【物部八十氏】ま行

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 ま 

真髪部 (まかべ)

造姓。もと白髪部といったが、延暦四年五月に光仁天皇の諱(白壁王)を避けて改めた。白髪部は清寧天皇にちなんだ名代部で、その管掌にあたった伴造氏。
白髪部氏時代の天武十二年九月には、連姓を賜ったものもあった。

神饒速日命の七世孫・大売大布乃命の後裔。(「録」山城国神別)

白髪部

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真神田 (まかみだ)

首姓。真神田は、崇峻紀に「壊飛鳥衣縫造祖樹葉之家始作法興寺、此地名飛鳥真神原、亦名飛鳥苫田」とみえ、万葉集巻二に「明日香之真神原」とみえる大和国高市郡の飛鳥真神原と同地か。また、大和国宇陀郡の真神田(平安遺文 一332、一335)をあてる説もある。

伊香我色乎命の後裔。(「録」大和国神別)

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真神田曽祢 (まかみだのそね)

連姓。曽祢氏のうち、真神田に住んだものか。
真神田は、崇峻紀元年是歳条に法興寺が建てられたとある飛鳥真神原の地で、同条にはもと衣縫造氏の家があったという。衣縫氏には物部氏族のものがある。また、下記の気津別命は、延喜式神名帳の大和国高市郡にある気都和既神社に関係するか。
ほかに大和国宇陀郡の曽爾村にあった真神田と結びつける説がある。

神饒速日命の六世孫・伊香我色乎命の子、気津別命の後裔。(「録」左京神別上)

曽祢真神田

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当世 (まさよ)

宿祢姓。ウヂ名の意味するところは不明だが、美称か。
巫部氏の後裔氏で、承和十二年七月に右京の人・巫部宿祢公成、大和国山辺郡の人・巫部宿祢諸成、和泉国大鳥郡の人・巫部連継麻呂、巫部連継足、巫部連吉継らが当世宿祢の姓を賜ったことに始まる。
和泉国大鳥郡の当世氏からは、貞観五年八月に当世宿祢高門が右京に本居を改めている。

巫部

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松津 (まつつ)

「旧」国造本紀に松津国造がみえる。カバネ・氏人などは不明。松津国の所在地も明らかではないが、杵肆の誤記と見て肥前国基肄郡にあてる説、松浦の誤記と見て末羅国造と重複したとする説がある。

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末羅 (まつら)

「旧」国造本紀に末羅国造がみえ、穂積臣と同祖の大水口足尼の孫・矢田稲吉を祖とするという。
肥前国松浦郡が末羅国の所在地と考えられている。

穂積

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大豆物部 (まめのもののべ)

無姓。「旧」天神本紀に、饒速日命に供奉して天降ったことがみえる。
ウヂ名の大豆は大和国広瀬郡の大豆、もしくは筑前国穂波郡の大豆の地名にもとづく。

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三河 (みかわ)

姓は不明だが直か。ウヂ名は三河国号にもとづく。三河国西部(矢作川流域)の豪族で、国造を輩出した。

宇摩志麻治命の四世孫・大木食命の後裔。(「旧」天孫本紀)
出雲色大臣の五世孫・知波夜命の後裔。(「旧」国造本紀)

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三川蘊 (みかわのかづら)

連姓。ウヂ名の三川は三河国にちなむ。「旧」天孫本紀は、物部胆咋宿祢の妻妾に三川穂国造氏に出自を持つ伊佐姫がいて、一児を生んだとする。胆咋宿祢の子で、三川蘊氏の始祖という物部竹古連がこれにあたると伝承されたものか。

宇摩志麻治命の九世孫・物部竹古連公の後裔。(「旧」天孫本紀)

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三嶋韓国 (みしまのからくに)

連姓。韓国氏のうち、延喜式神名帳に三島鴨神社がみえるなどする摂津国嶋上郡・嶋下郡に住んだもの。

宇摩志麻治命の十四世孫・物部金古連公の後裔。(「旧」天孫本紀)

韓国

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水沼 (みぬま)

君姓。水間ともいう。ウヂ名は筑後国三潴郡の地名にもとづく。
「紀」神代巻および「旧」神祇本紀は宗像神を水沼氏が祭ったとするが、景行紀は国乳別皇子を水沼別の祖とし、「旧」天皇本紀は武国凝別命も筑紫水間君の祖として別系の水沼氏のあることを記すので、この氏の関与の有無は不明。

