【先代旧事本紀】巻第八・神皇本紀 - 現代語訳

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応神天皇

誉田ほむた皇太子尊は、仲哀天皇の第四皇子である。
母は気長足姫尊おきながたらしひめのみこと、すなわち開化天皇の五世孫である。
天皇は、母である皇后が新羅を討たれた年、庚辰年の冬十二月に、筑紫の蚊田でお生まれになった。幼くして聡明で、物事を遠くまで見通された。立居振る舞いに聖帝のきざしがあった。
皇太后の摂政三年に、立って皇太子となられた。ときに年三歳。
天皇が皇太后の胎中におられるとき、天神地祇は三韓を授けられた。お生まれになったとき、腕に上に盛り上がった肉があった。その形がちょうどほむたのようであった。これは、皇太后が男装して、鞆をつけられたのに似られた。そのため名を称えて誉田尊と申しあげる。

摂政六十九年夏四月、皇太后が亡くなられた。
治世元年一月一日、皇太子は天皇に即位された。軽嶋の地に都を造り、豊明宮といった。
二年春三月三日に、仲姫命なかつひめのみことを立てて皇后とされた。皇后は三児をお生みになった。荒田皇子あらたのみこ、次に大鷦鷯尊おおさざきのみこと(仁徳天皇)、次に根鳥皇子ねとりのみこである。
これより先に天皇は、皇后の姉の高城入姫たかきのいりひめを妃として、四児をお生みになった。額田大中彦皇子ぬかたのおおなかつひこのみこ、次に大山守皇子おおやまもりのみこ、次に去来真稚皇子いざのまわかのみこ、次に大原皇子おおはらのみこである。
またの妃、皇后の妹の弟姫おとひめは、三児を生んだ。阿倍皇女あべのひめみこ、次に淡路三原皇女あわじのみはらのひめみこ、次に菟野皇女うののひめみこ
次の妃、物部多遅麻大連もののべのたじまのおおむらじの娘・香室媛かむろひめは三人の御子を生んだ。菟道稚郎子皇子尊うじのわきいらつこのみこのみこと、次に矢田皇女やたのひめみこ、次に雌鳥皇女めとりのひめみこ
次の妃、香室媛の妹・小甂媛おなべひめは、菟道稚郎姫皇女うじのわきいらつひめのひめみこを生んだ。
次の妃、河派仲彦かわまたのなかつひこの娘・弟媛は稚野毛二派皇子わかのけふたまたのみこを生んだ。
次の妃、桜井田部連男鉏さくらいたべのむらじおさいの妹・糸媛いとひめは、隼別皇子はやぶさわけのみこを生んだ。
次の妃、日向泉長媛ひむかのいずみのながひめは、大葉枝皇子おおはえのみこ、次に小葉枝皇子おはえのみこを生んだ。
すべて天皇の皇子女は、合わせて二十人おいでになる。

四十年の春一月八日に、天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼んでお尋ねになられた。
「お前たちは、自分の子が可愛いか」
二人の皇子は答えて申しあげられた。
「とても可愛いです」
天皇はまた尋ねて仰せられた。
「大きくなった子と、小さい子では、どちらが可愛いか」
大山守命が答えて仰せられた。
「大きい子の方が良いです」
それを聞いた天皇は喜ばれない様子であった。大鷦鷯尊は天皇の心を察して申しあげられた。
「大きくなった方は、年を重ねて一人前になっているので、もう不安はありません。年若い方はそれが一人前になれるか、なれないかも分からないので、若い方は可愛そうです」
天皇はとても喜んで仰せになった。
「お前の言葉は、まことに我が心にかなっている」
このとき天皇は、常に菟道稚郎子を立てて、皇太子にしたいと思われる心があった。そこで二人の皇子の心を知りたいと思われていた。そのためにこの問いをされたのであった。
このため大山守命の答えを喜ばれなかった。
そうして、菟道稚郎子を立てて日嗣とされた。大山守命を山川林野を掌る役目とされ、大鷦鷯尊をもって、太子の補佐として国事を見させた。
物部印葉連公を大臣とした。

四十一年の春二月十五日、天皇は豊明宮で崩御された。[ときに年百十歳]

天皇がお生みになった御子は十七人で、うち皇子は十二人、皇女は五人であった。
荒田皇子、次に大鷦鷯尊、次に根鳥皇子[大田君らの祖]、次に額田大中彦命皇子、次に大山守皇子[土方公らの祖、榛原君の祖]、次に去来真稚皇子[深河別らの祖]、次に大原皇子、次に菟道稚郎子太子尊、次に稚沼笥二股皇子尊[三国君らの祖]、次に隼別皇子、次に大葉枝皇子、次に小葉枝皇子、次に矢田皇女[仁徳天皇の皇后]、次に阿倍皇女、次に淡路御原皇女、次に紀の菟野皇女、次に雌鳥皇女。




仁徳天皇

諱は大鷦鷯尊。応神天皇の第四皇子である。母を皇后・仲媛命と申しあげる。五百城入彦皇子命の孫である。
天皇は幼いときから聡明で、英知であられた。容貌が美しく、壮年に至ると心広くめぐみ深くいらっしゃった。

