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【所縁の史跡】殖栗神社(奈良県)

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  ■ 殖栗神社  [地図] 奈良県桜井市上之庄に鎮座する、殖栗神社です。 『延喜式』神明帳の大和国城上郡に、「殖栗神社」がみえます。 明治初期までは三十八柱神社だったそうで、江戸後期に作られた石灯籠が今も残ります。 北東へ七〇〇mほどのところに小字エグリ・江操があり、社号の殖栗に関係すると考えられています。 隣接する十之森の春日神社は、明治四十年に当社へ合祀されました。 祭神は、殖栗王と天児屋根命。 殖栗王(殖栗皇子)は用明天皇の皇子で、厩戸皇子の同母弟です。 旧一万円札でお馴染みの聖徳太子二王子像で、左側に立っている少年が殖栗王ともいわれます。 天児屋根命は中臣氏族の祖神です。 『姓氏録』左京神別に殖栗連氏があり、大中臣氏と同じき祖、とされています。この殖栗氏の祖ということで祭神にあてられたのでしょう。 『続日本紀』和銅二年六月二十八日条には、従七位下の殖栗物部名代が殖栗連の姓を賜ったことがみえます。 中臣氏系か、この物部氏系かは明らかにしえませんが、いずれかの殖栗氏が神を祀ったことに神社の起源を求めることができるのではないでしょうか。 殖栗王は、殖栗氏が養育に関わったためにこの名を負うようになったのであり、当初からの祭神とは考えにくいように思います。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 殖栗神社

【所縁の史跡】曳田神社(奈良県)

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  ■ 乘田神社  [地図] 奈良県桜井市白河に鎮座する、乘田 (ひきた) 神社です。 巻向山の南東麓に位置します。 『延喜式』神名帳の大和国城上郡にみえる、「曳田神社」にあてられています。かつては白山神社だったようです。 祭神は、大己貴命、高龗神、豊受比売命。 大己貴命は大国主命であり、大物主神と同一視される神で、三輪氏の祖です。 三輪君氏の同族に、引田君氏があり、主祭神の比定に影響したと見られます。 長谷の一帯は、『古事記』にみえる大長谷若建命(雄略天皇)と引田部赤猪子の伝説の舞台でもあります。 三輪川のほとりで天皇に出会った美しい乙女は、近いうちに召すからという言葉を信じて八十年間待ち続け、むなしく過ぎ去った時間を悲しみつつも、せめてそのことだけは伝えようと参内し、「志都歌」を交わしあったという物語です。 赤猪子の属する引田部は、引田君氏の領する部で、曳田神社の周辺に住んだと見られています。 引田部に関しては、疋田物部と同一視する、谷川健一氏の見解があります。 『白鳥伝説』で、物部氏と阿倍氏の関係を論じる中に、 「大和国の東南部の引田物部に属する赤猪子が「日下の入江の蓮」をうたったのは、一見奇妙である。しかし、ニギハヤヒの降臨したところが生駒山麓であり、ニギハヤヒが降臨したとき、二十五部の人が従者として、兵仗をおびて供奉したと、『旧事本紀』の「天神本紀」は伝えるが、その中に疋田物部の名が見える」 としています。 疋田物部は、鎌田純一氏の校訂による『旧事本紀』では足田物部とされており、慎重な扱いが求められます。 しかし、『姓氏録』大和国神別には長谷部造氏と長谷山直、右京神別には長谷置始連という物部氏同族がみえ、雄略朝以降、この付近に物部氏族が展開した可能性は高いと思われます。 曳田神社を奉斎した集団についても、なお検討の余地がありそうです。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 曳田神社

【所縁の史跡】石園坐多久虫玉神社(奈良県)

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  ■ 石園座多久虫玉神社  [地図] 奈良県大和高田市片塩町に鎮座する、石園座多久虫神社です。 近鉄高田市駅からすぐのところにあります。 『延喜式』神名帳の大和国葛下郡に、「石園坐多久虫玉神社」がみえます。 祭神は、建玉依彦命と建玉依姫命。 『三代実録』貞観元年正月二十七日条に、大和国の従五位下石園多久虫玉神が従五位上へ叙されたことがみえます。 安寧天皇の宮殿、片塩浮孔宮の伝承地でもあります。 『日本書紀』には「都を片塩に遷す。是を浮孔宮と謂ふ」、『古事記』には「片塩の浮穴宮に坐して、天の下治らしめしき」とみえます。 比定地としては、河内国大県郡をあてる説もありますが、『大和志』をはじめ、当地をあてる説のほうが有力です。 十四世紀の成立で、宮都については八世紀後半の原資料をもとにしている『帝王編年記』は、高市郡の畝火山の北にあてています。 『姓氏録』左京神別中の爪工連条に、「神魂命の子、多久都玉命の三世孫、天仁木命の後なり」とあることから、社号の「多久虫玉神」を「多久豆玉神」と改める刊本もありますが、別神の可能性もあり、疑問が持たれます。 配祀神に、豊玉比古命と豊玉比売命があり、近世以降は「龍王宮」とも称されてきました。 戦後に改修工事が行われるまでは、高田川が神社のすぐ西側を流れていたそうで、水神的な要素が強いようです。 社号の「石園」は地名で、いまも西側の一帯が「磯野」と呼ばれます。 他の表記では、『新抄格勅符抄』のなかに「射園神一戸 美乃 」があることが注目されます。 『続日本紀』神亀元年五月十三日条に、正六位上物部用善が物部射園連の氏姓を賜ったことがみえます。 また、天応元年六月九日には、正六位上の物部射園連老が外従五位下へ叙されたことがみえます。 当地は、この物部射園氏の本拠地だった可能性がありそうです。 一帯は、源義経の妻妾として名高い白拍子、静御前にゆかりの地とされています。 母親の磯野禅尼が当地の人と称されることから、いくつかの伝承地が付近に散在するようです。 現地案内板によると、心疲れて病気になった「静御前自ら病気平癒を祈った“笠神の杜”の明神さんは、現在この境内に移され祀られ」ているとのことです。 天璽瑞宝トップ  

