【物部人物列伝】か行
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影媛 (かげひめ)
物部麁鹿火大連の娘。
武烈即位前紀によると、仁賢十一年八月、皇太子・小泊瀬稚鷦鷯尊は影媛を娶ろうとして仲人を遣わし、会う約束をさせた。影媛は以前から平群鮪と通じていたが、皇太子との期待にそむくことを恐れて、海柘榴市の巷で待つことを約束した。
市の歌垣で、鮪がすでに影媛を得たことを知り、皇太子は大伴金村に命じて鮪を乃楽山で殺させた。
影媛はその所に行き、鮪が死ぬ様を目撃。悲しんで歌を詠んだという。
「石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ はるひ 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉碗に水さへ盛り 泣き沾ち行くも 影媛あはれ」
「あをによし 乃楽の谷に 鹿じもの 水漬く辺隠り 水灌く 鮪の若子を 漁り出な猪の子」
(『紀』)
香児媛 (かこひめ)
天孫本紀に、物部多遅麻大連の娘で、物部五十琴宿禰連の妻。
五十琴宿禰連との間に三児を生したという。伊莒弗連、麦入宿禰連、石持連がこれにあたる。(旧)
風早直豊宗 (かざはやのあたいとよむね)
伊予国の人。
承和元年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられる。
同六年十一月五日、善友朝臣の姓を賜り、本居を改めて左京四条二坊に貫する。
同八年十一月二十日、従五位下に叙せられる。
同十年二月十日、大炊頭に任じられる。
同十五年五月二十八日、上総権介に任じられる。(続日本後紀)
仁寿元年四月朔、次侍従に任じられる。
同二年二月十五日、散位頭に任じられる。この時も従五位下。(文徳実録)
柏原広山 (かしはらのひろやま)
河内国渋川郡の人。
持統三年七月二十日、偽って兵衛と称していたため、土佐国に流された。(紀)
肩野連道主 (かたののむらじみちぬし)
右京の人。
貞観二年十一月十六日、正六位上から外従五位下に叙せられる。ときに右近衛将監兼土左権掾。
貞観四年正月十三日、駿河権介に任じられる。このときも外従五位下。
元慶元年十二月二十七日、同族の肩野連乙守とともに、良棟宿祢の姓を賜る。ときに散位従五位下。(三代実録)
香取連五百嶋 (かとりのむらじいおしま)
神亀元年二月二十二日、私穀を陸奥国鎮所に献じたことにより、大伴直南淵麻呂ら十一人とともに、外従七位上から外従五位下に叙せられた。(続紀)
「香取大宮司系図」に香取連は経津主尊の後裔で、五百嶋の尻付に下総国匝瑳郡居住のことがみえる。
金刺舎人広名 (かなさしのとねりひろな)
駿河国駿河郡の大領。
延暦十年四月十八日、駿河国造に任じられた。ときに正六位上。(続紀)
金刺舎人麻呂 (かなさしのとねりまろ)
駿河国益頭郡の白丁。
天平勝宝九年八月十三日、字を自然に成せる蚕児を献じた。同月十八日の詔によるとその字は「五月八日開下帝釈標知天皇命百年息」で、これによって天平宝字に改元し、麻呂は従六位上に叙せられ、あしぎぬ二十疋・調綿四十屯・調布八十端・正税二千束を賜ったという。(続紀)
金弓連 (かなゆみのむらじ)
国造本紀に、伊香色雄命の孫で、仁徳朝に松津国造に任じられたことがみえる。(旧)
物部金弓連(【1】)と同一人か。
加波流姫 (かはるひめ)
天孫本紀に、姉の阿佐姫と共に物部尾輿連の妻。弓削連の祖・倭古連の娘。
尾輿連との間に二児を生したという。御狩連、守屋大連、金弓若子連、布都姫夫人、贄古連、麻伊古連、多和髪連のうちいずれかか。(旧)
韓国連広足 (からくにのむらじひろたり)
韓国連は物部韓国連ともいう。
文武三年五月二十四日条に、役小角の弟子だったとある。
天平三年正月二十七日、正六位上から外従五位下に叙せられる。
天平四年十月十七日、典薬頭となった。このときも外従五位下。(続紀)
神亀ころ、呪禁師と称せられていた。(藤氏家伝下)
僧尼令集解の凡僧尼卜相吉凶条に持呪の釈があり、「古記云。持呪謂経之呪也。道術符禁。謂道士法也。今辛国連行是」とみえ、辛国連氏に道士の法を行う人物がいたことがわかる。
文武三年に広足の名が見えるのは、官人世界に属さない役小角を説明するためのものであり、広足が師を讒言したとするのは後世の解釈の誤り。
韓国連源 (からくにのむらじみなもと)
宝亀八年の遣唐使のとき録事に任ぜられた。
宝亀九年十月二十三日条の小野滋野の上奏に、このときの遣唐使は宝亀八年六月に出航し、揚州に着いたが、安録山の乱後の混乱のために駅舎が荒れ果てていたので人数を制限され、長安に赴いたのは源を含む四十三人だったという。
宝亀十一月十日、源の乗る遣唐第四船が薩摩国甑嶋に帰国。はじめ嵐のため耽羅嶋(済州島)に流れ着き、現地人に略奪留置されたが、源らは謀をもって艫綱を解き、残っていた四十人あまりを率いて帰った。
延暦八年正月六日、正六位上から外従五位下に叙せられる。
延暦九年十一月、改姓のことを奏上して許される。