先の天皇の治世四十一年春二月、応神天皇は崩御された。皇太子の菟道稚郎子皇子は、位を大鷦鷯尊に譲ろうとされて、まだ即位されなかった。そうして大鷦鷯尊に仰られた。
「天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天のごとく、受け入れることは地のごとくでなければなりません。上に民を喜ぶ心があって人民を使えば、人民は欣然として天下は安らかです。
私は弟です。またそうした過去の記録も見られず、どうして兄を越えて位を継ぎ、天業を統べることができましょうか。
大王は立派なご容姿です。仁孝の徳もあり、年も上です。天下の君となるのに十分です。先帝が私を太子とされたのは、特に才能があるからというわけではなく、ただ愛されたからです。
宗廟社稷に仕えることは、重大なことです。私は不肖でとても及びません。兄は上に弟は下に、聖者が君となり、愚者が臣下となるのは、古今の定めです。どうか王はこれを疑わず、帝位に即いてください。私は臣下となってお助けするばかりです」
大鷦鷯尊は答えて仰せられた。
「先帝も”皇位は一日たりとも空しくしてはならない”とおっしゃった。それで前もって明徳の人をえらび、王を皇太子として立てられました。天皇の嗣にさいわいあらしめ、万民をこれに授けられました。寵愛のしるしと尊んで、国中にそれが聞こえるようにされました。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、たやすく弟王の願いに従うことができましょうか」
固く辞退して受けられず、お互いに譲り合われた。

このとき、額田大中彦皇子が、倭の屯田と屯倉を支配しようとして、屯田司の出雲臣の祖・淤宇宿祢おうのすくねに語っていった。
「この屯田はもとから山守の地だ。だから自分が治めるから、お前は掌ってはならない」
淤宇宿祢は太子にこのことを申しあげた。太子は仰られた。
「大鷦鷯尊に申せ」
そこで、淤宇宿祢は大鷦鷯尊に申しあげた。
「私がお預かりしている田は、大中彦皇子が妨げられて治められません」
大鷦鷯尊は、倭直の祖・麻呂にお尋ねになった。
「倭の屯田は、もとから山守の地というが、これはどうか」
麻呂が答えて申しあげた。
「私には分かりませんが、弟の吾子籠あごこが知っております」
このとき、吾子籠は韓国に遣わされて、いまだ還っていなかった。大鷦鷯尊は淤宇宿祢に仰せられた。
「お前はみずから韓国に行って、吾子籠をつれて来なさい。昼夜を問わず急いで行け」
そして淡路の海人八十人を差し向けて水手とされた。淤宇は韓国に行って、吾子籠をつれて帰った。屯田のことを尋ねられると、答えて申しあげた。
「伝え聞くところでは、垂仁天皇の御世に、太子の大足彦尊に仰せられて、倭の屯田が定められたといいます。このときの勅旨は”倭の屯田は、時の天皇のものである。帝の御子といえども、天皇の位になければ掌ることはできない”といわれました。これを山守の地というのは、間違いです」
大鷦鷯尊は、吾子籠を額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らされた。大中彦皇子は、この上いうべき言葉がなかった。その良くないことをお知りになったが、許して罰せられなかった。

大山守皇子は、先帝が太子にしてくださらなかったことを恨み、重ねてこの屯田のことで恨みを持った。陰謀を企てて仰せられた。
「太子を殺して帝位を取ろう」
大鷦鷯尊はその陰謀をお知りになり、ひそかに太子に知らせ、兵を備えて守らせられた。太子は兵を備えて待ち構えた。大山守皇子は、その備えのあることを知らず、数百の兵を率いて夜中に出発した。明け方に菟道(宇治)について河を渡ろうとしました。そのとき太子は粗末な麻の服をつけられて、舵をとって、ひそかに渡し守にまじられ、大山守皇子を船にのせてこぎ出された。河の中ほどに至って、渡し守に船を転覆させられた。大山守皇子は河に落ちてしまった。
浮いて流されたが、伏兵が多くいて、岸につくことができなかった。そのため、ついに沈んで亡くなった。屍を探すと、哮羅済かわらのわたりに浮かんでいた。太子は屍をご覧になり、歌にしていわれた。云々。別に和歌の書がある。

太子は宮を菟道にたててお住まいになったが、位を大鷦鷯尊に譲っておられるので長らく即位されなかった。皇位は空いたままで三年が過ぎた。
ある漁師がいて、鮮魚の献上品を菟道宮に献じた。太子は漁師に仰せられた。
「自分は天皇ではない」
そうして、返して難波に奉らさせられた。大鷦鷯尊は、また返して菟道に奉らさせられた。漁師の献上品は両方を往復している間に、古くなって腐ってしまった。それでまた、あらためて鮮魚を奉ったが、譲り合われることは前と同様であった。鮮魚はまた腐ってしまった。漁師は途方にくれて鮮魚を捨てて泣いた。ことわざに、「海人でもないのに、自分の物から泣く」というのは、これが由来である。

太子は、
「私は兄王の心を変えられないことを知った。長く生きて天下を煩わせたくない」
と仰せられて、ついに自殺された。大鷦鷯尊は太子が亡くなられたことを聞いて、驚いて難波の宮から急遽、菟道宮に来られた。太子の死後三日を経ていた。大鷦鷯尊は胸を打ち泣き叫んで、なすすべを知らなかった。髪を解き死体にまたがって、
「我が弟の皇子よ」
と三度お呼びになった。するとにわかに生き返られた。大鷦鷯尊は太子へ仰せになった。
「悲しいことよ。悔しいことよ。どうして自殺などなさいますか。もし死なれたと知れたら、先帝は私を何と思われますか」
すると、太子は大鷦鷯尊に申しあげられた。
「天命です。誰もとめることはできません。もし先帝のみもとに参ることがありましたら、詳しく兄王が聖で、度々辞退されたを申しあげましょう。あなたは私の死を聞いて、遠路駆けつけてくださった。お礼を申しあげねばなりません」
そうして、同母妹の矢田皇女を奉って仰せられた。
「お引きとりいただくのも迷惑でしょうが、なにとぞ後宮の数に入れていただけますように」
そしてまた、棺に伏せって亡くなられた。大鷦鷯尊は麻の服を着て、悲しみ慟哭されることはなはなしかった。遺体は菟道の山の上に葬った。

