【物部八十氏】や行

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 や 

屋形 (やかた)

清和朝に尾張国の人・笛吹部高継を本姓の物部屋形に復したことがみえ、尾張国に一族の住んだことが知られる。

宇摩志麻治命の十四世孫・物部麻伊古連公、同十五世孫・物部毛等若子連公の後裔。(「旧」天孫本紀)

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安野 (やすの)

宿祢姓。勇山氏から改めた。
弘仁九年ころ成立の文華秀麗集の序に「従五位下行大学助兼紀伝博士臣勇山連文継」とみえ、天長四年成立の経国集の序に「従四位下行東宮学士臣安野宿祢文継」とみえるため、勇山文継が安野宿祢の姓を賜ったのはこの間と推定できる。
氏人には、文継のほか、安野宿祢真継(続後紀天長十年三月)、続後紀の編纂に携わった安野宿祢豊道(続後紀嘉祥二年五月など)がいる。

勇山

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矢田部 (やたべ)

造姓、連姓、宿祢姓、首姓、無姓があった。応神天皇の皇女で仁徳天皇の皇后とされる矢田皇女(八田若郎女)の名代部を管掌した伴造氏。
和名抄に大和国添下郡矢田郷がみえ、摂津国八部郡八部郷がみえる。延喜式神名帳の大和国添下郡、矢田坐久志玉比古神社の祭神・久志玉比古神は、物部氏族である矢田部氏の奉斎にかかるもので、櫛玉饒速日命と同一視できる。
崇神紀六十年七月にみえる「矢田部造遠祖武諸隅」を祖と仰ぐ。天孫本紀が矢田皇女の母を記紀の所伝から改変し物部氏の出とし、物部大別が后号の矢田をウヂ名に賜ったとするのは、この氏の伝承によるものだろう。
氏人には、推古朝に遣唐使となった矢田部造御嬬、承平日本紀講筵の博士となった矢田部宿祢公望らが知られる。
摂津国の族人には、続後紀の承和二年十月に摂津国人矢田部造聡耳・弟貞成らが興野宿祢の姓を賜ったことがみえる。また、三代実録元慶元年十二月に、讃岐国寒川郡の人、正六位上矢田部造利人が本貫を山城国愛宕郡に移したことがみえ、讃岐国など広く分布したようである。

伊香我色乎命の後裔。(「録」左京神別上)
饒速日命の七世孫・大新河命の後裔。(「録」大和国神別)
物部韓国連に同じく、伊香我色雄命の後裔。(「録」摂津国神別)
神饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」河内国神別)

宇摩志麻治命の八世孫・物部武諸隅連公、十世孫の物部大別連公の後裔。(「旧」天孫本紀)

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矢集 (やつめ)

連姓。天武十三年十二月以降は宿祢姓も出た。箭集ともいう。矢集は矢部で、その伴造氏とする太田亮氏の説がある。
和名抄の駿河国駿河郡、美濃国可児郡に、矢集郷がみえる。それぞれ「旧」国造本紀の珠流河国、三野後国の比定地にあたり、矢集氏の展開もこれら物部氏族国造との縁故によるか。
氏人には、箭集宿祢虫万呂(続紀養老五年正月など)、箭集宿祢堅石(続紀天平十七年正月)、矢集宿祢大唐などがいる。

矢田部連に同じく、伊香我色乎命の後裔。(「録」左京神別上)
巫部宿祢と同じく、神饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」右京神別上)

宇摩志麻治命の八世孫・物部大母隅連公の後裔。(「旧」天孫本紀)

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矢作 (やはぎ)

連姓。矢の製作に携わる矢作部の伴造氏。物部氏の配下にあったものとみられる。延喜式神名帳の河内国若江郡にみえる矢作神社は、この氏が本拠地で奉斎したものか。

布都奴志乃命の後裔。(「録」未定雑姓)

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笶原 (やはら)

連姓。笑原にも作るが誤記か。ウヂ名は、延喜式神名帳の淡路国三原郡にみえる笶原神社の地、もしくは讃岐国香川郡笶原郷の地名によるか。

宇摩志麻治命の十二世孫・物部麻作連公の後裔。(「旧」天孫本紀)

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弓削 (ゆげ)

