【物部人物列伝】ま行
ま |
全能媛 (またのひめ)
天孫本紀に、物部麦入宿禰連の妻で、物部目古連の娘。
麦入宿禰連との間に四児を生したという。大前宿禰連、小前宿禰連、御辞連、石持連がこれにあたる。(旧)
三見宿禰命 (みつみのすくねのみこと)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の四世孫で大木食命の弟という。出雲醜大臣の子。漆部連らの祖。
孝安朝に足尼となり、ついで宿禰に任じられて石上大神を奉斎した。宿禰の号はこのとき起こったという。
天皇本紀にも孝安朝に六見命とともに足尼となり、ついで宿禰となったとされる。(旧)
宮古郎女 (みやこのいらつめ)
天孫本紀に、物部大市御狩連の妻で、贄古連の娘。
大市御狩連との間に二児を生したという。大人連、目連(【3】)がこれにあたる。(旧)
六見宿禰命 (むつみのすくねのみこと)
天孫本紀に宇摩志麻治命の四世孫で大木食命の弟という。出雲醜大臣命の子。小治田連らの祖。
天皇本紀に、孝安朝に三見命とともに足尼となり、ついで宿禰となったという。(旧)
水取連柄仁 (もいとりのむらじつかひと)
天安元年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられ、
同年十一月二十五日、鼓吹正に任じられる。(文徳実録)
貞観六年八月八日、故人で朝臣の姓を賜る。極位も外従五位下。(三代実録)
水取連継雄 (もいとりのむらじつぐお)
継男ともいう。
斉衡元年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられる。(文徳実録)
貞観六年八月八日、既に故人であったが、同族の水取連夏子・水取連柄仁とともに、朝臣の姓を賜った。極位も外従五位下。(三代実録)
水取連継人 (もいとりのむらじつぐひと)
左京の人。
貞観六年八月二十五日、同族の水取連継主とともに、宿祢の姓を賜った。ときに主水令史正七位下。(三代実録)
物部会津 (もののべのあいづ)
常陸の人。孝徳天皇の癸丑年、物部河内とともに惣領高向大夫に請い、筑波郡・茨城郡から七百戸を分かって、信太郡を建設した。ときに大乙上。(常陸国風土記)
[←先頭へ]物部秋持 (もののべのあきもち)
遠江国長下郡の防人。国造丁。天平勝宝七年二月、防人として筑紫に遣わされるときの歌一首がある。(万葉集巻二十)
[←先頭へ]物部朝臣内嗣 (もののべのあそんうちつぐ)
元慶八年二月二十三日、典薬助で外従五位下から従五位下に叙せられる。(三代実録)
広泉の近親者か。
物部朝臣広泉 (もののべのあそんひろいずみ)
平安時代前期の医師。伊予国風速郡の人で、もと物部首広泉という。
延暦四年生まれ。年若くして医術を学び、自学で典薬寮に出身。天長四年、医博士兼典薬允に任ぜられる。(三代実録卒伝。医博士のことは貞観十二年三月卅日菅原朝臣峯嗣卒伝にも見える)
承和六年正月七日、正六位上から外従五位下。
承和十二年十二月五日、侍医のまま内薬正に任ぜられ、同十四年正月七日、従五位下。(続日本後紀)
仁寿元年正月十一日、内薬正侍医のまま伊予権掾を兼ねる。
同年四月八日、次侍従に任ぜられる。
斉衡元年正月七日、従五位上に叙せられ、同年十月十五日、姓を首から改め朝臣を賜る。
天安元年正月十四日、肥前介。同二年二月五日、内薬正侍医のまま三河権介を兼ねる。(文徳実録)
貞観元年十一月十九日、正五位下に昇叙。
同二年二月十四日、三河権守。
同年十月三日、没。
卒伝に、医術の道において当時並ぶ者はなく、「齢至老境、鬚眉皓白、皮膚光沢、体気猶強」であったとある。
著書に摂養要決二十巻があるが、現在は伝わらない。(三代実録)
また菅原峯嗣が清和天皇の勅を奉じて編纂した医書金蘭方に広泉も参加したとする説がある。
物部直広成 (もののべのあたいひろなり)
入間宿禰広成を見よ。
[←先頭へ]物部阿遅古連公 (もののべのあぢこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部金連の弟。水間君らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部弓梓連公 (もののべのあづさのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十六世孫で、物部荒猪連の弟。榎井臣らの祖。(旧)
榎井臣は榎井連が正しいか。
物部海連飯主 (もののべのあまのむらじいいぬし)
女孺。
延暦九年十月二十五日、従七位上から外従五位下に叙せられる。(続紀)
物部荒猪連公 (もののべのあらいのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十六世孫で、物部恵佐古連の子。榎井臣らの祖。孝徳朝に大華上(大花上)位を賜ったという。(旧)
榎井臣は榎井連が正しいか。
物部麁鹿火大連 (もののべのあらかいおおむらじ)
物部連麁鹿火、物部麁鹿火連公。
武烈即位前紀に、天皇が皇太子のとき、麁鹿火大連の娘・影媛を召そうとしたことがみえる。
継体元年一月四日、大伴金村、許勢男人らとともに、男大迹王擁立を議している。同年二月四日、天皇の即位とともに大連となる。
継体六年十二月、百済が上表して任那四県の割譲を請い、大伴金村がこれをゆるし、このことを上奏したとき、麁鹿火は宣勅使になり、難波館に向かい百済の使者に宣勅しようとした。だが、妻の諫言で病と称して、宣勅使を辞退している。
継体二十一年六月三日、筑紫の国造・磐井が叛乱し、征新羅将軍の近江毛野をさえぎった。天皇は大臣大連に将にすべき人物を諮り、金村の推薦によって麁鹿火が将軍になった。同年八月一日、詔を受け、天皇は長門から東を制し、麁鹿火は筑紫以西を制し、賞罰を専権することとなり、継体二十二年十一月十一日、大将軍として、筑紫御井郡で磐井と戦い、ついにこれを斬った。
安閑即位前紀に、金村を大連、麁鹿火を大連とすること元のごとし、とある。
宣化元年2月にも、同様に金村、麁鹿火をそのまま大連にすることが記されているが、このときは蘇我稲目が大臣になっている。
宣化元年7月、没する。(紀)
記継体巻には、物部荒甲大連とあり、磐井討伐は大伴金村とともに行ったこととされている。
録和泉国神別に、饒速日命の十五世孫で、高岳首の祖とあり、旧天孫本紀には、宇摩志麻治命の十四世孫、父は麻佐良大連とあり、安閑天皇の時代に、大連になり、神宮(石上)を奉斎したとある。
旧の麁鹿火を守屋らと同じ、十四世孫の世代に置くのは疑わしいが、録でも同様の世代とされており、氏族内部では有力な伝承だったものか。
物部荒山連公 (もののべのあらやまのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十二世孫で、物部目大連の子。
宣化朝に大連となって石上神宮を奉祭したという。十三世孫段に、尾輿の父として荒山大連が見える。(旧)
公卿補任も欽明天皇御世の大連・物部尾輿連は、荒山連の子なりとする。
物部印岐美連公 (もののべのいきみのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の八世孫で物部胆咋宿禰の弟。志紀県主、遠江国造、久努直、佐夜直らの祖。
成務朝に、止志奈連・片堅石連ら兄弟と共に侍臣として供奉したという。
国造本紀の遠淡海国造条に、成務朝に国造に任じられた印岐美命が見えるが、伊香色雄命の子とあって十千根命の子とする天孫本紀と齟齬がある。(旧)
遠江地域の物部氏族の祖先伝承に、広く採用されていた人物と見られる。
物部胆咋連 (もののべのいくいのむらじ)
物部連胆咋、物部胆咋宿禰。
仲哀九年二月、天皇が神意による死をとげた時、神功皇后と武内宿禰は天皇の喪を秘密にして、中臣烏賊津、大三輪大友主、物部胆咋、大伴武以の四大夫と善後策を協議している。
