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【所縁の史跡】雷塚古墳(大阪府)

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  ■ 雷塚古墳  [地図] 大阪府交野市森にある、森一号墳です。 森古墳群を構成するひとつで、雷塚古墳とも呼ばれています。前方後円墳です。 上の写真は後円部から前方部を見おろしたところです。 高低差は約10メートル。結構な急斜面に感じました。 下は後円部の墳頂です。 盗掘の跡でしょうか、窪んでいます。 森古墳群は、昭和55年に三人の小学生が拾った土器、埴輪の破片が発見のきっかけとなり、大きく報道されました。 墳丘全長は106メートル、後円部径は56メートル、前方部幅は32メートル、くびれ幅は22メートルあります。 ↓前方部から後円部を見上げます。 前方部がバチ状に開く、古式の古墳で、築造は箸中の箸墓古墳に近い時期と見られるそうです。 ↓前方部を裾から見ます。 森古墳群(4世紀~5世紀初め)→寺・車塚古墳群(5世紀前半~6世紀前半)→寺古墳群・倉治古墳群(6世紀後半)…と、この一帯は安定して古墳の築造が行われました。 天野川流域全体では、森古墳群の後、禁野車塚や万年寺山、東車塚など首長墓級の古墳が多く造られています。 ↓くびれ部分あたりを側面から見ます。 ■ 天田神社  [地図] 大阪府交野市私市一丁目に鎮座する、天田神社です。 京阪河内森駅から東に200メートルほど行ったところにあります。雷塚古墳からだと、西へ約600メートルです。 「私市」の地名は、敏達紀の六年春二月にみえる、私部に由来します。 この地域に強い勢力を持っていた物部守屋が、皇后の額田部皇女に献じたとする説があります。 表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯姫命の住吉四神を祀ります。 境内にあった由緒書によると、この一帯は地味肥え作物豊かな野であったので甘野といい、田は甘田といったといいます。そして田の神を祀った甘田の宮が、天田神社の起源だそうです。 さらに、肩野物部氏の祖の饒速日命が祀られていましたが、物部氏の衰退や住吉信仰の流行とともに、磐船の神も海に関係するととらえられるようになり、祭神は住吉神に変わったとありました。 境内からは祭祀に用いられたらしい土師器が出土したといいます。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 雷塚古墳

【所縁の史跡】意賀美神社(大阪府)

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  ■ 意賀美神社  [地図] 大阪府枚方市枚方上之町一丁目に鎮座する、意賀美神社です。 『延喜式』神名帳の河内国茨田郡に、「意賀美神社」があります。 もとは南に100メートルほどの伊加賀の宮山にありましたが、明治四十三年に現在地に遷り、ここにあった須賀神社と、岡の別子山にあった日吉神社を合祀しました。 伊加賀の地名は『和名抄』の郷名に「伊香(以加加)」があり、古くからのもののようです。 主祭神は高龗神。 素盞嗚尊、大国主神、大山咋神を配祀します。 開化天皇の時代には、この地にあった物部氏の祖の伊香色雄命と伊香色謎命(開化后)の姉弟の邸内に祀られていたと伝えられています。 現社地は万年寺山といいます。前期古墳と見られる万年寺山古墳がありましたが、その名のとおり古くから寺院が建てられるなどしたため、すでに全壊しています。 ↓境内の末社・琴平神社です。 同じく境内の稲荷神社です。 万年寺山古墳の墳丘全長は推定100メートルほど。 明治三十七年の、隣接する小学校の運動場の拡張工事中に発見された八面の鏡のうち、六面が三角縁神獣鏡でした。 同型鏡・同笵鏡によると、静岡県から福岡県までの古墳とつながりがあるように見られます。 ■ 鷹塚山遺跡  [地図] 意賀美神社から南に700メートルほど行ったところが鷹塚山です。 前方後円墳と見られたこともありましたが、丘陵上にいとなまれた弥生時代終わりころの高地性集落遺跡です。 出土した分銅型土製品は、吉備との通交を示すといいます。 鷹塚の地名は、文徳天皇の皇子の惟喬親王が、愛鷹を葬ったことに由来すると伝えられています。   天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 意賀美神社

【所縁の史跡】片埜神社と牧野車塚古墳(大阪府)

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  ■ 片埜神社  [地図] 大阪府枚方市牧野坂二丁目に鎮座する、片埜神社です。 『延喜式』神名帳の河内国交野郡に、「片野神社」があります。また「久須々美神社」も合祀されています。 祭神は、須佐之男命、櫛稲田姫命、八島士奴美命、菅原道真公、ほかです。 創祀は、垂仁朝に野見宿禰が、当麻蹴速を角力で破った功により、この地を賜り、須佐之男命を祀ったことによると伝えられます。 本殿の造営は豊臣秀頼によります。檜皮葺三間社流造、丹塗りの美しい重要文化財です。 ↓東門です。 瓦葺の落ち着いた雰囲気です。室町時代の形式を残すといわれ、府の文化財に指定されています。 祭神について、交野忌寸の祖神とする説や、饒速日命とする説があります。 交野ヶ原の一帯は、物部肩野連や肩野物部の住地と見られます。 ■ 牧野車塚古墳  [地図] 枚方市小倉東町。片野神社から南に一キロメートルほどのところにあります。 国指定史跡で、公園として整備されています。 墳丘全長107.5メートル、後円部径54.5メートル、前方部幅44メートル。 北河内地方では禁野車塚古墳に次ぐ規模です。 築造は4世紀後半ころと見られます。 牧野車塚古墳の一帯は、現在は消滅した多くの古墳が分布し、古墳群を形成していたと見られています。 墳丘の周囲に、堀がめぐらされていたことがわかります。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 片埜神社と牧野車塚古墳