宇摩志麻治命の十四世孫・物部阿遅古連公の後裔。(「旧」天孫本紀)

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三野後 (みののみちのしり)

三野後国造。美濃国可児郡付近を本拠とするか。

出雲大臣命の孫・臣賀夫良命の後裔。(「旧」国造本紀)

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六人部 (むとりべ)

連姓。「むとべ」とも読み、身人部と表記されることもある。

宇摩志麻治命の七世孫・安毛建美命の後裔。(「旧」天孫本紀)

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水取 (もいとり)

造姓。天武紀十二年九月に連姓を賜ったことがみえ、貞観八年八月には宿祢姓、貞観六年八月には朝臣姓も出る。
宮廷の飲料水の調達を職掌にした水取の伴造氏。践祚大嘗祭に主水司の負名氏として奉仕していたことが延喜式にみえる。三代実録貞観六年八月条には、「神饒速日命之後也」といい、水取連継人は主水司の令史だったという。
氏人には、ほかに水取連継雄、柄仁、夏子、継主らがいる。

佐為連に同じく、速日命の六世孫・伊香我色乎命の後裔。(「録」左京神別上)
神饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」右京神別上)

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物部 (もののべ)

連姓、宿祢姓、朝臣姓、無姓のものなどがある。ウヂ名は、物部の伴造、もしくは部民だったことにもとづく。

天孫瓊々杵尊の降臨に先立ち天降り、大和を領していたと称する櫛玉饒速日命を祖神とする。「紀」はこの神を物部氏の遠祖といい、「記」はその子・宇摩志麻遅命を物部連の祖という。
「紀」はその後、物部氏遠祖大綜杵の娘・伊香色謎が開化天皇の后に立ったといい、物部連祖伊香色雄は崇神朝に神班物者として供奉し、垂仁朝の物部十千根大連は石上神宮の神宝を管理する任に就いたという。また仲哀朝四大夫の一として物部胆咋連があり、履中朝には物部伊莒弗大連が国事を執ることに携わり、履中天皇・安康天皇の即位に至る皇位継承争いには物部大前宿祢が関与したとされる。
以上の所伝は事実とは認めない見方が有力だが、以降についても、雄略朝の物部目大連、継体朝の物部麁鹿火大連、欽明朝の物部尾輿大連など、物部氏は王権の中枢をになう執政官として、天皇の側近として、また軍事司令官として仕えたことがみえる。大きな勢力を誇った物部氏だが、六世紀後半に蘇我大臣との権力闘争を経験し、大連物部弓削守屋は河内国の渋河の家で戦死。本宗家の滅亡により、その勢威は大きく後退することとなった。
物部氏の勢力の大きかったことは、皇極紀二年十月条に、蘇我大臣蝦夷が私的に子の入鹿に紫冠を授け大臣になぞらえ、その弟を物部大臣と称し、母が物部守屋の妹であったことから、母が財によりて威を世に取れり、といわれたことからも察せられる。全盛期の蘇我氏をもってなお、物部の名を借り、物部と称するほうが世に威を示すのに利するところがあったのである。

首姓の物部氏では伊予国風早郡のものが著名で、俗姓物部首の仁秀(扶桑略記大同三年三月)、物部首広宗(続後紀承和四年正月)、物部首真宗(続後紀承和四年正月)、物部首広泉(続後紀承和六年正月など)が知られる。広泉は斉衡元年十月に朝臣姓を賜っている。三代実録元慶八年二月にみえる典薬助の物部朝臣内嗣もこの一族であろう。
臣姓では出雲国風土記に楯縫郡の郡司に「主張無位物部臣」があり出雲臣の同族と見られ、またそれとは別系であるが陸奥国風土記逸文の白川郡飯豊山条に物部臣がみえる。
君姓・公姓は上野国に知られ、金井沢碑に物部君午足らが、続紀天平神護元年十一月および翌年五月条に中衛物部蜷淵らが物部公を賜与されたことがみえる。このほか、景行紀十二年九月条に物部君の祖・夏花がみえ、豊前国企救郡の豪族の伝承が取り入れられたものと推測される。
また、直姓では武蔵国入間郡のものがあった。
これらは中央で大連を輩出した物部連氏の配下として地方の物部を管掌した伴造で、物部連氏とは同族関係にない氏もあった。