【所縁の史跡】平群石床神社(奈良県)

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  ■ 平群石床神社  [地図] 奈良県生駒郡平群町越木塚に鎮座する、平群石床神社です。 甑明神とも呼ばれていたようです。 『延喜式』神名帳の大和国平群郡に「平群石床神社」がみえます。 祭神は、饒速日命とも剣刃石床別命ともいわれます。 『三代実録』貞観元年正月二十七日条には、大和国の従五位下平群石床神が従五位上の神階へ昇叙したことがみえます。 本殿は三社が並ぶ形式で、中央が石床神社、右に太玉命、左に素盞嗚命を祀ります。 ↓消渇神社。 立派な石垣の上にあります。 境内案内板によると、室町時代に旅の僧・信海が腰の病を治してもらってから下半身の病気にご利益ありとして村人に信仰されるようになり、近世には社名から性病に効果があるとして、京都祇園からの参拝者もあり、賑わったとのこと。 願掛けには、土の団子を十二個つくって供え祈願し、願いが叶ったら米の団子をお供えしてお礼します。 特に女性の信仰が厚いようです。 ↓七社神社。 消渇神社のさらに上段に位置します。 志賀剛『式内社の研究』には、村の神名帳に七神社があったといい、消渇神社の一段上には五社明神があるとされます。 ■ 平群石床神社旧社地  [地図] 平群石床神社の旧社地です。 現社地から南へ250mほどのところに位置します。 朱色の鳥居が設けられています。 台地と田畑の広がる平地の境界に、大きな岩が横たわっています。 大正十三年に、ここから境外摂社素盞嗚社のあった現社地へ遷座しました。 『大和名所図会』には、「巌上祠 (いわがみのやしろ) [越本塚村にあり 神名帳出]」とあって、近世にも石神として信仰されていたことがわかります。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 平群石床神社

【所縁の史跡】和爾下神社(奈良県)

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  ■ 和爾下神社  [地図] 奈良県天理市櫟本町に鎮座する、和爾下神社です。 『延喜式』神名帳の大和国山辺郡に、「和爾下神社」がみえます。 治道社とも呼ばれていました。 大和郡山市横田町にも同名の神社があり、盆地中央寄りの道が整備されるにつれて遷ったとも、『延喜式』にある二座のうち、それぞれ一座づつ祀っているともいわれます。 祭神は、素盞嗚命、大己貴命、櫛稲田姫命です。 牛頭天王社として祀られてきた影響があるようです。 4世紀末ころの築造と見られる、「和爾下神社古墳」の墳丘後円部上に社殿が建っています。 古墳の全長は110メートルほどです。 付近は臣姓豪族の名族、ワニ氏の拠点とみられています。 そのため祭神も、ワニ氏の祖の天足彦押人命等が本来のものではないかとする見方があるようです。 石棺に使われていたらしい石材が置いてありました。 この近くの古墳から出たもののようですが、詳細は分かりません… 和爾下神社の西側が、柿本廃寺です。 柿本人麻呂の像や、人麻呂の墓と称する歌塚もあります。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 和爾下神社

【所縁の史跡】他田坐天照御魂神社(奈良県)

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  ■ 他田坐天照御魂神社  [地図] 奈良県桜井市太田に鎮座する、他田坐天照御魂神社 (おさだにますあまてるみたまじんじゃ) です。 『延喜式』神名帳の大和国城上郡に、「他田坐天照御魂神社」が見えます。 他には桜井市戒重の春日神社をあてる説があるようです。 祭神は、天照国照彦火明命とも、天照大神の荒魂ともいわれています。 自然石を利用したらしい、社号標がありました。 他田(おさだ)は、敏達天皇の宮殿、訳語田幸玉宮のあった場所でもあります。 敏達朝に設置された日祀部(日奉の神事団)と、天照御魂神との関連を指摘する説があります。 一帯は、纏向遺跡の中心的区画であることが明らかにされています。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 他田坐天照御魂神社