枚夫のことか。
采女朝臣枚麻呂 (うねめのあそんひらまろ)
弘仁元年十月十二日、正六位上から従五位下に叙せられた。(日本後紀)
[←先頭へ]采女朝臣宅守 (うねめのあそんやかもり)
宝亀十年正月二十三日、正六位上から従五位下に叙せられ、
延暦六年九月十七日、日向守に任じられた。(続紀)
采女朝臣若 (うねめのあそんわか)
天平十一年正月十三日、無位から従五位下に叙せられた。(続紀)
[←先頭へ]采女臣使主麻呂 (うねめのおみおみまろ)
大化五年三月二十五日、蘇我倉麻呂の変の際、麻呂が山田寺で自経したことを、使主麻呂と土師連身が追討の軍を率いてきた将軍の大伴狛連・蘇我日向臣たちに告げたため、軍は引き返すことになったという。(紀)
[←先頭へ]采女臣竹羅 (うねめのおみちくら)
筑羅、竹良とも。
天武十年七月四日、遣新羅大使となった。ときに小錦下。
同十三年正月二十八日、三野王とともに信濃に遣わされ、その地形を看察した。
同年十一月朔、朝臣の姓を賜る。
同十四年九月、大安殿の前に王卿らが召されて博戯がされたとき、天皇の衣袴を賜った。
朱鳥元年九月二十七日、天武天皇崩御に際して内命婦の事を誄した。ときに直大肆。(紀)
持統三年十二月に建立された采女氏塋域碑に、「飛鳥浄原大朝廷 大弁官直大弐」とあり、形浦山地四千代をその墓地としたことがみえる。
采女臣摩礼志 (うねめのおみまれし)
舒明即位前紀に、推古天皇が崩御し蘇我大臣と群臣が嗣位のことを議したとき、大伴連鯨の説に賛同し、田村皇子を推したことがみえる。(紀)
[←先頭へ]采女臣家足 (うねめのおみやかたり)
摂津国嶋下郡の人。采女司采部。
天平神護元年二月十日、朝臣の姓を賜った。(続紀)
采女臣家麻呂 (うねめのおみやかまろ)
摂津国嶋下郡の人。右大舎人。
天平神護元年二月十日、朝臣の姓を賜った。(続紀)
味饒田命 (うましにぎたのみこと)
『録』山城国神別の阿刀宿禰条に饒速日命の孫とあり、他には阿刀連、熊野連の祖でもあるという。また、味瓊杵田命ともいい、中臣習冝朝臣の祖ともある(右京神別上)。
『旧』天孫本紀には、宇摩志麻治命が、活目邑の五十呉桃の娘・師長姫を妻として生んだ子で、阿刀連らの祖とある。
宇摩志麻治命 (うましまちのみこと)
可美真手命を見よ。
[←先頭へ]可美真手命 (うましまでのみこと)
饒速日命の子。
神武即位前紀戊午年条に、饒速日命が長髄彦の妹・三炊屋媛を娶って生んだとある。(『紀』)
『記』神武巻には、宇麻志麻遅とあり、邇芸速日命が那賀須泥比古の妹・登美夜比売を娶って生んだといい、物部連、穂積臣らの祖とある。
『録』河内国神別では、于麻志麻遅、または味島乳ともあり、栗栖連、物部首らの祖という。
『旧』天孫本紀には、饒速日尊が死後、妻・御炊屋姫の夢に立ち、もし生まれる子が男ならば味間見(うましまみ)命、女ならば色麻弥(しこまみ)命と名づけよと語ったが、男だったので味間見命と名づけたという。
高倉下(天香語山)の異腹の弟にあたる。
伯父・長髄彦を殺し、帰順した功により、神武天皇からフツノミタマの剣を賜る。天の物部を率いてまつろわぬものを斬り、軍を率いて国内を平定したという。
神武天皇の信頼篤く、はじめて足尼(すくね)の号を受ける。また、皇后の兄・天日方奇日方命とともに、後の大臣・大連にあたる「食国の政申す大夫」に任じられたという。
活目邑の五十呉桃の娘・師長姫を妻として、味饒田命、彦湯支命の二児を生む。