治世元年の春一月三日、大鷦鷯尊は即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげた。都を難波に遷し、高津宮といった。
この天皇がお生まれになった日に、木菟つく(みみずく)が産殿に飛び込んできた。翌朝、父の応神天皇が大臣の武内宿祢を呼んで仰せられた。
「これは何のしるしだろうか」
宿祢は答えて申しあげた。
「めでたいしるしです。昨日、私の妻が出産するとき、鷦鷯さざき(みそさざい)が産屋に飛び込んできました。これもまた不思議なことです」
そこで、天皇は仰せられた。
「我が子と宿祢の子は、同じ日に産まれた。そして両方ともしるしがあったが、これは天のお示しである。その鳥の名をとって、お互いに交換し子供に名づけ、後代へのしるしとしよう」
それで鷦鷯の名を取って太子につけ、大鷦鷯皇子といわれた。木菟の名を取って大臣の子につけ、木兎宿祢といった。これが平群臣の祖である。

二年春三月八日、磐媛命を立てて皇后とされた。皇后は四児をお生みになった。大兄去来穂別尊おおえのいざほわけのみこと(履中天皇)、次に住吉皇子すみのえのみこ、次に瑞歯別尊みずはわけのみこと(反正天皇)、次に雄朝津間稚子宿祢尊おあさづまわくごのすくねのみこと(允恭天皇)。
妃の日向の髪長媛は、大草香皇子おおくさかのみこ、次に幡梭皇女はたびのひめみこを生んだ。
二十二年の春一月、天皇は皇后に「矢田皇女を召し入れて妃にしたい」と仰せになった。しかし、皇后は許されなかった。
三十一年春一月十五日、去来穂別尊を立てて皇太子とされた。
三十五年夏六月、皇后の磐之媛命は筒城宮で亡くなった。
三十七年冬十一月十二日、皇后を乃羅山ならやまに葬った。
三十八年春一月六日、矢田皇女を立てて皇后とされた。
八十二年の春二月乙巳朔の日に、侍臣の物部大別連公もののべのおおわけのむらじきみに詔して仰せられた。
「皇后には、長い間経ても皇子が生まれなかった。お前を子代と定めよう」
皇后の名を氏として、氏造に改め、矢田部連公やたべのむらじのきみの姓を賜った。

八十三年丁卯の八月十五日に、天皇は崩御された。
冬十月七日に、百舌鳥野陵に葬った。

天皇のお生みになった皇子は五男一女。
大兄去来穂別尊、次に住吉仲皇子、次に瑞歯別皇子、次に雄朝嬬稚子宿祢尊、次に大草香皇子、次に幡梭皇女。


履中天皇

諱は去来穂別尊。仁徳天皇の第一皇子である。母を皇后の磐之媛と申しあげる。葛城襲津彦の娘である。
先の天皇の治世三十一年春一月、皇太子となられた。ときに年は十五歳。
八十七年春一月、仁徳天皇が崩御された。

治世元年春二月一日、皇太子は即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后に尊んで大皇太后と追号された。磐余に都を造り、これを稚桜宮わかさくらのみやといった。物部伊莒弗連もののべのいこふつのむらじを大連とした。
秋七月四日、葦田宿祢の娘の黒媛を皇妃とした。妃は二男一女をお生みになった。磐坂市辺押羽皇子いわさかのいちのべのおしはのみこ御馬皇子みまのみこ青海皇女あおみのひめみこである。
次の妃、幡梭皇女はたびのひめみこは、中磯皇女なかしのひめみこをお生みになった。
二年春一月四日、瑞歯別皇子みずはわけのみこを立てて皇太子とした。
五年の秋九月十八日に、皇妃の黒媛は亡くなった。
六年春一月六日、草香幡梭皇女を立てて皇后とされた。
三月十五日、天皇は病になられ、体の不調から臭みが増してきた。稚桜宮で崩御された。ときに年は七十歳[また、壬申年の一月三日に亡くなられたともいう。年七十歳]。
冬十月四日に、百舌鳥耳原陵に葬った。

天皇のお生みになった御子は二男二女。兄に磐坂市辺押羽皇子尊、次に御馬皇子、次に青海皇女尊、次に中磯皇女。

反正天皇

諱は瑞歯別尊。履中天皇の同母弟である。
先の天皇の治世二年に、立って皇太子となった。ときに年は五十一歳。
天皇は淡路宮でお生まれになった。生まれながらに歯が一つの骨のようで、うるわしい容姿であった。瑞井という井戸があって、その水を汲んで太子を洗われた。そのとき多遅たじの花が井戸の中に落ちた。よって太子の名とした。多遅の花とは今の虎杖いたどりの花のことである。それでたたえて多遅比と申し上げたのである。

先の天皇の治世六年春三月、履中天皇が崩御された。
治世元年の夏四月二日に、皇太子は即位された。
秋八月六日に、大宅臣の祖の木事こごとの娘・津野媛つのひめを立てて皇夫人とした。香火姫皇女かひひめのひめみこ、次に円皇女つぶらのひめみこを生んだ。
また、夫人の妹の弟媛を入れて、財皇女、次に高部皇子を生んだ。
冬十月、河内の丹比に都を造った。これを柴垣宮しばがきのみやという。
五年の春一月二十三日に、天皇は崩御された。年は六十歳。毛須野陵に葬った。

