【物部人物列伝】や行

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 や 

宅媛 (やかひめ)

物部木蓮子の娘。安閑元年三月条に、天皇の妃になったとある。
同元年十月、天皇に御子がないので、后妃のために、屯倉と田部をつくったとき、宅媛には難波屯倉と毎郡の钁丁を賜ったという。(紀)
記紀に見出せる物部氏出身の天皇妃は少なく、伊香色謎命など伝説色の強いものを除けば宅媛が唯一の例となる。

物部木蓮子大連

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安毛建美命 (やすけたけみのみこと)

天孫本紀に、宇摩志麻治命の七世孫で建胆心大禰命の弟。六人部連らの祖。
崇神朝に侍臣となって供奉したという。
天皇本紀も崇神四年二月に、侍臣に任じられたとする。(旧)
名に含まれる「安」は近江国の地名・野洲にもとづくか。

建胆心大禰命

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安野宿禰豊道 (やすののすくねとよみち)

嘉祥二年五月二日、小野朝臣篁らとともに鴻臚舘に遣わされ、渤海からの使に勅書と太政官牒を渡す。ときに少内記従七位下。(続後紀)
斉衡二年二月十七日、春澄朝臣善繩らとともに国史編纂の詔を受ける。ときに正六位上少外記。
斉衡三年正月七日、正六位上から外従五位下へ叙せられる。
天安元年正月十四日、下総介に任じられる。このときも外従五位下。(文徳実録)

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安野宿禰文継 (やすののすくねふみつぐ)

河内の国の人。はじめは無姓。勇文継、安文継。
弘仁元年十月二十一日、勇山文継とあり、勇山国嶋らとともに連姓を賜った。ときに従八位下。
同二年正月二十九日、従六位下から外従五位下に昇叙。
同年二月十三日、紀伝博士とあり相模権掾を兼ね、同月二十日、大学助を兼ねた。
同六年七月二日、河内国から右京へ本貫を移した。
同七年六月十五日、嵯峨天皇に史記を進講して従五位下を授けられ、その後、安野宿禰と改姓。
弘仁十四年正月七日、従五位上を授けられ、天長三年正月七日、正五位下を授けられた。
天長四年八月九日、従四位下を授けられる。ときに東宮学士。
同五年十月二十六日、五十六歳で卒する。このときも従四位下東宮学士。

凌雲集・文華秀麗集・経国集の勅撰詩集に撰者として携わり、彼自身の詩も文華秀麗集と経国集にそれぞれ一首が載る。

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安野宿禰真継 (やすののすくねまつぐ)

弘仁十四年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられる。
天長五年正月七日、外従五位下から従五位下に叙せられる。
天長八年八月十日、神泉苑に天皇行幸。真継のほか、阿波守善道真貞、苅田種継らが召され、春秋三伝や三礼について議論した。ときに主税頭。(後紀)
天長十年三月六日、従五位下から従五位上に叙せられる。(続後紀)

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安媛 (やすひめ)

天孫本紀に、物部五十琴彦連の娘で、物部多遅麻連の妻。
多遅麻連との間に五児を生したという。山無媛連、印葉連、伊予連、小神連、大別連がこれにあたる。(旧)

物部多遅麻連公

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矢田稲吉命 (やたのいなきのみこと)

国造本紀に、穂積臣同祖・大水口足尼の孫で、成務朝に末羅国造に任じられたことがみえる。(旧)

大水口宿禰命

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矢田部造(名欠) (やたべのみやつこ)

推古二十二年六月十三日、犬上御田鍬とともに遣唐使となり、
同二十三年九月、帰国した。(紀)
「旧」帝皇本紀には矢田部御嬬連公とあり、遣唐使を拝命したときに連姓を改めて矢田部造となったという。冠位は大仁。

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矢集宿禰大唐 (やつめのすくねおおから)

天平宝字八年十月七日、藤原仲麻呂追討の行賞があったとき、正六位上から外従五位下に叙せられた。
宝亀七年三月六日、能登守に任じられた。この時は従五位下。(続紀)

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箭集宿禰堅石 (やつめのすくねかたし)

女官。
天平十七年正月七日、外従五位下から外従五位上へ叙せられる。(続紀)

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矢集宿禰虫麻呂 (やつめのすくねむしまろ)

養老六年二月二十七日、養老律令選定の任に従事していたことにより、その功を認められて田五町を賜る。時に正六位上。
天平宝字元年十二月九日、功田の等級を定めた際、虫麻呂の賜った田五町は下功とされ、子の代まで相続させることとされた。時に外従五位下。(続紀)
これに対応して大同元年二月二十六日条には、虫麻呂の子が死に絶えたことにより、功田が収公されたことが見える。極位は従五位下。(日本後紀)

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弓削宿禰東女 (ゆげのすくねあずまめ)

神護景雲三年十月三十日、称徳天皇の河内国由義宮行幸に際し、無位から従五位下に叙せられた。(続紀)

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弓削宿禰牛養 (ゆげのすくねうしかい)