名称のウマシは美称。マヂ・マデは呪(マジナイのマジに同義)を表す。『旧』に見えるような鎮魂呪術との繋がりは古伝に属するであろう。記紀成立時には既に神武朝の人物に位置づけられており、『古語拾遺』に顕著な諸氏の儀礼への奉仕(物部氏の場合は鎮魂祭)を神武朝にまで遡らせる意識の萌芽が見受けられる。
殖栗連浄成 (えぐりのむらじきよなり)
弘仁十三年正月七日、正六位下から外従五位下に叙せられた。(日本後紀)
[←先頭へ]殖栗連宗継 (えぐりのむらじむねつぐ)
延暦二十三年二月二十五日、美濃権介に任じられた。時に外従五位下。(日本後紀)
[←先頭へ]殖栗物部名代 (えぐりもののべのなしろ)
和銅二年六月二十八日、殖栗連の姓を賜った。時に従七位下。(続紀)
[←先頭へ]榎井朝臣大嶋 (えのいのあそんおおしま)
神亀元年十一月二十三日、大嘗祭で石上朝臣乙麻呂らとともに、内物部を率いて、神楯を斎宮の南北の二門に立てた。ときに従七位上(続紀)
[←先頭へ]榎井朝臣祖足 (えのいのあそんおやたり)
神護景雲元年正月十九日、正六位上より従五位下に叙せられる。
神護景雲元年三月二十日、木工助に任ぜられる。(続紀)
榎井朝臣小祖 (えのいのあそんこおじ)
子祖、小祖父、子祖父ともいう。
天平宝字元年五月二十日、正六位上より従五位下に叙せられる。
天平宝字元年六月十六日、豊後守。
天平宝字五年十月一日、仁部少輔。
天平宝字七年四月十四日にも再び仁部少輔に任ぜられる。
天平神護元年正月七日、従五位下より従五位上に叙せられる。
神護景雲元年八月十一日、兵部大輔。
神護景雲二年二月十八日、宮内大輔。
神護景雲三年三月二十八日、山背守。
宝亀元年九月十六日、上総守。
宝亀五年正月七日、正五位下。宝亀八年正月七日、正五位上に昇叙。(続紀)
榎井朝臣種人 (えのいのあそんたねひと)
宝亀二年十一月二十一日、大嘗祭で石上朝臣宅嗣らとともに、神楯桙を立てた。ときに散位・従七位上。(続紀)
[←先頭へ]榎井朝臣広国 (えのいのあそんひろくに)
和銅六年正月二十三日、従七位下から従五位下に叙せられる。
同年八月二十六日、三河守。
霊亀二年四月二十七日、丹波守。
養老四年正月十一日、従五位上。
神亀元年二月二十二日、正五位下。
神亀四年正月二十七日、正五位上。
天平元年八月五日、従四位下。
天平四年正月二十日、従四位上。
同年九月五日、大倭守。(続紀)
榎井朝臣倭麻呂 (えのいのあそんやまとまろ)
文武二年十一月二十三日、大嘗祭で大楯を立て、
大宝元年正月十五日、大伴御行が薨じたとき遣わされて、葬儀を指揮した。
いずれも冠位は直広肆。(続紀)
朴井連雄君 (えのいのむらじおきみ)
物部雄君連を見よ。
[←先頭へ]榎井連弄麻呂 (えのいのむらじかせまろ)
養老三年五月十五日、朝臣の姓を賜った。ときに従八位下。(続紀)
[←先頭へ]朴井連子麻呂 (えのいのむらじこまろ)
天武九年七月十七日、小錦上を授けられた(紀)
[←先頭へ]大阿斗足尼 (おおあとのすくね)
国造本紀に、饒速日命の五世孫で、成務朝に熊野国造に任じられたことがみえる。(旧)
[←先頭へ]大木食命 (おおきけのみこと)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の四世孫で出雲醜大臣命の子。参河国造の祖という。(旧)
[←先頭へ]大貞連千継 (おおさだのむらじちつぐ)
阿比太連の四世孫。
天平神護元年、大俣連から改めて大貞連の姓を賜ったという。時に正六位上。(録左京神別上)