天皇がお生みになった御子は二男二女。兄に高部皇子、次に円皇女、次に財皇女、次に香火姫皇女。


允恭天皇

諱は雄朝嬬稚子宿祢尊。反正天皇の同母弟である。
天皇は幼いころから、成長された後も、恵み深くへりくだっておられた。壮年になって重い病をされ、動作もはきはきとすることができなかった。

先の天皇の治世五年春一月、反正天皇が崩御された。
群卿たちが相談していった。
「今、仁徳天皇の御子は、雄朝嬬稚子宿祢皇子と大草香皇子がいらっしゃるが、雄朝嬬稚子宿祢皇子は年上で情け深い心でいらっしゃる」
そこで吉日を選んで、ひざまずいて天皇の御しるしを奉った。
雄朝嬬稚子宿祢皇子は仰せられた。
「私の不幸は、長い間重い病にかかって、よく歩くこともできないことだ。また私は病を除こうとして、奏し申しあげることなくひそかに荒療治もしてみたが、なお少しもよくならない。それで先帝も私を責めて、“お前は病気なのに、勝手に体をいためるようなことをした。親に従わぬ不幸はこれ以上はなはだしいことはない。もし長生きしたとしても、天つ日嗣をしらすことはできないだろう”とおっしゃった。また私の兄の二人の天皇も、私を愚かであると軽んじられた。群卿も知っていることである。天下というものは大器であり、帝位は大業である。また、人民の父母となるのは、賢聖の人の職である。どうして愚かな者に堪えられようか。もっと賢い王を選んで立てるべきである。自分は適当ではない」
群臣は再拝して申しあげた。
「帝位は長く空しくしてあってはなりません。天命はこばむことはできません。大王が時にさからい、位につくことをされなければ、臣らは人民の望みが絶えることを恐れます。願わくはたとえいとわしいと思し召すとも、帝位におつきください」
雄朝嬬稚子宿祢皇子は、
「国家を任されるのは重大なことである。自分は重い病で、とても耐えることはできない」
と承知されなかった。
そこで群臣は固くお願いして申しあげた。
「私たちが伏して考えますのに、大王が皇祖の宗廟を奉じられることが、最も適当です。天下の万民も、皆そのように思っています。どうかお聞きとどけください」

治世元年壬子の冬十二月、妃の忍坂大中姫命が、群臣の憂いなげくのをいたまれて、みずから洗手水をとり捧げて、皇子の前にお進みになった。そして申しあげて仰せられた。
「大王は辞退なさって即位をされません。空位のままで年月を経ています。群臣百寮は憂えて、なすべきを知りません。願わくば、人々の願いに従って、強いて帝位におつきくださいませ」
しかし、皇子は聞き入れられず、背を向けて物もいわれなかった。
大中姫命は畏まり、退こうとされないでお侍りになること四、五刻以上を経た。時は師走のころで、風も烈しく寒いころであった。大中姫の捧げた鋺の水が、溢れて腕に凍るほどで、寒さに耐えられずほとんど死なんばかりであった。
皇子は驚き顧みられて、これを助け起こし仰せになった。
「日嗣の位は重いことである。たやすく就くことはできないので、今まで同意しなかった。しかし、いま群臣たちの請うこともあきらかな道理である。どこまでも断りつづけることはできない」
大中姫命は仰ぎ喜び、群卿たちに告げて仰せられた。
「皇子は、群臣の請いをお聞き入れくださることになりました。いますぐ天皇の御璽を奉りましょう」
ここに及んで皇子は仰せになった。
「群臣は、天下のために自分を請うてくれた。自分もどこまでも辞退してばかりいられない」
そうして、ついに帝位におつきになった。

二年春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后とされた。皇后は、木梨軽皇子きなしのかるのみこ名形大娘皇女ながたのおおいらつめのひめみこ境黒彦皇子さかいのくろひこのみこ穴穂天皇あなほのすめらみこと(安康天皇)、軽大娘皇女かるのおおいらつめのひめみこ八釣白彦皇子やつりのしろひこのみこ大泊瀬幼武天皇おおはつせのわかたけのすめらみこと(雄略天皇)、但馬橘大姫皇女たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ酒見皇女さかみのひめみこをお生みになった。

五年冬十一月十一日、反正天皇を耳原陵に葬った。
二十三年春三月七日、木梨軽皇子を立てて太子とされた。物部麦入宿祢もののべのむぎりのすくね物部大前宿祢もののべのおおまえのすくねを、ともに大連とした。
四十二年春一月十四日、天皇は崩御された。年は七十八歳。
冬十月十日、天皇を河内の長野原陵に葬った。

天皇のお生みになった御子は、五男四女。
木梨軽太子尊、次に名形大娘皇女、次に境黒彦皇子、次に穴穂皇子尊、次に軽大娘皇女、次に八釣白彦皇子、次に大泊瀬稚武皇子尊、次に但馬橘大娘皇女、次に酒見皇女。


安康天皇

諱は穴穂尊。允恭天皇の第二子である。
母は、皇后・忍坂大中姫といい、稚渟毛二岐皇子の娘である。

先の天皇の治世四十二年の春一月、允恭天皇が崩御された。
冬十月に葬礼が終わった。このときに、太子の木梨軽皇子は、乱暴で婦女に淫らな行いをしていたので、国人はこのことをそしった。群臣も心服せず、みな穴穂皇子についた。

そこで太子は、穴穂皇子を襲おうとして、ひそかに兵士を集めさせた。
穴穂皇子もまた兵を興して、戦おうとされた。そこで、穴穂矢・軽矢はこのとき始めて作られた。
ときに太子は、群臣が自分に従わず、人民もまた離れていくことを知った。そのため宮を出て、物部大前宿祢の家に隠れられた。