天平神護元年正月七日、従六位下から従五位下に叙せられ、
同年二月五日、近衛少将に任ぜられた。
同年十一月二十三日には越前介の任にあって、越前国が大嘗祭の須伎国となったため従五位上に叙せられた。
神護景雲元年八月二十一日、近衛少将のまま再び越前介を兼ねる。
宝亀元年四月十一日、弓削朝臣の姓を賜るが、道鏡失脚後、間もなく本姓に復されたという。このときも従五位上。(続紀)

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弓削宿禰大成 (ゆげのすくねおおなり)

神護景雲元年八月十一日、従五位下で因幡掾に任ぜられる。
同三年四月二十四日、従五位上に叙せられ、
同年八月十九日、信濃員外介に任じられた。
延暦四年正月二十七日、西市正に任じられている。(続紀)

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弓削宿禰乙美努久女 (ゆげのすくねおとみのくめ)

弓削御浄朝臣乙美努久売とも。
天平宝字八年十月八日、無位から従五位下に叙せられ、
神護景雲三年十月三十日、称徳天皇の由義宮行幸に際し、正五位下に叙せられた。(続紀)

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弓削宿禰男広 (ゆげのすくねおひろ)

宝亀八年九月十八日の藤原良継薨伝に見える。右大舎人。
天平宝字七年に良継が石上宅嗣らとともに、藤原仲麻呂を除こうと謀ったとき、男広はこれを知り仲麻呂に告げた。このため良継らの謀事は失敗したという。(続紀)

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弓削宿禰薩摩 (ゆげのすくねさつま)

天平宝字八年十月七日、藤原仲麻呂追討に携わった諸氏人に位階昇進があった時、正六位上から従五位下に叙せられ、同月二十八日、下野員外介に任じられた。
神護景雲元年六月五日の勅によれば、外従五位下で前下野介とあり、東山道巡察使の淡海三船に任中の正税未納・官物犯用を摘発され、更迭されたという。
同元年八月二十九日、陰陽助に任じられ、
同三年六月九日、能登員外介に任じられた。
宝亀七年三月四日、弓削宿禰氏が改めて連姓に復された時、故従五位下薩摩のみ宿禰姓のまま改められなかった。(続紀)

東山道巡察使として薩摩を禁固処分とした淡海三船は、このことにより兵部大輔を解任され、大宰少弐へと左遷された。薩摩の同族である道鏡らの不興をこうむったためだろうか。

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弓削宿禰刀自女 (ゆげのすくねとじめ)

天平宝字八年十月八日、無位から従五位下に叙せられた。(続紀)

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弓削宿禰美努久女 (ゆげのすくねみのくめ)

弓削御浄朝臣美努久売とも。
天平宝字八年十月八日、無位から従五位下に叙せられ、
神護景雲三年十月三十日、由義宮行幸に際して従五位上から正五位下に叙せられた。(続紀)

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弓削広田 (ゆげのひろた)

河内国若江郡の人。弓削浄人の子。
宝亀元年八月二十二日、道鏡の失脚により、父の浄人や兄弟の広方・広津とともに土佐国に流された。
天応元年六月十八日、罪を赦され、郷里の河内国若江郡に還されたが、入京は許されなかったという。(続紀)

弓削連浄人

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弓削御浄朝臣秋麻呂 (ゆげのみきよのあそんあきまろ)

弓削御清朝臣とも。
天平神護元年正月七日、従六位下から従五位下に叙せられ、
同年二月八日、右兵衛佐に任じられた。
神護景雲元年七月十日、左少弁となり、
同三年六月九日、左少弁のまま周防守を兼ねた。
同年十月三十日、称徳天皇由義宮行幸の際には、従五位上に叙せられた。
宝亀元年六月三日、大蔵少輔に任じられている。この時も従五位上。(続紀)

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弓削御浄朝臣浄方 (ゆげのみきよのあそんきよかた)

神護景雲二年二月十九日、無位から従五位下に叙せられた。(続紀)

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弓削御浄朝臣塩麻呂 (ゆげのみきよのあそんしおまろ)

天平神護二年十月十九日、正六位上から従五位上に叙せられ、
神護景雲二年二月十八日、左兵衛督に任じられた。
同三年十月三十日、由義宮行幸に際し従五位上に叙せられた。
宝亀元年の道鏡失脚により、間もなく弓削御浄朝臣から弓削宿禰に改めたらしい。
同五年九月四日、右京亮に任じられ、
同六年九月十三日、豊前守に任じられた。
延暦四年十月十二日、造東大寺次官に任じられ、
同八年二月十日、左京亮に任じられた。この時も従五位上。(続紀)

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弓削御浄朝臣等能治 (ゆげのみきよのあそんとのじ)

神護景雲元年十月十八日、無位から従五位下に叙せられた。(続紀)

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弓削御浄朝臣広方 (ゆげのみきよのあそんひろかた)