この結果、皇后は四大夫に橿日宮(香椎宮)を守らせ、武内宿禰をして密かに天皇の遺骸を穴門の豊浦宮へ運ばせたという。(紀)
旧天孫本紀では、宇摩志麻治命の八世孫。十市根大連の子。
成務天皇の時代に大臣になり、ついで宿禰になり、神宮(石上)を奉斎した。
市師宿禰の祖穴太足尼の娘・比咩古命を妻として三児を生み、また阿努建部君の祖太王の娘・鴨姫を妻として一児を生み、三川の穂国造美己止直の妹・伊佐姫を妻として一児を生み、さらに宇太笠間連の祖大幹命の娘・止己呂姫を妻として一児を生んだとある。
天皇本紀にも成務元年正月に大臣に任じられたことがみえる。
妻妾の氏については、宇太笠間(大和国宇多郡笠間郷)→市師(伊勢国壱志郡)→阿努建部(伊勢国安濃郡建部郷)→三川穂(参河国宝飯郡)と大和から東海地方へ展開しており、この地域と物部氏との繋がりを物語るだろう。
物部五十琴宿禰連公 (もののべのいことのすくねのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で、胆咋宿禰の子。神功皇后摂政の時、はじめ大連となり次いで宿禰となって、石上神宮を奉斎したという。
物部多遅麻大連の娘の香児媛を妻とし、三児を生した。伊莒弗連、麦入宿禰連、石持連がこれにあたる。
天皇本紀も神功摂政三年正月に、大連に任じられたとする。(旧)
物部五十琴彦連公 (もののべのいことひこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で五十琴宿禰連の弟。
弟の物部竹古連の娘・弟媛を妻として二児を生したという。目古連・牧古連がこれにあたるか。(旧)
物部五十琴姫命 (もののべのいことひめのみこと)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で、五十琴宿禰連の妹。
景行朝に妃となって、天皇との間に五十功彦命を生したという。
天皇本紀も、景行四十六年八月に物部胆咋宿禰の娘・五十琴姫命が天皇妃となり、五十功彦命を生したとする。(旧)
景行朝に物部氏族が皇妃を出したことは、他書には見えない。
物部伊莒弗大連 (もののべのいこふつのおおむらじ)
履中二年十月、天皇が磐余に宮を造ったとき、平群木莵、蘇我満智、葛城円とともに国事をとった。大連とある。(紀)
録では伊己布都ともいう。
旧天孫本紀に物部伊莒弗連公。宇摩志麻治命十世の孫で、父は五十琴宿禰。
履中・反正天皇の時代に大連になり、石上神宮を奉斎した。倭国造の祖・比香賀君の娘の玉彦媛を妻として二児を生み、姪の岡陋媛を妻として二児を生む。目大連らの父。
神皇本紀にも、履中元年二月に大連に任じられたことがみえる。
物部伊勢連父根 (もののべのいせのむらじちちね)
物部至々連ともいう。
継体九年二月、百済の使者・文貴将軍を送って百済に赴く途中、沙都嶋(巨済島)に至ったとき、伴跛(はへ)の人が日本に恨みを抱き、暴虐をほしいままにしていることを聞いた。そこで、水軍五百を率いて帯沙江に至った。
同九年四月、軍を興して攻めてきた伴跛に惨敗。父根は命からがら汶慕羅島へ逃れた。
同十年五月、百済の使いに迎えられてその国に入り、
同十年九月、百済の州利即次将軍に送られて帰国した。
同二十三年三月、百済王は穂積押山臣に託して、加羅の多沙津を請うた。天皇は、父根と吉士老らを使いとして津を百済に賜ったが、加羅王はこの津は加羅の朝貢の寄港地であるとして反対した。
このため、父根らはその場で百済に津を賜ることは難しいと判断し、大島へ引き返した。
別に録史(記録官)を派遣して、百済に賜ることにした。このため、加羅は日本から離れ、新羅と結ぶことになったという。
(紀)
物部磯浪 (もののべのいそなみ)
磯波とも。
神護景雲元年七月条によると、天平宝字八年に近衛のとき藤原仲麻呂が鈴印を奪ったことを知らせたので、その功により、このとき従八位下から外従五位下に叙せられたとある。
宝亀二年二月、左兵衛大尉に任ぜられた。(続紀)
物部石上贄古連公 (もののべのいそのかみのにえこのむらじきみ)
物部贄子連を見よ。
[←先頭へ]物部射園連老 (もののべのいそののむらじおゆ)
天応元年六月九日、正六位上から外従五位下に叙せられる。(続紀)
[←先頭へ]物部木蓮子大連 (もののべのいたびのおおむらじ)
安閑天皇の妃・宅媛の父。安閑元年三月六日条にみえ、名前を「イタビ」と読むとの注がある。(紀)
旧天孫本紀では、宇摩志麻治命十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘・全姫とある。
仁賢天皇の時代、大連となり、神宮(石上)を奉斎し、御大君の祖の娘・里媛を妻にして、二児を生んだ。
物部稲吉 (もののべのいなき)
貞観元年十二月二十七日の太政官論奏にみえる。
書生の物部稲吉は、前の越後守・伴宿禰龍男が官物を横領したことを告訴していたが、そのため恨まれて、龍男の従者の公弥候広野らに毆殺された。(三代実録)
物部印葉連公 (もののべのいにはのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で、多遅麻大連の子。
応神朝に大連に任じられ、石上神宮を奉斎したという。
神皇本紀は応神四十年正月に、大臣となったとする。(旧)
物部今木金弓若子連公 (もののべのいまきのかなゆみわくごのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で大市御狩連や守屋大連の弟。今木連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部伊予連公 (もののべのいよのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で物部印葉連の弟。
仁徳朝に弟の物部小神連と共に、侍臣となって供奉したという。(旧)
物部石持連公 (もののべのいわもちのむらじきみ)
【1】
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で物部伊莒弗連の弟。佐為連らの祖。(旧)
【2】
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十一世孫で物部大前宿禰連の弟。刑部垣連、刑部造らの祖。(旧)
兄の大前宿禰は履中即位前紀・安康即位前紀に登場する。石持連も、允恭天皇の皇后・忍坂大中姫命と同世代に設定され、この皇后への近侍を以って名代部の設置に関与したとする伝承が刑部氏にあったものか。
物部石弓若子連公 (もののべのいわゆみのわくごのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十五世孫で、物部麁鹿火大連の子。今木連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部大人連公 (もののべのうしのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十五世孫で、物部大市御狩連公の子。
物部雄君連の娘・有利媛を妻として一児を生したという。耳連がこれにあたる。(旧)
物部菟代宿禰 (もののべのうしろのすくね)
雄略十八年八月十日、物部目とともに伊勢の朝日郎を征伐したが、朝日郎の強弓を恐れて進撃しなかった。それに対し、物部目は進んで朝日郎を捕らえて斬った。
菟代宿禰は恥じて、その後七日間まで復命しなかった。そのため、天皇はその怯えを聞き、菟代宿禰の有した猪使部を奪って物部目に賜ったとある。(紀)
