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【所縁の史跡】弓削神社(大阪府)

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  ■ 弓削神社 (東弓削)  [地図] 大阪府八尾市東弓削に鎮座する、河内大社弓削神社です。 『延喜式』神名帳の河内国若江郡に、「弓削神社」がみえます。 また、この一帯が『和名抄』にある河内国若江郡弓削郷の遺称地にあてられます。 『延喜式』では一社に二座の神を祀るようにしか見えませんが、現在はふたつある弓削神社に、それぞれ一座ずつ祀るという解釈がされているようです。 祭神は、弥加布都命、比古佐自布都命、天日鷲翔矢命。 『姓氏録』左京神別にはふたつの系統の弓削宿祢氏がみえます。 弥加布都命・比古佐自布都命は、布都御魂神の別名と言われ、物部氏族の弓削氏との関係が考えられたもの。 天日鷲翔矢命は、忌部氏の祖神・天日鷲命と同一視されるようです。 弓削氏は、弓の製作をする部の伴造で、物部連の配下にあった氏と見られています。 もとは東方約300メートルの小字・古宮にあったと伝えられています。   ■ 弓削神社 (弓削町)  [地図] 八尾市弓削町に鎮座する、弓削神社です。 JR志紀駅の西側に位置します。 祭神は、饒速日命と宇摩志麻治命。物部氏の祖神です。 『三代実録』の貞観元年正月二十七日条に、河内国の従五位下弓削神が、従五位上に叙せられたことがみえます。 市の教育委員会が建てた、弓削道鏡に関する説明書きがありました。 道鏡は『続日本紀』に「俗姓弓削連、河内人也」とあり、称徳天皇がたびたび河内国若江郡にあった弓削寺や由義宮に行幸していることから、当地を本拠とする弓削氏の出なのがわかります。 物部守屋は『日本書紀』等で弓削大連とも称されます。何らかの拠点を持つなど、この一帯に縁のある人物だったようです。 『旧事本紀』は、彼の母が弓削氏のむすめだったとしています。 ほか、弓削氏の人物として、雄略朝の捜査官、弓削連豊穂などが史上に知られます。 境内には、飲めば長生きできるという「延命水」の井戸があります。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 弓削神社

【所縁の史跡】矢作神社(大阪府)

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  ■ 矢作神社  [地図] 八尾市南本町に鎮座する、矢作神社です。 『延喜式』神名帳の河内国若江郡に、「矢作神社」がみえます。 祭神は経津主神、住吉三神、品陀和気尊、八重事代主神。 社号の矢作は矢作連氏に由来するものと見られます。 『姓氏録』未定雑姓に布都奴志乃命を祖とすることがみえ、これが祭神経津主神の根拠になっています。 矢作氏は、矢の製作に携わる矢作部を統括する氏です。 物部氏の配下にあったと見られ、経津主神とのつながりも、その関係から生じたものでしょう。 一帯は矢作遺跡で、神社の北方150メートル付近からは、古墳時代後期の3棟以上の掘立柱建物跡やそれをめぐるような三重の溝が確認されています。溝の廃絶期が丁未の乱のおこった6世紀末ということもあり、八尾市の発行する埋蔵文化財分布図では「物部一族の館跡」と呼ばれます。 矢作氏の本拠地の可能性が高いのではないでしょうか。 式内長柄神社を合祀しており、八重事代主神はその祭神です。 矢作神社は、石清水八幡の掃部別宮となった時期があり、別宮八幡とも称されました。 『三代実録』貞観十六年十二月二十九日条に、河内国の正六位上掃部神が従五位下へ叙された記事があり、これを矢作神社祭神にあてる説があったようです。 ただし、掃部氏の本拠地と考えられる河内国高安郡の掃守郷は旧南高安町の一帯が遺称地とされ、当地からはやや離れています。 掃部別宮となってからの付会でしょう。 「弁慶の七つ石」という大きな石が境内にあります。旧社殿の礎石と見られます。 参考:八尾市教育委員会『 八尾市文化財調査報告15:八尾市内遺跡昭和61年度発掘調査報告書II 』 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 矢作神社

【所縁の史跡】渋川神社(大阪府)

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  ■ 渋川神社  [地図] 大阪府八尾市植松町に鎮座する、渋川神社です。 JR八尾駅の南に位置します。 『延喜式』神名帳の河内国若江郡に、「渋川神社」がみえます。 祭神は、天忍穗耳尊と饒速日尊。 『旧事本紀』では親子とされる神です。 ほかに明治になって近隣神社から合祀された、国狭槌尊、日高大神、菅原大神が祀られます。 もとは長瀬川の東にありましたが、天文二年の洪水で流失し、現在地に遷されたといいます。 若江郡・渋川郡は物部氏との関わりが深く、崇峻即位前紀に物部守屋大連が「渋河の家」に拠って戦ったことがみえるように、事実上の本拠地でした。 祭神饒速日尊も、このような背景からあてられたものでしょう。 境内社には、稲荷神社や竜王大神などがあります。 ほか、府指定の天然記念物になっている楠木をはじめ、大樹が複数あります。 銀杏の切り株は、昭和五十二年に落雷により焼損し、その後老朽により枝が落下する危険があったため、平成六年に伐採されたものといいます。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 渋川神社