→阿比太連
[←先頭へ]大新河命 (おおにいかわのみこと)
新河大連。
長谷置始連、高橋連、矢田部の祖という(『録』右京神別、大和神別)。
『旧』天孫本紀に宇摩志麻治命七世の孫。十千根命の兄。父は伊香色雄命で、垂仁天皇の時代のはじめ、大臣になったとある。ついで「物部連」の姓を賜り、改めて大連となり、神宮を奉斎した。
また、紀伊の荒川戸俾の娘・中日女を娶り、武諸隅連、大小市連、大小木連、大母隅連を生んだとある。
天皇本紀も垂仁二十三年八月に大臣に任じられ、物部連賜姓によって大連へ転じたという。
名義「新河」については、延喜式神名帳の近江国野洲郡に下新川神社・上新川神社があることにより近江国と関係すると見る説、かつて大和国十市郡に新川村のあったことから大和国と関係すると見る説がある。
大禰命 (おおねのみこと)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の三世孫で、彦湯支命の子とある。出石心大臣命の弟。
安寧朝に侍臣となり、石上大神を奉斎した。
天皇本紀も安寧四年四月に侍臣となったとする。(旧)
大閇蘇杵命 (おおへそきのみこと)
物部氏の遠祖。崇神天皇の母、伊香色謎命はそのむすめ。(紀)
大宅首の祖・建新川の祖父。(『録』左京神別上・右京神別上)
『旧』天孫本紀では、大綜杵命といい、宇摩志麻治命五世の孫で、父は大矢口宿禰命、母は坂戸由良都姫。
孝元天皇の時代、大禰となり、ついで開化天皇の時代に大臣となって大神を奉斎した。
また、高屋阿波良姫をめとり、伊香色謎命(開化皇后)、伊香色雄命を生んだという。
天皇本紀にも、孝元八年正月に大禰となり、開化八年正月に大臣に任じられたことがみえる。
大水口宿禰命 (おおみなくちのすくねのみこと)
穂積臣の祖。
崇神七年八月、疾病が流行して国内不安であった。大水口宿禰は、倭迹速神浅茅原目妙姫や伊勢麻積君とともに夢をみて、天皇に奏上して、昨晩夢に貴人が現れ、大田々根子をもって、大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市をもって倭大国魂神を祀る祭主とすれば、必ず天下は太平であろうと告げられたことを述べた。そのため、天皇は大いに喜び、そのいわれたとおりに実行したという。
垂仁二十五年条の一書に、同二十六年十月、倭大国魂神が大水口宿禰に神がかりして、大神を祀るべきことをいったので、天皇は渟名城稚姫に命じて祭らせたが、身体が痩せほそり弱く、祭祀不能となったので、大倭直の祖・長尾市宿禰に命じて祀らせたとある。(『紀』)
『録』左京神別に、穂積臣の祖で、伊香賀色雄の子とあるが、
『旧』天孫本紀では、宇摩志麻治命の四世の孫で、出石心の子であり、穂積臣、采女臣の祖とある。
大峯大尼命 (おおみねのおおねのみこと)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の五世孫で欝色雄命らの弟。
開化朝に大尼(おおね)となって供奉した。大尼の号はこのとき起こったという。
天皇本紀には大峯命とみえ、開化八年正月に武建大尼命と並んで大禰に任じられたとする。(旧)
大売布命 (おおめふのみこと)
『録』に、饒速日命七世の孫。大売大布乃命ともいう。
真髪部造、今木連の祖といい(山城神別)、また志貴県主の祖ともいう(和泉神別)。
『旧』では、大咩布命とある。伊香色雄の子。若湯坐連らの祖で、垂仁天皇のとき侍臣として仕えたという。