物部恵佐古連公 (もののべのえさこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十五世孫で、物部麻伊古連の子。推古朝に大連となって石上神宮を奉斎したという。物部荒猪連、弓梓連、加佐夫連、多都彦連の父。(旧)
[←先頭へ]物部朴井連椎子 (もののべのえのいのむらじしいのみ)
大化元年九月、古人大兄皇子の謀反にくみしたとされる。(紀)
物部朴井連鮪と同一人物の可能性があろう。
物部朴井連鮪 (もののべのえのいのむらじしび)
斉明四年十一月五日、有間皇子が謀反を図ったとされたとき、蘇我赤兄に遣わされ、造営工事の人夫達を率いて、皇子を市経の家に取り囲んだ。(紀)
[←先頭へ]物部大小木連公 (もののべのおおおきのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の八世孫で物部武諸隅連の弟。佐夜部直、久奴直らの祖。
成務朝に、兄弟の大小市連・大諸隅連と並んで侍臣となって供奉したという。(旧)
→武諸隅命
[←先頭へ]物部大小市連公 (もののべのおおおちのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の八世孫で物部武諸隅連の弟。小市直の祖。
成務朝に、弟の大小木連・大母隅連と並んで侍臣となって供奉したという。
国造本紀小市国造条に、大新川命の孫・子到命が応神朝に伊予国越智の国造に任じられたとあるのは、これの異伝か。(旧)
物部大市御狩連公 (もののべのおおちみかりのむらじきみ)
録左京神別に、弥加利大連といい、饒速日命の十五世の孫で、大貞連の祖という。
旧天孫本紀では、宇摩志麻治命十四世の孫で、尾輿の子。守屋、贄古らの兄という。
敏達天皇の時代、大連となり、神宮(石上)を奉斎した。
弟の贄古の娘・宮古郎女を妻として、大人連らを生んだとある。
帝皇本紀にも、敏達元年四月に大連に任じられたことがみえる。
大市は河内国渋川郡邑智郷もしくは大和国城上郡大市郷として見える地名で、御狩はこの地に縁故の人物であろう。
物部大前宿禰 (もののべのおおまえのすくね)
履中即位前紀に、仁徳天皇の没後、履中天皇がまだ皇太子であるとき、住吉仲皇子が皇太子を殺そうとしてその宮を取り囲んだ。大前宿禰は、平群木莵宿禰、漢直の祖・阿知使主と三人で、皇太子にこのことを告げたが信じないので、皇太子を抱きかかえて馬に乗せて大和へ走り難をのがれたとある。なお、脱出に成功した皇太子が拠ったのは石上神宮である。
安康即位前紀に、允恭天皇の没後、皇太子・木梨軽皇子が同母妹と通じたことが露見し、天下の人はみな穴穂皇子(安康天皇)についたので、軽太子は穴穂皇子を襲うため兵を集めた。穴穂皇子もこれに対して兵を興して戦う意志を示したので、軽太子は群臣、人民の従わないことをおそれて、大前宿禰の家にかくれた。穴穂皇子はこれを聞いて、その家を囲み、大前宿禰は穴穂皇子に軽太子を殺さないよう願ったが、太子はその家で自殺した。一説には、伊予国へ流されたともいう。
(紀)
記允恭巻にも、軽太子は大前小前宿禰の家に逃れ、穴穂皇子は大前小前宿禰の家を囲んだとある。雨降るなか、大前小前宿禰が歌った歌が
「宮人の足結の小鈴 落ちにきと 宮人とよむ。里人もゆめ。」
である。
旧天孫本紀には、宇摩志麻治命十一世孫に、物部大前宿禰連公があり、その弟に物部小前宿禰連公がいる。父は物部麦入宿禰、母は全能媛。大前宿禰は安康天皇の世、はじめ大連、つぎに宿禰になり、神宮(石上)を奉斎したとある。氷連の祖。
神皇本紀には、允恭二十三年三月に大連に任じられたことがみえる。
物部大連尾輿 (もののべのおおむらじのおこし)
安閑元年閏十二月、廬城部連幡媛が、尾輿の珠の首飾りを盗み、春日皇后に献上したことが発覚した。尾輿は事件が自分にかかわることを避けるため、大和国十市部、伊勢国来狭狭・登伊の贄土師部、筑紫国胆狭山部を献上した。
欽明即位前紀(宣化四年)十二月、大伴金村(再任)とともに大連になる。大臣は蘇我稲目。
欽明元年九月五日、難波祝津宮への行幸に、大伴金村、許勢稲持とともに随行した。
そこで、新羅を征しうる軍勢の数についての勅問に対して、少々の軍では容易に攻略できないこと、大伴金村がかつて任那四県をたやすく百済に譲ったため、新羅の怨みは深いことを述べ、軽々しく討って出るべきではない旨を答えた。そのため、金村は住吉の家にこもり、出仕しなくなったという。
欽明十三年十月、百済の聖明王が仏像・経論等を贈ってきた時、礼仏の可否の勅問に対して、蘇我稲目の意見に反対し、尾輿と中臣鎌子は排仏を主張した。
その後、仏像は稲目が賜り試みに礼拝されていたが、疫病が流行ったため、尾輿らはこれを国の神の怒りであると奏上し、天皇の命を受けて仏像を難波の堀江に捨てさせたという。(紀)
旧天孫本紀には物部尾輿連公。宇摩志麻治命の十三世の孫で、父は荒山大連とあり、欽明天皇の時代、大連になり、神宮を奉斎したという。
弓削連の祖倭古の娘・阿佐姫と加波流姫を娶り、それぞれ四児と三児を生んだとある。御狩、守屋、金弓若子などがそれである。
帝皇本紀にも、欽明元年十二月に大連に任じられたことがみえる。
物部大母隅連公 (もののべのおおもろずみのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の八世孫で物部武諸隅連の弟。矢集連らの祖。
成務朝に、兄の大小市連・大小木連と並んで侍臣に任じられて供奉したという。(旧)
崇神紀六十年七月十四日条に、武諸隅の別名として大母隅が見える。(紀)
→武諸隅命
[←先頭へ]物部大吉若子連公 (もののべのおおよしのわくごのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十五世孫で、物部鎌束連の弟。(旧)
[←先頭へ]物部大別連公 (もののべのおおわけのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で、物部印葉連の弟。矢田部連の祖。
仁徳朝に侍臣に任じられ、石上神宮を奉斎した。
姉の山無媛連が応神天皇との間に生した矢田皇女があり、仁徳朝にその子代部を置く時、大別連をして伴造とした。同時に矢田皇女の名にちなんでウヂ名も矢田部氏を賜ったという。
神皇本紀も仁徳八十二年二月に、侍臣物部大別連に詔して、矢田皇后に所生の皇子無く子代を定めるにつき、皇后の名を以ってウヂ名とし、その造に任じられ、矢田部連の姓を賜ったとする。(旧)
物部小神連公 (もののべのおかみのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で物部印葉連の弟。
仁徳朝に兄の物部伊予連とともに、侍臣として供奉したという。(旧)
物部雄君連 (もののべのおきみのむらじ)
朴井連(えのいのむらじ)雄君ともいう。壬申の乱の天武側の武将。天武天皇の舎人だった。
天武元年五月、私用で美濃に赴いたとき、近江朝廷が美濃・尾張の国司に命じて山陵を造るために人夫を徴発し、彼らに武器を取らせたことを知った。これは山陵を造るためではなく、事変の前兆だろうと考えた雄君は、急ぎ吉野にかえって大海人皇子に報告し、すみやかに避難すべきことをすすめた。
同年六月、大海人皇子に従って東国に赴く。
天武五年六月、病のため没する。
天皇はこれを聞き驚いて、壬申年に車駕に従い東国に入り、大功のあることをもって、内大紫位を贈り、物部の氏上を賜った。(紀)
旧天孫本紀には宇摩志麻治命十五世孫。父は守屋大連とあり、天武天皇の時代、氏上・内大紫位を賜り、神宮(石上)を奉斎したとある。物部目の娘・豊媛を妻として忍勝、金弓の二児を生むという。
ただし、雄君を守屋の子とするのは年代的に合わない。おそらく雄君が氏上となったことを評価してのことだろう。
守屋の弟・麻伊古の子孫には榎井氏の祖とされる人物が多い。あるいはこちらの系統の出か。