姓は連。天武十三年十二月以降は宿祢姓も出た。続紀宝亀元年四月条に、弓削宿祢牛養ら九人が朝臣の姓を賜ったが、道鏡失脚により間もなく旧姓に復されたことがみえる。弓の製造に携わる弓削部の管掌にあたった伴造氏。
和名抄に河内国若江郡弓削郷がみえ、延喜式神名帳の河内国若江郡に弓削神社がみえる地が本拠地。また左京や播磨国にも住んだものがある。
清和朝に播磨国飾磨郡の人・弓削連是雄および父の安人は、河内国大県郡に貫附し、のちに右京に貫し宿祢姓を賜っている。
氏人には、称徳天皇の寵を得て法王になった道鏡、その弟の浄人らがいる。称徳天皇の行幸があった弓削寺は、その氏寺であろう。
物部守屋は弓削大連の別称を持ち、「旧」天孫本紀は守屋の母を弓削氏の出とするのは、この氏が氏族内部で一時しかるべき地位にあったことを示すか。

石上朝臣に同祖。(「録」左京神別上)

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弓削御清 (ゆげみきよ)

朝臣姓。弓削御浄、御清ともいう。道鏡の一族で、弓削連から宿祢姓となったものから興った。続紀天平宝字八年九月に、従八位上から一躍従四位下に叙せられた弓削宿祢浄人が弓削御浄朝臣の姓を賜ったことがみえる。
宝亀元年八月に称徳天皇が崩御したことにより道鏡は失脚し、その弟の浄人も三人の息子とともに土佐国へ流された。続紀宝亀六年二月には、天平宝字八年に弓削宿祢から御清朝臣を賜ったもの、弓削氏のうち連姓から宿祢姓を賜ったものに関しては、みな本姓に復したことがみえる。

弓削

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横田物部 (よこたのもののべ)

無姓。「旧」天神本紀に、饒速日命に供奉して天降ったことがみえる。
ウヂ名の横田は大和国添上郡、もしくは筑前国嘉麻郡の地名横田にちなむ。

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横広 (よこひろ)

連姓。横度の誤りか。
続紀神護景雲三年四月に、大和国添上郡の人・横度春山に桜島連の姓を賜ったことがみえる。

宇摩志麻治命の十三世孫・物部建彦連公の後裔。(「旧」天孫本紀)

桜島

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依羅 (よさみ)

連姓。天平四年五月以降は朝臣姓も出る。物部依網ともいう。ウヂ名は、河内国丹比郡依羅とそれに接する摂津国住吉郡大羅郷の地名にもとづく。氏人に物部依網連抱(推古紀十六年八月)、物部依網連乙等(推古紀三十一年)、依網連稚子(斉明紀三年)、物部依羅連人会(続紀天平四年五月)らがいる。
物部守屋死後に低迷した物部氏族のなかにあって、大夫を輩出したとみられ、一時期氏族の中心的地位にあったとみられる氏。「旧」天孫本紀は、その祖・物部布都久留大連を雄略朝の大連にあて、石上氏の祖・物部目を大連にあてる「紀」「続紀」とは齟齬がある。

饒速日命の十二世孫・懐大連の後裔。(「録」左京神別上)
神饒速日命の十世孫・伊己布都大連の後裔。(「録」右京神別上)
神饒速日命の後裔。(「録」河内国神別)

宇摩志麻治命の十二世孫・物部多波連公、同十三世孫・物部呉足尼連公の後裔。(「旧」天孫本紀)

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網部 (よさみべ)

無姓。部としての網部、もしくはその伴造氏。
和泉国皇別に天足彦国押人命後裔の網部物部氏もいて、和泉国内の同地を本拠地としていたものと見られる。

物部に同じく、饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」和泉国神別)

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良階 (よししな)

宿祢姓。阿刀氏の後裔氏。
三代実録貞観六年八月に、阿刀連粟麻呂・阿刀宿祢石成・阿刀連祢守・阿刀物部貞範らに良階宿祢の姓を賜ったことがみえ、「神饒速日命之裔孫也」という。

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善友 (よしとも)

朝臣姓。佐夜部氏と風早氏から改めたものがある。
続日本後紀承和六年十月に、摂津国の人で直講博士の佐夜部首穎主が善友朝臣の姓を賜り左京四条二坊に改貫したことがみえ、同年十一月に、伊予国の人・風早直豊宗らに善友朝臣の姓を賜り左京四条二坊に改貫したことがみえる。

佐夜部風速

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善淵 (よしぶち)

朝臣姓。越智直から改めたもの。
三代実録貞観十五年十二月に、越智直広峯が善淵朝臣の姓を賜ったことがみえ、「其先出自神饒速日命之後也」という。

越智

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良棟 (よしむね)

宿祢姓。肩野連から興る。
三代実録元慶元年十二月に、肩野連道主と肩野連乙守に良棟宿祢の姓を賜ったことがみえ、「先祖出自神饒速日命也」という。

肩野

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