無姓も含めると古代史料上にその例は枚挙にいとまなく、令制下の物部については、続紀神亀元年十一月に「従五位下石上朝臣勝男。石上朝臣乙麻呂。従六位上石上朝臣諸男。従七位上榎井朝臣大嶋等。率内物部。立神楯於斎宮南北二門」とあるように、物部連後裔の石上朝臣・榎井朝臣に従って大嘗祭に供奉したものがみえ、養老職員令には罪人を主当し決罰を掌る物部が、囚獄司条・衛門府条にみえる。衛門府に所属の物部は、特に内物部と呼ばれたという。また、東西市司にも物部廿人が配置されていた。

石上朝臣と同祖。神饒速日命の後裔。(「録」左京神別上)
神饒速日命の十三世孫・物部布都久呂大連の後裔。(「録」河内国神別)
神饒速日命の子・味島乳命の後裔。(「録」河内国神別)
饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」和泉国神別)
神饒速日命の六世孫・伊賀我色雄命の後裔。(「録」未定雑姓)

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物部飛鳥 (もののべのあすか)

無姓。ウヂ名は河内国安宿郡の地名にもとづく。

神饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」河内国神別)

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物部海 (もののべのあま)

連姓。続紀延暦九年十月に、女孺の従七位上物部海連飯主が外従五位下に叙せられたことがみえる。

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物部伊勢 (もののべのいせ)

連姓。継体紀九年二月などに、百済への派遣将軍として物部伊勢連父根(物部至々連)がみえる。ウヂ名は伊勢国号にもとづく。

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物部射園 (もののべのいその)

連姓。ウヂ名の射園は、延喜式神名帳の大和国葛下郡にみえる石園坐多虫玉神社の鎮座地と関係するか。
続紀神亀元年五月に、正六位上物部用善が物部射園連の姓を賜ったことがみえる。
氏人には他に、続紀天応元年六月に正六位上から外従五位下に叙せられた物部射園連老がいる。

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物部鏡 (もののべのかがみ)

連姓。ウヂ名の鏡は、土佐国香美郡の地名にもとづく。和名抄の同国同郡には物部郷がみえ、ここに置かれた物部の伴造だったと見られる。
氏人には、土佐国香美郡少領の物部鏡連家主(後紀延暦二十四年五月など)がいる。

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物部韓国 (もののべのからくに)

韓国氏をみよ。

韓国

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物部浄志 (もののべのきよし)

朝臣姓。物部浄之とも表記する。
続紀天平神護二年十月に、道鏡の腹心だった僧基真へこの氏姓を賜ったことがみえる。俗姓も物部氏だったことによるのだろう。

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物部斯波 (もののべのしわ)

連姓。旧姓を吉弥侯といった俘囚。ウヂ名は陸奥国斯波郡の地名にもとづく。
続後紀承和二年二月に、吉弥侯宇加奴、吉弥侯志波宇志、吉弥侯億可太らに物部斯波連の姓を賜ったことがみえる。ほか氏人には、陸奥蝦夷訳語の物部斯波連永野(三代実録元慶五年五月)がいる。

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物部匝瑳 (もののべのそうさ)

匝瑳氏をみよ。

匝瑳

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物部多芸 (もののべのたぎ)

多芸氏をみよ。

多芸

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物部中原 (もののべのなかはら)

宿祢姓。後紀弘仁四年正月に、三河国の人・物部敏久に物部中原宿祢の姓を賜ったことがみえる。敏久は天長初年ころに興原宿祢に改姓した。
ウヂ名の中原は三河国の地名か。

興原

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物部文 (もののべのふみ)

連姓。後紀弘仁元年正月に、土佐国香美郡の人で物部鏡連家主の妻・物部文連全敷女がみえる。

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物部間 (もののべのま)

無姓。ウヂ名の間は不詳。あるいは聞の誤記で、豊前国企救郡に縁故の氏か。

神饒速日命の後裔。(「録」未定雑姓)

筑紫聞物部

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物部屋形 (もののべのやかた)

屋形氏をみよ。

屋形

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物部依羅 (もののべのよさみ)

依羅氏をみよ。

依羅

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物部若宮部 (もののべのわかみやべ)

無姓。肥前国風土記三根郡物部郷条に、物部郷の由来譚として登場する。
推古朝に来目皇子を将軍として新羅を討たせたとき、物部若宮部をして当地に社を立て、物部経津主神を斎き祀ったことにより、物部郷というようになったという。

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