『高橋氏文』でも若湯坐連らの祖で、物部意富売布連といい、息子の豊日連とともに景行天皇の東国行幸に供奉したことが見える。
大矢口宿禰命 (おおやくちのすくねのみこと)
『録』和泉神別には大矢口根大臣命。饒速日命の四世の孫で、榎井部の祖という。
『旧』天孫本紀に、孝霊天皇の時代、宿禰となり大神を奉斎したとある。坂戸由良部姫を妻として、欝色雄命、欝色謎命、大綜杵命、大峯大尼命を生んだ。
天皇本紀には大矢口命とみえ、孝霊三年正月に大水口命と並んで宿禰に任じられたとする。
興原宿禰敏久 (おきはらのすくねみにく)
平安初期における法律家。名は「としひさ」とも読む。
三河の国の出身で、もと物部敏久という。大同初年頃に大宰少典だったが、同三年正月二十五日に正六位上から外従五位下に昇り、弘仁二年には明法博士だった。
同四年正月五日、物部中原宿禰姓を賜り、翌月十三日には大判事に任じられた。
同十年正月七日に従五位下へ昇叙。翌十一年四月成立の『弘仁格式』の編纂に参加した。
天長元年正月七日に従五位上へ昇り、この頃に興原宿禰姓を賜った。
天長四年正月二十一日に正五位下へ昇叙。
天長七年には格式を作った功で正五位上に進み、同十年撰上の『令義解』の編纂にも関係した。
『令集解』になどにみえる「物云」「興大夫云」は彼の学説といわれる。
『旧』の編纂者とする御巫清直の説がある。
越智直(名欠) (おちのあたい)
伊予国越智郡大領の祖。
百済救援のため遣わされて軍にあった時、転戦する中、唐兵に捕らわれて唐へ連行された。彼を含め同様に捕虜となった者、計八人は一つの島に住まわされたが、観音菩薩像を得て信仰した。松の木で舟をつくり、祈願したところ、西風が吹き筑紫へ帰り着くことができた。
朝廷はこれを召し問い、天皇はあわれんで願うところを申さしめた。そこで越智直は郡を立てて仕えたい旨を願い、許されて越智郡を建郡し、寺をつくって観音菩薩像を安置したという。(霊異記上巻)
越智直飛鳥麻呂 (おちのあたいあすかまろ)
伊予国越智郡の大領。
神護景雲元年二月二十日、あしぎぬ二百三十疋・銭千二百貫を献上したので、外正七位下から外従五位下に叙せられた。
宝亀元年十月二十六日、外従五位上に叙せられた。この時は散位。(続紀)
越智直入立 (おちのあたいいりたち)
宝亀六年正月十六日、正六位上から外従五位下に叙せられた。(続紀)
[←先頭へ]越智直国益 (おちのあたいくにます)
伊予国の人。
神護景雲元年六月三日、献物により外従五位下に叙せられた。このとき白丁。(続紀)
越智直静養女 (おちのあたいしずかいめ)
伊予国越智郡の人。
宝亀十一年七月二十二日、私財を用いて困窮した人々百五十八人を助け養ったことにより、爵二級を賜った。天平宝字八年三月二十二日の勅書に則ったものだという。(続紀)
越智直南淵麻呂 (おちのあたいなぶちまろ)
宝亀元年十月二十六日、外従五位下から外従五位上に叙せられた。(続紀)
[←先頭へ]越智直蜷淵 (おちのあたいになぶち)
神護景雲二年三月二十日、私財を献じたことにより外正八位上から外従五位下に叙せられた。(続紀)
越智直南淵麻呂と同一人物か。
越智直広江 (おちのあたいひろえ)
大学博士。越智は越知ともいう。
僧尼令集解の任僧綱条・同准格律条に、養老四年二月四日、大学明法博士だったことがみえる。
養老五年正月二十三日、詔により退朝の後も東宮に侍することとされる。時に正六位上。