【所縁の史跡】高屋神社と安閑天皇陵古墳(大阪府)

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  ■ 高屋神社  [地図] 大阪府羽曳野市古市6丁目に鎮座する、高屋神社です。近鉄古市駅からは南へ800メートルほどのところです。 『延喜式』神名帳の河内国古市郡に、「高屋神社」がみえます。 明治の神社合祀令のころ、古市の白鳥神社に移されましたが、戦後にふたたびこの地域にもどりました。 「高屋神社址」の碑が今も境内にあります。 祭神は、饒速日命と、広国押武金日尊(安閑天皇)です。 『新撰姓氏禄』河内国神別に、高屋連は 「同じき神(饒速日命)の十世孫、伊己止足尼大連の後なり」 とみえ、物部氏族であることがわかります。高屋神社はこの氏の奉斎したとみられます。 安閑天皇は近くに御陵があるという縁で祀られたものでしょう。 『続日本紀』慶雲元年六月十一日条には三つ子を産んだ高屋連薬女に物を賜ったことがみえますが、「河内国古市郡人」とあり、この一帯が、高屋連の居住地と思われます。 ほか、高屋氏の氏人には、淡路に幽閉されていた淳仁廃帝が脱走しようとしたときに掾としてこれを捕らえた高屋連並木などが知られます。 ■ 安閑天皇陵古墳  [地図] 羽曳野市古市5丁目にある、高屋築山古墳です。 高屋神社からは、北に300メートルほどのところです 中世には城の一郭として使われたため、高屋城山古墳とも呼ばれます。 現在、安閑天皇陵「古市高屋丘陵」として管理されているものです。 墳丘長122メートル、後円部径78メートル、前方部幅100メートルで、くびれがほとんど無い形です。 ここから出土したと伝えられる玉碗が、東京国立博物館に所蔵されています。 築造は6世紀中葉と見られるので、安閑天皇の御陵としては妥当なところでしょうか。 ■ 春日山田皇后陵古墳  [地図] 安閑天皇の皇后で、仁賢天皇の皇女、春日山田皇女の御陵「古市高屋陵」に治定されている、高屋八幡山古墳です。 安閑天皇陵古墳からは南に200メートルほどの近さにあります。 現在、方形に残る墳丘は、付近の発掘調査で、もと前方後円墳だったということがわかっています。築造時期は安閑陵古墳より早く、6世紀初頭ころかと推定されます。 墳丘長85メートル、後円部径50メートル、前方部幅60メートルほど、くびれ幅は約40メートルとみら

【所縁の史跡】都夫久美神社と河内愛宕塚古墳(大阪府)

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  ■ 都夫久美神社  [地図] 大阪府八尾市水越八丁目に鎮座する、都夫久美神社です。 『延喜式』神名帳の河内国高安郡に、「都夫久美(つふくみ)神社」がみえます。 近世には香森大明神とも呼ばれ、社地は東へ六〇〇メートルほどのところにある玉祖神社との位置関係から、中の森と称されていました。 明治四十年に玉祖神社に合祀されましたが、現在は社殿を新たに設け、復興しています。 境内の「式内都夫久美神社址」の碑は、その間の昭和十五年十一月に建てられたものです。 祭神は、宇摩志麻治命。物部氏の祖です。 『姓氏録』河内国神別に積組(つむくみ)造がみえ、「阿刀宿祢と同じき祖。同じき神(神饒速日命)の子、于摩志摩治命の後なり」といいます。 当地を本拠にした豪族と見られ、祭神もこれを根拠にあてられたものです。 「積組」は、構築物建造(積む・組む)を意味し、積組氏は、陣地設営など物部氏族の軍事的性格を支える職掌に従事していたものと思われます。 志賀剛氏は『式内社の研究』で、粒立つ水と解釈しています。 ■ 愛宕塚古墳  [地図] 八尾市神立四丁目にある、愛宕塚古墳です。 都夫久美神社から北へ二〇〇メートルほど、神立墓地の西側に位置します。 直径約二二.五メートルの円形の墳丘に、石室の羨道入り口付近が張り出す、帆立貝形をした古墳です。 石室は、南側に開口しています。 閃緑岩と花崗岩の巨石が用いられており、大変迫力があります。 玄室と羨道からなる両袖式で、全長は一五.七メートル、玄室長は七メートルという大型の石室です。 西側の袖のほうが東側よりも幅が大きいです。 内部に残されていた遺物は、撹乱や盗掘を受けていたものの、多種多様です。 多数の須恵器をはじめ、土師器、金銅製の飾り金具、鉄地金銅張馬具、鉄製馬具、鉄製武器、装身具の玉類などです。 石棺は少数の破片のみ確認されています。 築造の時期は、六世紀後葉と見られています。 大和の藤ノ木古墳と大きく隔たらない時代と見れるでしょうか。 出土の須恵器では、MT85型式~TK43型式のものを副葬したのが古墳の築かれた時期で、六世紀末にTK209型式の土器とともに追葬がされています。 また、六世紀前葉ころのMT15型式