穴穂皇子はそれを聞いて、大前宿祢の家をお囲みになった。
大前宿祢は、門を出てきて、穴穂皇子をお迎えした。
穴穂皇子が歌を詠んでおっしゃったこと云々が、別の書に記されている。

そうして大前宿祢が皇子に申しあげていった。
「どうか太子を殺さないでください。私がお図りいたしましょう」
こうして太子は、大前宿祢の家で自殺された。一説には、伊予国に流したともいう。

治世元年十二月十四日に、穴穂皇子は即位された。
先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后に追号して太皇太后を贈られた。
物部木蓮子連公もののべのいたびのむらじきみを大連とした。
都を石上に遷した。これを穴穂宮という。

二年春一月十七日、中蒂姫命なかしひめのみことを立てて皇后とされ、よく寵愛された。
はじめ中蒂姫命は、眉輪王まゆわのきみを大草香皇子との間にお生みになっていた。そこで眉輪王は、母の縁で、父の罪を免れることになり、常に宮中で育てられた。詳しくは別の書にみえる。眉輪王は七歳であった。

三年秋八月九日、天皇は眉輪王のために殺された。ときに天皇は年五十六歳。眉輪王は七歳。
三年後、菅原伏見陵に葬った。

天皇に御子はいらっしゃらない。


雄略天皇

諱は大泊瀬幼武尊。允恭天皇の第五子である。
天皇がお生まれになったとき、神々しい光が御殿に満ちた。成長されてから、そのたくましさは人に抜きん出ていた。

先の天皇の治世三年八月、安康天皇は、湯浴みをしようと思われ、山の宮においでになった。
そして、たかどのに登られて眺めわたされた。酒を持ってこさせ、宴をされた。そして、心くつろがれて楽しさが極まり、いろいろな話を語り出されて、ひそかに皇后に仰せられた。
「妻よ、あなたとは仲むつまじくしているが、私は眉輪王を恐れている」

眉輪王は幼くて、楼の下でたわむれ遊んでいて、すべてその話を聞いてしまった。
そのうち、安康天皇は、皇后の膝を枕にして昼寝をしてしまわれた。
そこで、眉輪王は、その熟睡しているところを伺って、刺し殺してしまった。

この日、大舎人が走って、天皇(雄略)に申しあげた。
「安康天皇は、眉輪王に殺されました」

天皇は大いに驚いて、自分の兄達を疑われて、よろいをつけ、太刀を佩き、兵を率いて、みずから将軍となって、八釣白彦皇子を責め問いつめられた。皇子は危害を加えられそうなのを感じて、ただ座って声も出せなかった。
天皇は即座に刀を抜いて、斬ってしまわれた。

また、坂合黒彦皇子を問い責められた。皇子もまた、害されそうなのに気づいて、すわったまま物をいわれなかった。

天皇はますます怒り狂われた。
そして、眉輪王もあわせて殺してしまおうと思われたので、事の訳を調べ尋ねられた。眉輪王は申しあげた。
「私は皇位を望んだのではありません。ただ、父の仇を報いたかっただけです」

坂合黒彦皇子は深く疑われることを恐れて、ひそかに眉輪王と語り、ついに共に隙をみて、円大臣つぶらのおおみの家に逃げこんだ。
天皇は使いを遣わせて、引き渡しを求められた。大臣は使いを返して申しあげた。
「人臣が、事あるときに逃げて王宮に入るということは聞きますが、いまだ君主が臣下の家に隠れるということを知りません。まさに今、坂合黒彦皇子と眉輪王は、深く私の心をたのみとして、私の家に来られました。どうして強いて差し出すことができましょうか」

これによって、天皇はまた、ますます兵を増やして、大臣の家を囲んだ。
大臣は庭に出て立たれて、脚結を求めた。
大臣の妻は脚結を持ってきて、悲しみに心もやぶれ、歌っていうには[云々と別の書にある]。

大臣は装束をつけ、軍門に進み出て拝礼し、申しあげた。
「私は誅されようとも、あえて命を受けたまわることはないでしょう。古の人もいっています。“賤しい男の志も奪うことは難しい”とは、まさに私にあたっています。伏して願がわくは、私の娘・韓媛からひめと、葛城の領地七ヶ所を献上し、罪をあがなうことをお聞きいれください」

天皇は許されないで、火をつけて家をお焼きになった。
ここに、大臣と黒彦皇子、眉輪王はともに焼き殺された。
ときに、坂合部連贄子宿祢さかいべのむらじにえこすくねは、黒彦皇子の亡き骸を抱いて、ともに焼き殺された。
その舎人たちは、焼けた遺体を取り収めたが、骨を選び分けるのが難しかった。ひとつの棺に入れて、新漢いまきのあや擬本つきもとの南丘に合葬した。

冬十月一日、天皇は安康天皇が、かつて、従兄弟の市辺押磐皇子に皇位を伝え、後事をゆだねようと思われたのを恨んだ。人を市辺の押磐皇子のもとへ遣わし、偽って狩りをしようと約束して、野遊びを勧めて仰せられた。
「近江の佐々城山君・韓袋がいうには、“今、近江の来田綿の蚊屋野に、猪や鹿がたくさんいます。その頂く角は枯れ木の枝に似ています。その集まった脚は、灌木のようで、吐く息は朝霧に似ています”と申している。できれば皇子と初冬の風があまり冷たくないときに、野に遊んでいささか心を楽しんで、巻狩りをしたい」
市辺押磐皇子は、そこで勧めに従って、狩りに出かけた。