同年同月二十七日、明経第一博士で、学業に優れその道の師範とするに相応しい者として、後進の励ますため、あしぎぬ二十疋・絲二十く・布三十端・鍬二十口を賜った。
同七年正月十日、従五位下に叙せられた。(続紀)
神亀三年十一月十五日にも、従五位下だったことが知られる。(賦役令集解舎人史生条)
また、懐風藻には「従五位下刑部少輔兼大学博士越智直広江」の詩がみえ、
藤氏家伝下には、神亀ころの代表的宿儒として守部連大隈ら五人とともにその名を残している。
越智直広峯 (おちのあたいひろみね)
左京の人。
貞観十五年十二月朔、善淵朝臣の姓を賜った。ときに外従五位下助教。
弟橘媛 (おとたちばなひめ)
日本武尊の妃。穂積氏の祖・忍山宿禰の娘。
景行四十年、尊は相模から上総に往こうと船出したところ、暴風がおこり船が没しようとした。そこで弟橘媛はその身を以って尊の命を贖おうと入水したところ、暴風は止み、岸に着くことが出来た。
尊は上総より陸奥へ入り、蝦夷を討ち、日高見より常陸を経て甲斐に出て、さらに武蔵、上野より碓日坂に至った時、媛をしのび東南の方を望んで嘆き、吾嬬はや、と言ったので、山東の諸国をアヅマの国と呼ぶようになったという。
同五十一年八月条に、日本武尊は穂積氏忍山宿禰の娘・弟橘媛を妃とし、稚武彦王を生んだとある。(紀)
記景行段にも、同様の説話があり、倭建命は東征の帰途足柄山に登り、弟橘比売命をしのんだことになっている。また若建王を生んだとあるが、比売の父の名は伝えない。
『記』が媛を「后」としその墓を「御陵」として高い位置づけをするのに対し、『紀』が「妃」または「妾」と表現することが注目される。
『旧』天皇本紀は日本武尊が弟橘媛を妃とし、稚武彦王命を生んだとする『紀』と同じ記事を載せる。
常陸国風土記には大橘比売命が見え、比売が倭より降来しこの地に倭武天皇と参遇したので、安布賀邑(相鹿)の地名が生まれたとする話(行方郡当麻郷条)、また昔遇鹿の地名があったのは倭武天皇がこの地にいたり、皇后も参遇したのでこのように名づけたという話(久慈郡助川駅家条)、倭武天皇東国巡撫の時、この野に宿し、ある人が奏して野に鹿多く海に鰒魚あり、と言ったので、天皇は野に幸し、橘皇后を海に遣わし、狩猟を行わせたところ、山に獲物なく、海に百味を得、海味を飽喫したので、飽田村と名づけたとする話(多珂郡道前里条)がある。
大橘比売命は弟橘媛命の異伝か。皇太子的地位にあったとされる人が即位することなく死去した場合、それを天皇と呼ぶ例が菟道稚郎子皇子(宇治天皇)や市辺押磐皇子(市辺天皇命)などで知られる。この風土記における日本武尊が天皇と呼ばれるのもその例のひとつであり、橘皇后もこれに対応したものであろう。
弟媛 (おとひめ)
天孫本紀に、物部竹古連の娘で物部五十琴彦連の妻。
二児を生したという。目古連・牧古連がこれにあたるか。
小甂媛 (おなべひめ)
応神天皇妃。
『旧』神皇本紀に、物部多遅麻大連の娘で、姉・香室媛とともに応神妃となったとある。
しかし、『紀』には、応神二年三月条に、和珥臣の祖・日触使主の娘で、姉・宮主宅姫とともに妃になり、菟道稚郎姫皇女を生んだとあり、父は『旧』と異なる。
『記』応神巻では、袁那弁郎女とあり、丸邇之比布礼意富美の娘で、宇遅之若郎女を生んだという。
臣賀夫良命 (おみかぶらのみこと)
国造本紀に、出雲大臣命の孫で、成務朝に三野後国造に任じられたことがみえる。(旧)
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