物部小事連 (もののべのおごとのむらじ)
続日本後紀の承和二年三月十六日、陸奥鎮守将軍物部匝瑳連熊猪の改姓記事にその名が見える。
昔、物部小事大連は、節を天朝より賜り、坂東に出征し凱旋帰報した勲功により、下総国に匝瑳郡を建て、これを氏とした。これがすなわち熊猪らの祖であるという。
旧天孫本紀に宇摩志麻治命十二世孫として物部小事連公が見える。父は布都久留で、兄に木蓮子、弟に多波がいたという。志陀連、柴垣連、田井連等の祖。
かつては匝瑳郡域に含まれていたと見られている「椿の海」の北岸・西岸一帯には、御前鬼塚古墳(鏑木古墳群)等、6世紀中葉以降の大型古墳が少なくない。伽藍遺跡・八日市場大寺廃寺と合わせて、物部匝瑳氏の祖先の活動と関係するか。
物部長目連公 (もののべのおさめのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十三世孫で、物部麻佐良連の弟。軽馬連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部押甲連公 (もののべのおしかいのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫。「記」に「荒甲」の表記が見える物部麁鹿火連の弟。
宣化朝に大連となって石上神宮を奉斎したという。(旧)
物部忍勝連公 (もののべのおしかつのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十六世孫で、物部雄君連の子。(旧)
[←先頭へ]物部乎刀良 (もののべのおとら)
上総国川辺郡の防人。上丁。(万葉集巻二十)
[←先頭へ]物部首縵麻呂 (もののべのおびとかずらまろ)
右京の人。
大同元年三月十四日、高狩忌寸の姓を賜る。ときに従八位下。(日本後紀)
物部首日向 (もののべのおびとひむか)
壬申の乱で近江側の武将。天武元年六月、乱に際して近江朝廷に属し、兵を興すため穂積臣五百枝らと倭京に遣わされたが、吉野側の将・大伴吹負のために捕えられた。(日本書紀)
録大和皇別の布留宿禰条に、石上神宮神主・武蔵臣の子と見える。すなわち、武蔵臣は斉明(皇極の誤りか)天皇の世に、蘇我大臣蝦夷のため臣の姓を失い、物部首となり、その子の正六位上日向は天武天皇の世、社地の名により布留宿禰の姓に改められ、その三世孫には邑智らがあるとされる。
物部小前宿禰 (もののべのおまえのすくね)
録によれば、饒速日命十二世の孫。高橋連の祖(山城神別)、また鳥見連の祖であるともいう(河内神別)。
旧天孫本紀では、饒速日命十一世の孫で、父は麦入宿禰。顕宗天皇の時代、大連となり、つぎに大宿禰となって、神宮(石上)と奉斎したという。田部連らの祖とある。
神皇本紀にも、顕宗元年正月に大連に任じられたことがみえる。
天孫本紀は兄を大前宿禰とするが、古事記允恭段に、木梨軽皇子が大前小前宿禰の大臣の家に逃れたとあるのは、この兄弟の家のことだろうか。
物部臣竹連公 (もののべのおみたけのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部金連(【2】)の弟。肩野連、宇遅部連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部老古連公 (もののべのおゆこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部麁鹿火連の弟。神野入州連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部鏡連家主 (もののべのかがみのむらじいえぬし)
土佐国香美郡の少領。
延暦二十四年五月十日、外従六位上から爵二級を授かり、外正六位上に叙せられた。
妻の物部文連全敷女が弘仁元年正月二十一日条にみえる。(日本後紀)
物部加佐夫連公 (もののべのかさふのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十六世孫で、物部荒猪連の弟。榎井臣らの祖。(旧)
榎井臣は榎井連に榎井朝臣との混同が起こったための誤記か。
物部片堅石連公 (もののべのかたがたしのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の八世孫で物部胆咋宿禰の弟。駿河国造らの祖。
成務朝に止志奈連・印岐美連ら兄弟と共に侍臣となって供奉したという。
国造本紀は片堅石命といい、成務朝に珠流河国造に任じられたとするが、その父を大新川命として、十千根命を父とする天孫本紀とは齟齬がある。(旧)
物部門起 (もののべのかどおき)
因幡国巨濃郡の人。
貞観四年七月二十八日、右京に本貫を移す。ときに正六位上、中宮大属。
貞観六年五月十一日、春道宿禰の姓を賜る。このときも正六位上で、因幡権掾。(三代実録)
物部金弓連公 (もののべのかなゆみのむらじきみ)
【1】
天孫本紀に、宇摩志麻治命の八世孫で胆咋宿禰の弟。田井連・佐比連らの祖。
成務朝に止志奈連ら兄と共に侍臣となって供奉したという。(旧)
【2】
物部今木金弓若子連公を見よ。
【3】
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十六世孫で忍勝連の弟。今木連らの祖。(旧)
物部鍛治師連公 (もののべのかぬちのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十一世孫で物部真椋連や物部目大連の弟。鏡作小軽馬連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部金古連公 (もののべのかねこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部金連(【2】)の弟。三嶋韓国連らの祖。
[←先頭へ]物部金連公 (もののべのかねのむらじきみ)
【1】
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十三世孫で、物部麻佐良連の弟。借馬連、野間連らの祖。(旧)
【2】
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部目連(【2】)の子。野間連、借馬連らの祖。(旧)
物部鎌束連公 (もののべのかまつかのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十五世孫で、物部石上贄古連の子。(旧)
[←先頭へ]物部鎌姫大刀自連公 (もののべのかまひめおおとじのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十五世孫で、物部鎌束連の妹。
推古朝に参政となって石上神宮を奉斎し、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻として豊浦大臣(入鹿連公)を生したという。(旧)
蘇我蝦夷の通称である豊浦大臣を入鹿のものとするのは誤り。
崇峻即位前紀は蘇我馬子の妻について、「蘇我大臣の妻は是物部守屋大連の妹なり。大臣、妄に妻の計を用ゐて大連を殺せり」とし、また皇極紀二年十月条も「蘇我大臣蝦夷、病によりて朝らず。私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬ふ。また其の弟を呼びて物部大臣と曰ふ。大臣の祖母は物部弓削大連の妹なり。故母が財に因りて威を世に取れり」とする。
日本書紀の物部守屋の妹を蘇我馬子の妻とする記述と、旧事本紀の姪を妻とする記述に齟齬があるが、これは大連家滅亡後の石上神宮に対する蘇我氏の介入を覆い隠す意図による旧事本紀の造作か。