このとき大泊瀬天皇は、弓を構えて馬を走らせだまし呼んで、「猪がいる」と仰って、市辺押磐皇子を射殺してしまわれた。
皇子の舎人・佐伯部売輪さえきべのうるわは、皇子の亡き骸を抱き、驚きなすすべを知らなかった。叫び声をあげて、皇子の頭と脚の間を行き来した。
天皇はこれを皆殺した。

治世元年十一月十三日、天皇は司に命じられて、即位のための壇を泊瀬の朝倉に設け、皇位に即かれた。宮を定めて、朝倉宮といった。

二年丁酉の春三月三日、草香幡梭姫皇女くさかのはたびひめのひめみこを立てて皇后とされた。
妃の葛城円大臣の娘を、韓媛という。白髪武広国押稚日本根子皇子尊しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのみこのみこと(清寧天皇)と、稚足姫皇女わかたらしひめのひめみことをお生みになった。
つぎの妃、吉備上道臣の娘の稚姫わかひめは、二男を生んだ。兄を磐城皇子いわきのみこといい、弟を星川稚宮皇子ほしかわのわかみやのみこという。
つぎの妃を、春日和珥臣深目かすがのわにのおみふかめの娘の童女君おみなぎみという。春日大娘皇女かすがのおおいらつめのひめみこを生んだ。

平群真鳥臣へぐりのまとりのおみを大臣とし、大伴連室屋おおとものむらじむろや物部連目もののべのむらじめを大連とした。
二十二年春一月一日、白髪皇子を立てて皇太子とし、物部布都久留連公もののべのふつくるのむらじきみを大連とした。

二十三年己巳の秋八月七日、天皇は病いよいよ重く、百官と別れのことばを述べられ、手を握って嘆かれた。
大殿において崩御された[ときに年百二十四歳]。
御陵は河内の多治比高鷲原にある。

天皇がお生みになった御子は、三男二女。
白髪武広国押稚日本根子皇子尊、次に稚足皇女[伊勢大神に侍り祀った]。次に磐城皇子。次に星川皇子。次に春日大娘皇女。


清寧天皇

諱は白髪武広国押稚日本根子皇子尊。雄略天皇の第三子である。
母を葛城韓媛といい、葛城円大臣の娘である。
天皇は、生まれながらにして白髪であった。成長されてからは、人民をいつくしまれた。雄略天皇の多くの子の中で、特にふしぎな、変わったところがあった。

先の天皇の治世二十二年、白髪武広国押稚日本根子皇子を立てて、皇太子とされた。
二十三年八月に、雄略天野が崩御された。

雄略天皇の妃の吉備稚媛は、ひそかに幼い星川皇子に語っていった。
「皇位に登ろうと思うのなら、まず大蔵の役所を取りなさい」
長子の磐代皇子は、母夫人がその幼い皇子に教える言葉を聞いて仰せられた。
「皇太子は我が弟であるけれども、どうして欺くことができようか。してはならないことだ」

星川皇子はこれを聞かないで、たやすく母夫人の意に従い、ついに大蔵の役所を取った。
外門を閉ざし固めて、攻撃に備えた。権勢をほしいままにし、官物を勝手に使った。

大伴室屋大連は、東漢掬直やまとのあやのつかのあたいにいった。
「雄略天皇の遺詔のことが、今やって来ようとしている。遺詔にしたがって皇太子を奉じなければならない」
そうして兵士を動かして大蔵を取り囲んだ。

外から防ぎ固めて、火をつけて焼き殺した。
このとき、吉備稚媛と磐城皇子の異父兄の兄君と、城丘前来目きのおかさきのくめも星川皇子と共に焼き殺された。

この月、吉備上道臣らは、朝廷に乱ありと聞いて、吉備の姫に所生の星川皇子を救おうと思い、船軍四十艘を率いて海上にやって来たが、すでに皇子が焼き殺されたと聞いて、海路を帰った。
天皇は使いを遣わして、上道臣らを咎め、その管理していた山部を召し上げられた。

冬十月四日、大伴室屋大連は、臣・連たちを率いて、皇位のしるしを太子に奉った。

治世元年春一月十五日、司に命じて、壇を磐余の甕栗みかくりに設け、即位された。宮を定め、甕栗宮といった。
葛城韓媛を尊んで、皇太夫人とした。葛城円大臣の娘である。
大伴室屋大連と平群真鳥大連へぐりのまとりのおおむらじを元のままの職位に任じた。臣、連、伴造らも、それぞれもとの位のままお仕えした。
冬十月九日、雄略天皇を丹比高鷲原陵に葬った。

二年冬十一月、大嘗祭の供物を調えるため、播磨国に遣わした使者、山部連の祖・伊予来目部小楯いよのくめべのおたてが、赤石郡において縮見屯倉首しじみのみやけのおびとである忍海部造細目おしぬみべのみやつこほそめの家の新築の宴で、市辺押磐皇子の子の億計、雄計を見出した。この方たちを、君としてあがめ奉ろうと思い、大いに謹んで養い、私財を供して柴宮を立てて、仮にお住みいただいた。早馬を走らせ、天皇にお知らせした。
天皇は驚き、歎息してしばらく悼まれてから仰せられた。
「めでたいことだ、悦ばしいことだ。天は大きな恵みを垂れて、二人の子を賜った」
このことは、顕宗天皇の記にある。

三年春一月一日、小楯は億計・雄計を奉じて摂津国にきた。臣・連にしるしを持たせて、王の青蓋車にお乗せして、宮中に迎え入れられた。
夏四月二十七日に、億計王を皇太子とし、雄計王を皇子とした。

秋七月、飯豊皇女が角刺宮で、はじめて男と交合をされた。人に語って仰せられた。
「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。今後は男と交わりたいとは思わない」