源ら韓国連は物部氏の同族であり、先祖の物部連塩児が、父祖が使者として朝鮮に遣わされたことにちなんで物部連を韓国連に改めたのだという。しかし韓国の名は新たに渡来した人民のようで、名乗るたびに人を驚かすので、居住地名を姓に賜るよう請い、高原の姓を許された。(続紀)
死後の弘仁三年正月八日、外従五位上から従五位下に追贈される。下野介で、その善政を後世に伝えるための贈位だったという。(日本後紀)
苅田首倉継 (かりたのおびとくらつぐ)
伊予国宇摩郡の人。
貞観十二年十二月二十六日、苅田首浄根とともに物部連の姓を賜った。ときに従七位上。(三代実録)
軽間連鳥麻呂 (かるまのむらじとりまろ)
大工。
神護景雲元年三月九日、称徳天皇の大安寺行幸に際して、正六位上から外従五位下に叙せられる。
宝亀三年十一月朔、修理次官に任じられる。このときも外従五位下。(続紀)
川上造吉備成 (かわかみのみやつこきびなり)
承和元年十二月十九日、春道宿禰の姓を賜る。ときに散位従七位下。
承和三年閏五月八日、本居を改めて河内国から右京七条二坊に貫附した。このときも散位。(続後紀)
巫部宿禰公成 (かんなぎべのすくねきみなり)
右京の人。
承和十二年七月十四日、同族の者とともに当世宿禰の姓を賜る。時に中務少録、正七位下。
公成らは神饒速日命の苗裔で、雄略天皇の世に始祖の真椋大連が筑紫から奇巫をむかえ、天皇の病を救い奉り、その功により巫部の姓を賜ったが、後世になると巫部氏そのものが巫覡の類いと疑い見られるようになったため、いま申すところによりこれを改めることにしたという。
巫部宿禰博士 (かんなぎべのすくねはかせ)
大宝二年三月十一日、従七位下から従七位上に叙せられた。(続紀)
[←先頭へ]基真 (きしん)
道鏡の腹心の僧。続紀宝亀元年九月十二日条に、親族の物部宿禰伊賀麻呂らを本姓の物部に復したととがみえ、俗姓は物部だったと見られる。
天平神護二年九月十九日、正五位上に叙せられる。ときに修行進守。
天平神護二年十月二十日、隅寺で発見されたという舎利を法華寺で安置。同時に道鏡が法王の地位についたことにともない、基真も法参議・大律師に任じられ、正四位上に叙せられ、物部浄之(物部浄志)朝臣の姓を賜った。
天平神護二年十月二十三日、月の食料を参議に準じることが定められる。
神護景雲二年十二月四日、飛騨国へ退けられる。天平神護二年に発見された舎利は基真の詐欺によるものであり、また権力を嵩にかけた行為は目にあまり、師である法臣円興をあなどり欺いていたという。(続紀)
日下部直益人 (くさかべのあたいますひと)
天平十四年四月十日、伊豆国造伊豆直の姓を賜った。時に外従七位下。(続紀)
[←先頭へ]櫛玉饒速日命 (くしたまにぎはやひのみこと)
饒速日命を見よ。
→饒速日命
[←先頭へ]熊野直広浜 (くまののあたいひろはま)
紀伊国牟婁郡の采女。
天平十七年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられた。
天平宝字五年六月二十六日、光明皇太后の周忌御斎供奉の労により、従五位上から位一階昇進。
天平神護元年正月七日、正五位上に叙せられ、
同年十月二十二日、称徳天皇の紀伊行幸に際し、従四位下に叙せられた。
神護景雲三年四月六日、卒した。時に散事、従四位下。(続紀)
来目物部伊区比 (くめのもののべのいくひ)
舒明即位前紀(推古三十六年)に見える。蘇我蝦夷の命を受けて境部臣摩理勢を絞殺した。(紀)
[←先頭へ]椋部夏影 (くらべのなつかげ)
阿波国那賀郡の人。
元慶五年四月四日、本姓の曽祢連に復する。ときに従七位上。(三代実録)
気津別命 (けつわけのみこと)
饒速日命六世の孫で伊香我色雄の子。真神田曾禰連の祖という。(『録』左京神別)
[←先頭へ]玄昉 (げんぼう)
俗姓は阿刀氏。
霊亀二年、学問僧として入唐し、唐の天子より三品に准じて紫袈裟を賜ったとされる。
天平七年、遣唐大使多治比広成に従って帰朝。この時、経論五千余巻および諸仏像を将来した。帰国後もまた紫袈裟を施されたという。
天平八年二月七日、封百戸・田十町・扶翼童子八人を賜る。ときに入唐学問僧とあり、同九年八月二十六日、僧正に任ぜられ、内道場に置かれた。
同九年十二月二十七日、皇太夫人藤原宮子の病を看護して験あり、天皇は初めて母夫人に相見給うたというので、天下慶賀し、あしぎぬ一千疋・綿一千屯・糸一千く・布一千端を賜った。
これより後、栄寵日に盛んにして沙門の行いに背いたので、時の人はこれを悪んだという。
大宰少弐藤原広嗣が乱を起したのは、玄昉と吉備真備を除こうとしたためであるという(天平十二年八月条)。
天平十七年十一月二日、観世音寺造営のため、筑紫に遣わされ、ついで同月十七日、その封物は没収された。
天平十八年六月十八日、大宰府において死去。藤原広嗣の霊に祟られ害されたと噂されたという。(続紀)
子田知 (こたち)
「録」左京神別下に、神饒速日命の十八世孫で若倭部氏はその後裔とある。
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