物部韓国連真成 (もののべのからくにのむらじまなり)
女官。
延暦八年正月二十六日、正六位上から外従五位下に叙せられた。(続紀)
物部河内 (もののべのかわち)
常陸国の人。孝徳天皇の癸丑年、物部会津とともに惣領高向大夫に請い、筑波郡・茨城郡から七百戸を分かって、信太郡を建設した。ときに小山上。(常陸国風土記)
[←先頭へ]物部君夏花 (もののべのきみなつはな)
夏花を見よ。
[←先頭へ]物部薬 (もののべのくすり)
伊予国風速郡の人。持統十年四月二十七日、長く唐地に苦しんだことを慰めるため、追大弐を授けられ、布二十端、稲千束、水田四町などを賜い、戸の調役を免除された。(日本書紀)
白村江戦のとき、捕虜になっていたものか。
物部国依 (もののべのくにより)
常陸国信太郡の人。
養老七年三月二十三日、信太連の姓を賜った。(続紀)
物部椋垣連公 (もののべのくらがきのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で、物部五十琴宿禰連の弟。城蘊連、比尼蘊連らの祖。
景行朝に兄の竺志連・竹古連とともに、侍臣となって供奉したという。(旧)
物部呉足尼連公 (もののべのくれのすくねのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十三世孫で、物部麻佐良連の弟。依羅連らの祖。
欽明朝に宿尼に任じられたという。(旧)
物部毛虫咩 (もののべのけむしめ)
土佐国の人。
和銅七年五月二十七日、三つ子を産んだので、籾四十斛と乳母を賜った。(続紀)
物部古麻呂 (もののべのこまろ)
遠江国長下郡の防人。(万葉集巻二十)
[←先頭へ]物部坂麻呂 (もののべのさかまろ)
美濃国多芸郡の人。
宝亀八年十一月八日、物部多芸連の姓を賜った。(続紀)
物部塩古連公 (もののべのしおこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部金連(【2】)の弟。葛野韓国連らの祖。(旧)
「続紀」延暦九年十一月十日の韓国連源の奏言に、物部連らは各々居地または行う業とにより別れて百八十氏となり、源の先祖の塩児も父祖が使者として遣わされた国の名を以って、改めて物部連から韓国連を称するようになったと見える。
物部志太連大成 (もののべのしだのむらじおおなり)
常陸国信太郡の大領。
延暦五年十月二十一日、私財を使って人民の危急を救ったため、外正六位上から外従五位下に叙せられた。
延暦九年十二月十九日、外従五位上に昇叙。このときの叙位は、職務に精勤で著しい功績があった者か、私物を以って貧しい民を救った者に行われたという。(続紀)
物部斯波連永野 (もののべのしばのむらじながの)
陸奥の蝦夷訳語。俘囚か。
元慶五年五月三日、外従八位下から外従五位下に叙せられる。(三代実録)
物部宿禰伊賀麻呂 (もののべのすくねいがまろ)
僧基真の親族で、近江国の人。
宝亀元年九月十二日、宿禰の姓を剥奪され、本姓の物部に復した。ときに従八位下。
物部匝瑳連足継 (もののべのそうさのむらじあしつぐ)
大同四年四月三十日、正六位上から外従五位下に叙せられる。
弘仁二年三月二十日条に、陸奥北部征討の鎮守副将軍としてみえる。このときも外従五位下。
凱旋して弘仁二年十二月十三日、外従五位上に昇叙。
同三年二月十日、鎮守将軍。
同四年正月七日、従五位下。
同七年正月七日、従五位上。(日本後紀)
物部匝瑳連熊猪 (もののべのそうさのむらじくまい)
下総国匝瑳郡の人。
承和元年五月十九日、主殿允正六位上から外従五位下に叙せられ、陸奥鎮守将軍に任じられる。
承和二年三月十六日、宿祢姓を賜り、本居を改めて左京二条に貫附される。このときも鎮守将軍外従五位下。
坂東を征し匝瑳郡を建郡した物部小事大連が、熊猪らの祖であるという。(続日本後紀)
物部多芸宿禰国足 (もののべのたぎのすくねくにたり)
左京の人。
宝亀八年十一月八日、多芸連から物部多芸宿禰へ姓を賜る。ときに正八位下。
天応元年四月十五日、正七位上から外従五位下に叙せられる。
天応元年五月十七日、中宮少進に任ぜられ、同月二十五日、因幡介を兼ねる。
延暦元年閏正月十七日、中宮少進・外従五位下のまま越中介を兼ねる。
延暦二年二月二十五日、中宮大進に任ぜられる。
延暦五年正月七日、従五位下に叙せられる。
延暦五年八月八日、中宮大進・従五位下のまま常陸大掾を兼ねる。
延暦九年三月二十六日、常陸大掾兼任のまま図書助に任ぜられる。
延暦十年正月七日、従五位上に叙せられる。(続紀)
物部多芸連建麻呂 (もののべのたぎのむらじたけまろ)
延暦八年十一月九日、造宮(長岡宮)大工で正六位上から外従五位下に昇叙。(続紀)
同十五年七月九日、造宮職所属の造宮大工。
同二十二年四月二十八日、同月十四日に難波津から進発した遣唐船が、風雨で破損して戻ったため、その状態を調査するために遣わされる。(日本後紀)
物部竹古連公 (もののべのたけこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で、物部五十琴宿禰連の弟。藤原恒見君、長田川合君、三川蘊連らの祖。
景行朝に兄弟の竺志連・椋垣連と共に、侍臣として供奉したという。(旧)
物部建彦連公 (もののべのたけひこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十三世孫で、物部麻佐良連の弟。高橋連、立野連、都刀連、横広連、勇井連、伊勢荒比田連、小田連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部多遅麻連公 (もののべのたじまのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で武諸隅大連の子。景行朝に大連に任じられ、石上神宮を奉斎したという。
物部五十琴彦連の娘の安媛を妻として、五児を生した。印葉連・山無媛連・伊予連・小神連・大別連がこれにあたる。
天皇本紀に、仲哀天皇崩御を秘することを武内宿禰・大三輪大友主・物部胆咋・大伴武以と共に命ぜられ、神功摂政元年十月には大連に任じられたという。(旧)
→武諸隅命
[←先頭へ]物部竜 (もののべのたつ)
上総国周准郡の防人。上丁。(万葉集巻二十)
[←先頭へ]物部田継 (もののべのたつぐ)
弘仁二年閏十二月二十五日、正六位下から外従五位下に叙せられる。(日本後紀)
[←先頭へ]物部多都彦連公 (もののべのたつひこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十六世孫で、物部荒猪連の弟。榎井臣らの祖。
天智朝に大連となって石上神宮を奉斎したという。(旧)
榎井臣は榎井連が正しいか。
物部多波連公 (もののべのたはのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十ニ世孫で、物部大前宿禰連の弟。依網連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部多和髪連公 (もののべのたわかみのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部大市御狩連らの弟。(旧)
[←先頭へ]物部竺志連公 (もののべのつくしのむらじきみ)
【1】
天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で、物部五十琴宿禰連の弟。奄智蘊連らの祖。
景行朝に弟の竹古連・椋垣連と共に、侍臣として供奉したという。(旧)
【2】
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十一世孫で、物部布都久留連の弟。新家連らの祖。(旧)