五年春一月十六日に、天皇は宮で崩御された。
冬十一月九日に、河内の坂戸原陵に葬った。

天皇に御子はいらっしゃらない。


顕宗天皇

諱は雄計皇子尊。履中天皇の孫で、市辺押磐皇子の子である。またの名を来目稚子くめのわくごという。
雄計王の母は荑媛はえひめといい、蟻臣の娘である。その蟻臣は葦田宿祢の子である。
『譜第』に、市辺押磐皇子は荑媛を娶って、三男二女を生んだという。第一を居夏媛いなつひめという。第二を億計おけ王、またの名を嶋稚子、またの名を大石尊という。第三を雄計王、またの名を来目稚子という。第四を飯豊いいどよ女王、またの名を忍海郎女王おしぬみのいらつめのきみという[ある書では、億計王の上に入れている]。第五を橘王という。
天皇は長く辺境の地にいらっしゃって、人民の憂い苦しみをよく知っておられた。常に虐げられるものを見ては、自分の身体を溝に投げ入れられるように感じられた。徳を敷き、恵みをほどこして、政令をよく行われた。貧しい者に恵み、寡婦を養い、天下の人々は天皇に親しみなついた。

安康天皇の治世三年十月、天皇の父の市辺押磐皇子と、舎人の佐伯部仲子は、近江国の蚊屋野で、雄略天皇のために殺された。そのため、二人は同じ穴に埋められた。
そこで天皇(顕宗)と億計王は、父が射殺されたと聞いて、恐れてともに逃げ、身を隠された。舎人の日下部連使主と、その子の吾田彦は、ひそかに天皇と億計王を連れて難を丹波国の余社郡に避けた。
使主は名前を改めて田疾来たとくとした。なお殺されることを恐れて、ここから播磨の縮見山の石屋に逃れ、みずから首をくくって死んだ。
天皇は使主の行き先を知られなかった。兄の億計王を促して、播磨国の赤石郡に行き、ともに名前を変えて丹波の小子といった。縮見屯倉首に仕えた。吾田彦はここに至るまで、離れず長く従い仕えた。

清寧天皇の治世二年冬十一月、播磨国司で山部連の先祖の伊予来目部小楯が、赤石郡でみずから新嘗の供物を調えた。たまたま縮見屯倉首が新築祝いにきて、夜通しの遊宴に会った。
そのとき天皇は兄の億計王に語って仰せになった。
「わざわいをここに避けて何年にもなりました。名を明かして尊い身分であることを知らせるのには、今宵はちょうどいい」
億計王は、嘆きながら仰せられた。
「そうやって自分から暴露して殺されるのと、身分を隠して災いを免れるのと、どちらがよいだろう」
天皇は仰せられた。
「私は履中天皇の孫です。それなのに苦しんで人に仕えて、牛馬の世話をしている。名前を明らかにして、殺されるのなら殺されたほうがましだ」
億計王と抱き合って泣き、自分を抑えることができなかった。億計王は仰せられた。
「弟以外に、誰も大事を明かして人に示すことのできる者はいない」
天皇は否定して仰せになった。
「私は才がなく、大業を明らかにすることはできようか」
億計王が仰せられた。
「弟は賢く徳があり、これに優る人はない」
このように譲り合われること、二度三度に及んだ。ついに天皇がみずから述べられることを許され、共に部屋の外に行き、座の末席にお着きになった。
屯倉首は竈のそばに座らせて、左右に火を灯させた。夜がふけて、宴もたけなわになり、つぎつぎに舞いも終わった。
屯倉首は小楯にいった。
「私がこの火を灯す係りの者を見るに、人を尊んで己を賤しくし、人に先を譲って己を後にしています。謹み敬って節に従い、退き譲って礼節を明らかにしています。君子というべきでしょう」
小楯は琴をひき、火灯しをしていた二人に命じて、「立って舞え」といった。兄弟は譲り合ってなかなか立たなかった。
小楯は責めていった。
「何をしている。遅すぎるではないか。早く立って舞え」
億計王は立って、舞い終わった。天皇は次に立って、衣装を整え、家褒めの歌をうたわれた。

築き立つる稚室葛根、築立つる柱は、この家長の御心の鎮まりなり。
採りあぐる棟梁は、この家長の御心の林なり。
採りおける椽橑は、この家長の御心の斉なり。
採りおける蘆雚は、この家長の御心の平なるなり。
採りはべる結縄は、この家長の御寿の堅なり。
採り葺ける草葉は、この家長の御富の余りなり。
出雲は新饗。新饗の十握稲の穂。浅甕に醸める酒、美に飲喫ふるかわ。吾が子たち。脚日木のこの傍山に、牡鹿の角ささげて吾が舞いすれば、旨酒、餌香の市に、直もて買はぬ。手掌もやららに拍上げ賜つ、吾が常世たち。

築き立てる新しい室の綱、柱は、この家の長の御心を鎮めるものだ。
しっかり上げる棟や梁は、この家の長の御心をはやすものだ。
しっかり置く垂木は、この家の長の御心を整えるものだ。
しっかり置くえつりは、この家の長の御心を平らかにするものだ。
しっかり結んだ縄は、この家の長の寿命を堅くするものだ。
しっかり葺いた茅は、この家の長の富の豊かさを表すものだ。
出雲の新饗の十握の稲穂や、浅い甕に醸んだ酒を、おいしく飲食することよ、我が友達。この山の傍で、牡鹿の角のように捧げて私が舞えば、この旨い酒は、餌香市でも値段がつけられない。手を打つ音もさわやかにいただいた、我が永遠の友達よ。