河内国若江郡の人。浄人の子。弓削広方ともいう。
神護景雲元年正月十八日、正六位上から従五位下に叙せられ、
同年八月二十九日、武蔵員外介に任じられた。
同二年四月十二日、近衛将監のまま武蔵介に任じられ、
同三年六月九日には、武蔵介のまま右兵衛佐に任じられた。
同年十月三十日、称徳天皇の由義宮行幸に際し、従五位上から正五位下に叙せられた。
宝亀元年八月二十二日、伯父道鏡の失脚により、父の浄人、兄弟の広田・広津とともに土佐国に流された。
天応元年六月十八日、罪を赦され、郷里の河内国若江郡に還されたが、入京は許されなかったという。(続紀)

弓削連浄人

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弓削御浄朝臣広津 (ゆげのみきよのあそんひろつ)

河内国若江郡の人。浄人の子。弓削広津ともいう。
神護景雲三年十月三十日、称徳天皇の由義宮行幸に際し、無位から従五位下に叙せられた。
宝亀元年八月二十二日、道鏡の失脚により、父の浄人、兄弟の広方・広田とともに土佐国に流された。天応元年六月十八日、罪を赦され郷里の河内国若江郡に還されたが、入京は許されなかったという。(続紀)

弓削連浄人弓削御浄朝臣広方

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弓削御浄朝臣美夜治 (ゆげのみきよのあそんみやじ)

神護景雲元年十月十八日、同姓の弓削御浄朝臣等能治とともに、無位から従五位下に叙せられた。(続紀)

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弓削連浄人 (ゆげのむらじきよひと)

道鏡の弟。清人とも。
天平宝字八年七月六日、宿禰の姓を賜る。ときに授刀少志・従八位上。

同年九月、藤原仲麻呂の乱により一躍従四位下に叙せられ、弓削御浄朝臣の姓を賜った。同年十月二十日、衛門督・従四位下とあり、上総守を兼ねた。
天平神護元年正月七日、勲三等を授けられ、同年二月二日、従四位上に叙せられた。
まもなく参議・従三位となったらしく、同二年十月二十日にはさらに正三位に叙せられ、同時に中納言に任じられた。
神護景雲元年七月十日に内竪省が設けられると内堅卿となり、同二年二月十八日には内堅卿・衛門督・上総守を兼ねたまま大納言となった。
同年十月二十四日、新羅交関物を買うため、大宰綿一万屯を賜り、同年十一月、大納言・衛門督のまま大宰師を兼ね、同月二十九日、さらに検校兵庫将軍となった。
同三年十月三十日、由義宮行幸に際し従二位に叙せられ、宝亀元年五月、白雀一隻を献じている。

宝亀元年八月四日、称徳天皇が崩じ道鏡が失脚すると、同月二十二日、子の広方・広田・広津とともに土佐国へ流された。
天応元年六月十八日、罪を赦されて河内国若江郡に還された。ただし入京は許されなかったという。(続紀)

道鏡

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弓削連是雄 (ゆげのむらじこれお)

播磨国飾磨郡の人。陰陽師。
貞観六年八月八日、父の弓削連安人らとともに、本居を改めて河内国大県郡に貫附する。時に従八位下。
貞観十五年十二月二日、また本居を改めて右京三条二坊に貫する。時に陰陽允、正七位上。
元慶元年正月三日、外従五位下に叙せられる。時に陰陽権助兼播磨権少目。
同年十二月二十五日、連姓を改めて、弓削宿禰の姓を賜る。この時も陰陽権助、外従五位下。
元慶六年正月七日、従五位下に叙せられる。時に陰陽権助兼備前権掾。
仁和元年四月二十七日、陰陽頭に任じられた。
「今昔物語集」や、「政治要略」に引く「善家異記」に陰陽推算の術に通じた様が描かれる。特に占験に優れ、三善清行は嘆賞して、是雄の術は死中に生を求め、凶中に吉を得、万一を失せざるものなりと評した。

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弓削連豊穂 (ゆげのむらじとよほ)

雄略九年二月朔、宗像神を祀らせるため采女とともに遣わされた凡河内直香賜が采女を姦した。天皇は難波吉士日鷹を遣わしてこれを誅そうとしたが、香賜が逃亡したしたため、豊穂に追跡捜査を命じた。豊穂は広く国々を探し求め、摂津国三嶋郡藍原でついに香賜を逮捕し斬刑に処したという。(紀)

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弓削連耳高 (ゆげのむらじみみたか)

天平宝字八年十月七日、藤原仲麻呂追討の功により諸氏人に授位があった時、正六位上から外従五位下に叙せられ、
宝亀元年四月十一日、同姓三十八人と宿禰の姓を賜ったが、道鏡失脚により間もなく元の姓に復されたという。この時も外従五位下。(続紀)

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横度春山 (よこわたりのはるやま)

大和国添上郡の人。
神護景雲三年四月八日、桜嶋連の姓を賜った。ときに正八位下。(続紀)

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依網連稚子 (よさみのむらじわくご)

斉明三年、新羅が遣唐使を送る際に、これにつけて稚子らも唐へ使いしようとしたが、新羅の協力が得られなかったため頓挫し、帰国した。(紀)

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良階宿禰貞範 (よししなのすくねさだのり)

阿刀物部貞範を見よ。

阿刀物部貞範

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善友朝臣豊宗 (よしとものあそんとよむね)

風早直豊宗を見よ。

風早直豊宗

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