物部十千根大連 (もののべのとおちねのおおむらじ)
十千根命を見よ。
→十千根命
[←先頭へ]物部得麻呂 (もののべのとくまろ)
女孺。宝亀九年正月二十五日、無位から外従五位下に叙せられる。(続紀)
[←先頭へ]物部止志奈連公 (もののべのとしなのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の八世孫で、物部胆咋宿禰の弟。杭田連らの祖。
成務朝に弟の片堅石連公らと共に侍臣となったという。(旧)
物部刀自売 (もののべのとじめ)
武蔵国埼玉郡の防人・藤原部等母麻呂の妻。(万葉集巻二十)
[←先頭へ]物部豊日連 (もののべのとよひのむらじ)
若湯坐連の祖・意富売布(大咩布)連の子。
景行五十三年十月、天皇の上総国安房の浮島宮行幸のとき、安房大神を御食都神とし、豊日連に火を鑚らせて忌火として、御食を供した。この神は大膳職の祀る神で、忌火を鑚る大伴造は豊日連の後裔であるという。(高橋氏文)
→大売布命
[←先頭へ]物部長兄若子連公 (もののべのながえのわくごのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十五世孫で、物部鎌束連の弟。(旧)
[←先頭へ]物部長真胆連 (もののべのながまいのむらじ)
履中三年十一月六日、天皇が両枝船を磐余の市磯池に浮かべて遊宴したとき、桜の花びらが盃に落ちた。これをあやしんだ天皇は、長真胆に詔して、その桜の木を探させた。長真胆は掖上の室山でこの木を見つけ、これを献上したので、天皇はその珍しさを喜び、宮の名称を「磐余稚桜宮」とし、長真胆の本姓を改めて稚桜部連の姓を賜ったとある。(紀)
録右京神別上、若桜部造条にもこれと同じ説話があり、長真胆は饒速日命の三世孫の出雲色男命の四世孫とある。
物部奈西連公 (もののべのなせのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十五世孫で、物部押甲連の子。葛野連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部奈洗連公 (もののべのなせのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十三世孫で、物部尾輿連の弟。(旧)
[←先頭へ]物部贄子連 (もののべのにえこのむらじ)
贄子大連とも。
敏達十二年、天皇の召環に応えて百済から日羅がきて桑市村に館を営んだとき、贄子は阿倍目、大伴糠手子とともに遣わされ、日羅に任那再興の策を尋ねた。日羅は、兵を強くして、船を多く作り、百済を威圧すべきこと等を答え奏した。
そのため、日羅は百済の使臣に殺されてしまった。天皇は、贄子、糠手子に詔して、日羅を小郡西畔丘前に葬らせ、残された妻子を石川百済村に、水手らを石川大伴村に住まわせたという。(紀)
旧天孫本紀には、物部石上贄古連公とあり、宇摩志麻治命の十四世孫で、尾輿の子、守屋の弟にあたる。異母妹・布都姫(御井夫人)を妻として、鎌束、長兄若子、大吉若子、鎌姫大刀自の四児を生んだという。
推古天皇の時代、大連になり、神宮(石上)を奉斎したとある。
旧の守屋の弟とする伝の信憑性には問題が残るものの、大連守屋による「近縁者を大夫とすることで大夫層の中に大連支持勢力を形成しようとした意図」に基づき、大夫として国政に参議していたとする加藤謙吉氏の説がある。
物部蜷淵 (もののべのになぶち)
上野国甘楽郡の人。
天平神護元年十一月朔、物部公の姓を賜った。ときに中衛。(続紀)
物部孫足 (もののべのひこたり)
神護景雲二年閏六月八日、私財を献じたため外正八位下から外従五位下に叙せられる。(続紀)
[←先頭へ]物部尋来津首橘 (もののべのひろきつのおびとたちばな)
中臣氏系図(延喜本系)にみえる。
娘の宇那古娘が中臣連常磐に嫁し、可多能祜を生んだ。
物部広足 (もののべのひろたり)
武蔵国荏原郡の防人。上丁。(万葉集巻二十)
[←先頭へ]物部布都久留連 (もののべのふつくるのむらじ)
懐、布都久呂、ともいう。依羅連、河内の物部らの祖。
録左京神別では饒速日命十二世の孫、河内神別では十三世の孫という。
旧天孫本紀には、宇摩志麻治命十一世孫。伊莒弗の子で真椋の弟。
雄略天皇の時代、大連になり、石上神宮を奉斎した。
依羅連柴垣の娘・太姫を妻として、木蓮子らを生んだとある。
神皇本紀にも、雄略二十二年正月に大連に任じられたことがみえる。
旧に雄略朝の大連とあることは、紀の目を大連とすることと合わない。紀には目を祖とする石上氏(続紀養老元年三月三日条石上麻呂薨伝)の影響が大きく、布都久留の場合は推古朝~大化以前に大夫輩出氏として物部氏族を主導した依網氏の影響が考えられるだろう。天孫本紀物部氏系譜原資料の形成時期や、物部氏における「画期としての雄略朝」観を窺う上で貴重な例といえる。
物部文連全敷女 (もののべのふみのむらじまたしきめ)
土佐国香美郡の人。物部鏡連家主の妻。
弘仁元年正月二十一日、少初位上に叙せられ、戸の田祖を終身免除され、家と村里の入口には節婦であるとの標が立てられた。夫の死後、悲しみの鳴き声を絶やさず、道を行く者に哀れの思いを起させていたという。(後紀)
物部冬男 (もののべのふゆお)
淡路国の浪人。貞観三年十月二十八日の太政官論奏にみえる。
錦織広人を闘殺して斬刑にあたる罪に問われたが、死一等を減ぜられて遠流に処せられた。(三代実録)
物部古丸 (もののべのふるまろ)
光仁天皇の時代、肥前国松浦郡の人・火君は死んだが、閻魔大王が寿命は尽きていないとして、現世に送り返されることになった。
その途中、釜ゆで地獄の近くを通ったとき、熱湯に浮き沈みする黒い切り株のようなものが、火君に声をかけた。それは生前、遠江国榛原郡の住人だった物部古丸で、役人としての職務を悪用し、人民の持ち物を無理に徴収したために、死後は地獄に落ちたのだという。
古丸が、法華経を写して自分の罪が許されるよう図ってほしいと頼んだので、火君は生き返った後、このことを大宰府に届け出た。
大宰府はさらに朝廷に報告したが、誰も信じる者はなく、記録は二十年間放置された。その後、菅原真道が大弁となったとき、これを見て、桓武天皇に奏上した。
天皇は、古丸が長く地獄で苦しむことを憐れみ、法華経の写経を命じ、施皎僧都を読師として大法会を行わせたという。(霊異記下巻)
物部麻伊古連公 (もののべのまいこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部大市御狩連の弟。屋形連らの祖。
十五世孫段の物部恵佐古連は麻伊古大連の子であるという。(旧)
物部莫哥武連 (もののべのまがむのむらじ)
日系百済人。麻哿牟ともいう。
欽明四年九月、新牟貴文らとともに来日し、百済王の使いとして扶南の財物と奴二人を献じた。その時の冠位は施徳。
同十五年十二月、百済東方軍の将として、聖明王の命をうけ、軍を率いて新羅の函山城を攻めた。日本からの援兵もあったので城を落とすことができたという。(紀)
物部牧古連公 (もののべのまきこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で、物部目古連の弟。佐比佐連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部真椋連 (もののべのまくらのむらじ)
真椋大連とも。
録和泉神別に雄略天皇が病のとき、筑紫豊の国の奇巫を召し、真椋に巫覡を率いさせて供奉させたので、巫部連の姓を賜ったとする。
続日本後紀承和十二年七月十四日条も同様に筑紫の巫者を率い雄略天皇を病から救い、巫部連の姓を賜ったことが見える。
旧天孫本紀に物部真椋連公。宇摩志麻治命十一世の孫。伊莒弗の子で、巫部連、文島連、須佐連らの祖とある。