【所縁の史跡】跡部神社(大阪府)

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  ■ 跡部神社  [地図] 大阪府八尾市亀井町に鎮座する、跡部神社です。 『延喜式』神名帳の河内国渋川郡に「跡部神社(路部神社とも)」があります。 この一帯が、『和名抄』の河内国渋川郡跡部郷にあてられます。 東側に現在も跡部の地名が残ります。 用明紀二年四月条に、蘇我馬子らと対立した物部守屋が大和を去り、兵を集めたとされる阿都の別邸も、当地跡部郷にあったと見られています。 跡部の地は、物部氏族阿刀氏の本拠と考えられます。 『姓氏録』左京神別の阿刀宿祢、山城国神別の阿刀宿祢・阿刀連、摂津国神別の阿刀連、和泉国神別の阿刀連、ともに石上朝臣同祖、神饒速日命の後裔を称します。 『旧事本紀』天孫本紀の物部氏系譜にみえる諸氏のうち、阿刀連はもっとも早くに現れます。 宇摩志麻治命の子の、味饒田命の後裔とされます。 阿刀氏の部民とみられるのが阿刀部です。 『旧事本紀』天神本紀には、饒速日尊に供奉して天降った天磐船の船長、天津羽原が跡部首の祖であるといいます。 祭神は阿刀連大神。 ほか、合祀された天照皇大神や八王子大神も祀られるようです。 阿刀氏の祖神を祭神にあてる説は近世以降有力で、具体的な神名として饒速日命が挙げられることもあります。 境内には、市指定の保全樹木として、クスノキやイチョウがあります。 跡部遺跡からは流水紋銅鐸が出土しています。神社から東へ1.5キロメートルほどの場所です。 古くから開けた地域だったことがわかります。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 跡部神社

【所縁の史跡】樟本神社と「稲城址」(大阪府)

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  ■ 樟本神社 (北木の本)   [地図] 大阪府八尾市北木の本に鎮座する、樟本神社です。 『延喜式』神名帳の河内国志紀郡に、「樟本神社」がみえます。 祭神は布都大神です。 『延喜式』は三座の神が祀られるとしていますが、同名の神社が三ヶ所あり、それぞれに一座ずつ祀られているという解釈が現在はされています。 一社におさまるべき三座が分散しているのは不自然ですが、『特選神名牒』などがいうように、人口が増えて分村するとき一座ずつ分かれたのではないか、と推測されています。 もしくは、有力な論社が複数あったために妥協案としてこのような解釈が生じたのでしょう。 大和岩雄氏は、明神山や天冠山、応神陵古墳や仲哀陵古墳、允恭陵古墳などとの位置関係を重視し、鎮座地の由来を説きます。 これらの山や古墳と、神社の位置が、直線状に並ぶか、特定の角度をもって繋がっていることに着目した説です。 境内は、小公園になっています。 その一角にあるのが、「守屋首洗池」です。 587年の丁未の乱で討たれた物部守屋の首を洗った場所と伝えます。 なお、ここは住吉津から真東へ伸びると想定される「磯歯津路」(雄略紀十四年春正月是月条)に接する場所です。 北木の本二丁目遺跡など周辺の環境からは鎌倉時代までこの道が存続していた可能性が高く、人びとの往来・賑わいによって樟をランドマークとする神社が創建したとすれば、樟本三社のなかでも最も「古さ」が感じられる立地といえるかもしれません。 ■ 樟本神社 (南木の本)  [地図] 八尾市南木の本に鎮座する樟本神社です。 三社ある樟本神社のひとつです。 祭神は布都大神。一説には饒速日命ともいいます。 境内に、高樹山日羅寺があります。 薬師如来を本尊とするそうです。 日羅は敏達朝の人物で、肥葦分国造阿利斯登の子です。 日本人の父を持ちながら、百済王宮に仕え、達率の官位まで昇った高官でした。 敏達天皇は欽明朝に失った「任那」の復興について相談するため、日羅を日本へ招き、阿斗の桑市に館を与えたといいます。 阿斗は渋川郡跡部郷の一帯で、ここからほど近い場所だったと見られます。 日羅は、今は国力を蓄えるときと説き、討つべき相手は新羅よりもまず百済であると進言したため、百済