目(石上氏)や布都久留(依網氏)という政治的に有力だった氏の祖の兄に位置づけられることが注目される。巫覡を部として組織することが、鎮魂呪術との関係で重視されたものか。
物部麻作連公 (もののべのまさのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十二世孫で、物部荒山連の弟。借馬連・笑原連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部麻佐良連公 (もののべのまさらのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十三世孫で、物部木蓮子連の子。
武烈朝に大連となって石上神宮を奉斎し、須羽直の娘・妹古を妻として二児を生したという。麁鹿火連、押甲連、老古連のいづれかか。
神皇本紀も武烈二年三月に、大連に任じられたとする。(旧)
物部真島 (もののべのましま)
下野国の防人。(万葉集巻二十)
[←先頭へ]物部真根 (もののべのまね)
武蔵国橘樹郡の防人。上丁。(万葉集巻二十)
[←先頭へ]物部麻呂 (もののべのまろ)
【1】
備前国御野郡の人。神護景雲三年六月二十六日、石生別公の姓を賜る。(続紀)
【2】
通り名を塩舂。
聖武天皇の時代、紀伊国名草郡三上村の人が薬王寺(勢多寺)のために基金をつくり、運用していた。
あるとき、この寺にまだらの子牛がやってきて、追い出しても去らないので、寺の仕事に使役することにした。
五年後、寺の信徒の岡田村主石人の夢に牛が現われていうには、自分は桜村にいた物部麻呂で、寺の基金から酒二斗を借りたものの、返済しないうちに死んだため、牛に生まれ変わって、借りを返すために使われており、その年限は八年間だと述べた。
牛は八年の労役を終えると、どこかへ去って行ったという。(霊異記中巻)
【3】
石上朝臣麻呂を見よ。
物部御辞連公 (もののべのみことのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十一世孫で、物部大前宿禰連の弟。佐為連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部三楯連公 (もののべのみたてのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部金連(【2】)の弟。鳥部連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部乱 (もののべのみだる)
讃岐国寒川郡の人。
物部乱ら二十六人は、庚午年籍(天智九年)以来良民として戸籍に載せられていたが、庚寅(持統四年)の校籍のとき、誤って飼丁とされてしまっていた。そのため、和銅六年五月十二日、讃岐守の大伴道足がもとの良民の籍に復することを請し、許可された。(続紀)
物部道足 (もののべのみちたり)
常陸国信太郡の防人。(万葉集巻二十)
[←先頭へ]物部耳連公 (もののべのみみのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十六世孫で、物部大人連の子。今木連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部麦入宿禰連 (もののべのむぎりのすくねのむらじ)
録山城神別に、饒速日命八世の孫・物部牟伎利足尼といい、佐為連の祖とある。
旧天孫本紀に物部麦入宿禰連公。宇摩志麻治命十世の孫で、父は五十琴宿禰、母は多遅麻の娘・香児媛。允恭天皇の時代、大連になり、つぎに宿禰となって、神宮(石上)を奉斎したという。
物部目古の娘・全能媛を妻として、大前宿禰、小前宿禰ら四児を生んだとある。
物部連五十琴宿禰 (もののべのむらじいことのすくね)
物部五十琴宿禰連公。伊己灯宿禰、伊己止足尼ともいう。
録に佐為連、氷連、高屋連の祖とある。系譜上の位置づけは、大和神別で饒速日命十七世の孫、河内神別で饒速日命十世・十一世の孫、とあり、不明な点が多い。
旧天孫本紀には、宇摩志麻治命の九世の孫で、父は胆咋宿禰。神功摂政の時代、大連となり、つぎに宿禰となって、石上神宮を奉斎したという。
多遅麻大連の娘・香児媛を妻として、伊莒弗、麦入宿禰、石持を生んだとある。
天皇本紀にも神功三年正月に大連に任じられたことがみえる。
物部連宇麻呂 (もののべのむらじうまろ)
孝徳朝の人で石上朝臣麻呂の父。
宇麻乃、宇麻子ともいい(続紀)、馬古ともいう(旧)。
養老元年三月三日の石上麻呂薨伝に、麻呂は「難波朝衛部大華上宇麻乃」の子であるという。(続紀)
公卿補任の大宝元年条にも同様の記載があり、ここでは物部宇麿とある。旧天孫本紀は物部馬古連と記し、物部目の子で、孝徳朝に大華上、氏印大刀を授けられ、食封千烟を賜り、神宮を奉斎したという。
大華上の冠位は後の正四位に相当し、食封千烟は孝徳紀大化二年正月甲子の詔の第一条に見える「仍賜食封大夫以上」に対応したものだろうか。宇麻呂が大化期の高官だったことは、子の麻呂が大友皇子に近侍する身分だったことや、大臣にまで昇ったことの前提として注目される。
大夫として国政に参与していたとする加藤謙吉氏の説がある。
物部連兄麻呂 (もののべのむらじえまろ)
聖徳太子に舎人として、調子麻呂、宮池鍛師、膳臣清国らとともに仕えた。
生まれつき出家の道心を持ち、食事は生臭ものを口にせず、のちには優婆塞になり常に太子の傍に付き従ったという。
さらにのち、癸巳の年(舒明五年)には武蔵国造に任じられ、その官を退いてから小仁の冠位に叙せられた。(聖徳太子伝暦)
武蔵に直姓の物部氏があることから、連は直の誤りとする説がある。
物部連熊 (もののべのむらじくま)
斉明七年八月、阿倍比羅夫らとともに、百済救援の後軍の将として派遣された。ときに大山上。
[←先頭へ]物部連族子嶋 (もののべのむらじのやからこじま)
天平二十年二月二十二日、東大寺に寄進の物を進上したため、外大初位下から外従五位下に叙せられる。(続紀)
[←先頭へ]物部連善常 (もののべのむらじよしつね)
信濃国高井郡の人。
貞観九年三月十一日。本居を改めて山城国紀伊郡とした。ときに従八位上。(三代実録)
物部目古連公 (もののべのめこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で、物部五十琴彦連の子。田井連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部目大連 (もののべのめのおおむらじ)
雄略朝の大連。物部目連とも。
雄略即位前紀(安康三年)十一月十三日、天皇即位の日に大伴室屋とともに大連となった。大臣は平群真鳥。
同元年三月三日条に、天皇は采女・童女君の生んだ春日大娘皇女を、自分の娘ではないと疑い、養わなかったが、目の進言によりこれを皇女と認め、また童女君を妃としたことが見える。
同十三年三月、采女・山辺小嶋子を犯した佐保彦命後裔・歯田根命を、天皇の命により責め、歯田根命の贖罪の意を天皇に奏上し、馬、太刀などの資財を餌香市辺に置かせ、その功から餌香の長野邑を賜った。
同十八年八月十日、物部菟代宿禰とともに、伊勢の朝日郎の征伐にあたった。その時、菟代宿禰は朝日郎の強弓を恐れて、進むことができなかったが、目は筑紫の聞物部・大斧手に楯で守らせ、自ら突撃し、朝日郎を斬った。
菟代宿禰はその怯えを恥じて、復命しなかったので、天皇は菟代宿禰の領有していた猪使部を奪い、目に与えたという。(紀)
養老元年三月三日の石上麻呂薨伝に、麻呂は雄略朝の大連物部目の後裔という。(続紀)
録山城神別の錦部首条に、饒速日命十二世の孫・物部目大連とある。
旧天孫本紀には物部目大連公。宇摩志麻治命十一世の孫で、父は伊莒弗とある。清寧天皇の時代、大連となり、神宮(石上)を奉斎したという。ただし、清寧紀にはこのことは記されてはいない。
天孫本紀には同名の「目」が他に二人いて、一人は宇摩志麻治命十三世孫で、継体天皇の時代大連になり、もう一人は宇摩志麻治命十五世孫で欽明天皇の時代大連となったという。
物部目連公 (もののべのめのむらじきみ)
【1】
物部目大連を見よ。
【2】
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十三世孫で、物部麻佐良連の弟。継体朝に大連となって石上神宮を奉斎したという。(旧)
【3】
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十五世孫で、物部大人連の弟。大貞連(大真連か)の祖。欽明朝に大連となって石上神宮を奉斎したという。(旧)
物部用善 (もののべのもちよし)
神亀元年五月十三日、物部射園連の姓を賜った。ときに正六位上。(続紀)
[←先頭へ]物部毛等若子連公 (もののべのもとのわくごのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十五世孫で、物部石弓若子連の弟。屋形連らの祖。(旧)
[←先頭へ]物部八坂 (もののべのやさか)
用明二年四月、物部守屋は、群臣が自分を図ると聞き、阿都の別業にしりぞき、人を集め、中臣勝海も家に兵を集めこれを助けようとした。そのとき守屋は阿都の家から、物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を蘇我馬子のもとに遣わし、群臣らが自分を図ろうとしているために、阿都にしりぞいた旨を告げさせたという。(紀)
[←先頭へ]物部山背 (もののべのやましろ)
天平勝宝六年正月十六日、正六位上から外従五位下に叙せられる。
天平宝字五年五月二十三日、畿内の溜め池・井堰・用水路の適地の視察に遣わされる。ときに散位。(続紀)
物部倭古連公 (もののべのやまとこのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部金連(【2】)の弟。流羅田部連らの祖。(旧)
流羅田部連は依羅田部連の誤記で、依網屯倉の田部を管掌した氏か。
物部山無媛連公 (もののべのやまなしひめのむらじきみ)
天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で、印葉連らの姉。
応神天皇の妃となり、莵道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女を生したという。
神皇本紀の応神妃に香室媛があり、同じく物部多遅麻連の娘で、莵道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女を生したとある。注記は無いが山無媛と同一人物であろう。(旧)
「紀」に莵道稚郎子皇子らの母とされるのは和珥臣の祖・日触使主の娘の宮主宅媛で、齟齬がある。
物部氏族に矢田皇女の子代部の管掌したと称する矢田部連があり、天孫本紀では山無媛連の弟・物部大別連を始祖とする。矢田皇女を物部腹にすることで、関係を強調する目的があったものか。
物部弓削守屋大連 (もののべのゆげのもりやのおおむらじ)
尾輿の子。敏達、用明朝の大連。
敏達元年四月、大連になることは元のとおりであったとある。時に大臣は蘇我馬子。
同十四年三月朔、疫病の流行により、守屋は中臣勝海大夫とともに奏上して、蘇我氏が仏法を広めたためであるとし、これを廃止することを請い、天皇も詔して仏法を断たせた。同月三十日、守屋は自ら大野丘北の寺に赴き、床几に坐り、塔、仏殿、仏像を焼き、焼け残った仏像は難波の堀江に棄てさせた。
同十四年八月十五日、天皇の崩御後、その殯宮を広瀬にたてたとき、馬子とお互いの姿を嘲笑しあい、これより二人の間に怨恨が生ずるようになったという。
用明即位前紀(敏達十四年)九月、天皇の即位後、大連となることは元のとおりで、馬子もまた大臣となったが、
用明元年五月、穴穂部皇子がひそかに天下の王たらんことを企て、口実を設けて先帝寵臣の三輪君逆を殺そうとしたとき、守屋は皇子とともに兵を率いて磐余池辺宮を囲んだ。逆はこれを聞き三輪山に逃れ、のち炊屋姫皇后(後の推古)の別業にかくれたが、皇子は守屋を遣わし、逆を殺そうとした。
皇子自らも馬子の制止も聞かず兵を率いたが、磐余に至って、ふたたび馬子に諫言され、行動を中止した。しかし、守屋はすでに逆を殺して馬子と会ったため、馬子は嘆き「天下は程なく乱れるだろう」といったという。これに対して守屋は「きさまら小物にはわからぬことだ」と答えたとある。
同二年四月、守屋は群臣が自分を図ると聞き、河内阿都の別業に退いて兵を集め、中臣勝海も家に人を集めてこれを助けた。そして、勝海は太子・彦人皇子と竹田皇子の像をつくって呪詛し、そのために舎人・迹見赤檮に殺されたという。
守屋は阿都の家から物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を遣わし、群臣が自分を謀ると聞き、阿都に退いた旨を馬子に伝えさせた。
馬子は守屋の軍に備え、槻曲の家を守らせたとある。
用明天皇の崩御により、崇峻即位前紀(用明二年)五月、物部の軍が人々を三度驚かすとあり、また守屋は、穴穂部皇子を立てて天皇にしようとし、淡路に遊猟して事を謀ろうとして、皇子に使者を送ったが、事は漏れてしまったという。
そして六月、馬子は炊屋姫を奉じ、佐伯連、土師連、的臣らに詔して、穴穂皇子と宅部皇子の殺害を謀り、その宮において二人の皇子を殺した。
七月、さらに馬子は諸皇子と群臣に勧め、守屋を滅ぼすことを謀り、泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子らと、紀、巨勢、膳、葛城、大伴、阿倍、平群、坂本、春日の諸氏とともに軍を率い、河内渋川の家を襲った。守屋は自ら子弟と奴軍を率い、稲城を築いて戦った。皇子たちと群臣の軍を三度にわたり退けたものの、奮戦むなしくついに迹見赤檮に射落とされ、その子らも殺され、軍は四散した。
この戦いにより、守屋の子と一族は逃げかくれて、姓を変えて名を変えるもの、あるいは逃げ失せて行方の分からなくなるものなどがあった。
時の人は、馬子の妻は守屋の妹で、馬子はみだりに妻の計を用いて守屋を殺したと噂したという。
乱後、摂津国に四天王寺をつくり、守屋の奴の半分と居宅を分けて、寺の奴と田荘にしたとある。(紀)
旧天孫本紀に物部守屋大連公、弓削大連。宇摩志麻治命十四世の孫で、父は尾輿大連、母は弓削連の祖・倭古の娘とある。用明天皇の時代、大連になり、石上神宮を奉斎したという。
帝皇本紀には、敏達十四年九月に大連と大臣に任じられたことがみえる。
物部依羅朝臣人会 (もののべのよさみのあそんひとあい)
天平四年五月朔、連から朝臣の姓を賜る。ときに正六位下。
天平十一年正月十三日、正六位上から外従五位下へ叙せられる。
天平十二年十一月二十一日、外従五位上へ昇叙。
天平十八年五月七日、従五位下へ昇叙。同年六月二十一日、信濃守。(続紀)
物部依網連抱 (もののべのよさみのむらじいだき)
推古十六年八月、隋の使い・斐世清が入京し、朝廷に召された時、阿倍鳥臣とともに客の案内役となった。(紀)
大夫の地位にあったものと見られる。
物部依網連乙等 (もののべのよさみのむらじおと)
推古三十一年、征新羅の副将軍のひとりとなった。位は小徳。(紀)
[←先頭へ]物部吉宗 (もののべのよしむね)
美濃国多芸郡の人。
貞観六年八月十七日、本居を山城国愛宕郡に改める。ときに太政官史生、正八位下。(三代実録)
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