家褒めが終わって、曲の節に合わせて歌っていわれた云々と別の書にある。

小楯がいった。
「これは面白い。また聞きたいものだ」
天皇はついに殊舞たつづのまいをされました。そして叫び声をあげて歌われた。

倭は、そそ茅原、浅茅原、弟日、僕らま。

倭はそよそよとした茅の原。その浅茅原の弟王だ、私は。

小楯はこれによって深く怪しみ、さらに歌わせた。天皇はまた叫び歌われた。

石上振るの神杉。本伐り末おしはらい、市辺宮に、天下治しし、天万国万押磐尊の御裔、僕らま是なり。

石上の布留の神杉を本を伐り末を押し払うように威を現した、市辺宮で天下をお治めになった押磐尊の御子であるぞ、私は。

小楯は大いに驚いて席を離れ、いたみいりながら再拝申しあげた。一族を率いて謹みお仕えし、ことごとく郡民を集めて宮造りに従った。日ならずして出来た宮に、仮にお入りいただき、都に申しあげて、二人の王をお迎えいただくように求めた。

清寧天皇はこれを聞いてお喜びになり、感激して仰せになった。
「自分には子がない。これを後継ぎとしよう」
そうして大臣・大連と策を禁中に定め、播磨国司の来目部小楯にしるしを持たせて、左右の舎人をつれて明石に行き、お迎えさせた。

清寧天皇三年春一月、天皇は兄の億計王に従って、摂津国においでになった。臣・連がしるしを捧げ、青蓋車にお乗りになって、宮中にお入りになった。
夏四月、億計王を立てて皇太子とし、天皇を皇子とした。

五年一月、清寧天皇は崩御された。
ときに、皇太子億計王と天皇とが皇位を譲りあわれて、長らく位につかれなかった。このため天皇の姉の飯豊青皇女が、忍海角刺宮で仮に朝政をご覧になった。みずから忍海飯豊青尊と称された。
冬十一月、飯豊青尊は崩御された。葛城埴口丘陵かずらきのはにくちのおかのみささぎに葬った。

十二月、百官が集った。億計皇太子は、天皇のしるしを天皇の前に置かれた。再拝して臣下の座について仰せられた。
「この天子の位は、功のあった人が居るべきです。尊い身分であることを明らかにして、迎え入れられたのはみな弟の考えによるものです」
そして天下を天皇に譲られた。天皇は弟であるからと、あえて位につかれなかった。
また、清寧天皇がまず兄に伝えようと思われて、皇太子に立てられたことをおっしゃって、何度も固く辞退して仰せになった。
「太陽や月が昇って、灯りをつけておくと、その光はかえって災いとなるでしょう。恵みの雨が降って、その後もなお水をそそぐと、無意味につかれることになります。人の弟として尊いところは、兄によく仕えて、兄が難をのがれられるように謀り、兄の徳を照らし、紛争を解決して、自分は表に立たないことにあります。もし表面に立つことがあれば、弟として恭敬の大義にそむくことになります。私はそんな立場にいるが忍びない。兄が弟を愛し、弟が兄を敬うのは、常に変わらない定めです。私は古老からこのように聞いています。どうしてひとりでみずから定めを軽んじられましょう」

億計皇太子が仰せられた。
「清寧天皇は、私が兄だからと天下の事をまず私にさせなさったが、自分はそれを恥ずかしく思います。思えば大王がはじめに、たくみに逃れる道をたてられたとき、それを聞くものはみな歎息しました。帝の子孫であることを明らかにしたときには、見る者は恐懼のあまり涙を流しました。心配に耐えなかった百官たちは、天をともに頂く喜びを感じました。哀しんでいた人民は、喜んで大地をふんで生きる恩を感じました。これによって、よく四方の隅までも固めて、長く万代に国を栄えさせるでしょう。その功績は天地の万物を創造した神に近く、清明なお考えは、世を照らしています。その偉大さは何とも表現しがたいことです。ですから、兄だからといって、先に位につくことができましょうか。功あらずして位にあるときは、咎めや悔いが必ずやってくるでしょう。天皇の位は長く空けてはならないと聞いています。天命は避け防ぐことはできません。大王は国家を経営し、人民のことをその心としてください」
言葉を述べるうちに、激して涙を流されるに至られた。

天皇はそこに居るまいと思われたが、兄の心に逆らえないと思われ、ついにお聞き入れになった。けれどもまだ御位にはつかれなかった。
世の人は、心からよくお譲りになったことを美しいこととして、「結構なことだ、兄弟が喜びやわらいで、天下は徳によっている。親族が仲睦まじいと、人民にも仁の心が盛んになるだろう」といった。

治世元年春一月一日、大臣・大連らが申しあげた。
「億計皇太子は聖明の徳が盛んで、天下をお譲りになりました。陛下は正統でいらっしゃいます。日嗣の位を受けて、天下の主となり、皇祖の無窮の業を受け継いで、上は天の心に沿い、下は人民の心を満足させてください。ですから、践祚をご承知いただけませんと、金銀を産する隣りの諸国の群僚など、遠近すべてのものが望みを失います。皇太子の推し譲られることによって、聖徳はいよいよ盛んとなり、幸いは大変明らかであります。幼いときからへりくだり敬い、いつくしみ順う御心でおられました。兄のご命令をお受けになって、大業を受け継いでください」
ついに詔をして、「ゆるす」と仰せられた。
そこで公卿百官を、近飛鳥八釣宮に召されて、天皇に即位された。お仕えする百官はみな喜んだ。甕栗宮に都を造った。
難波小野女王なにわのおののひめみこを皇后に立てられた。允恭天皇の曾孫・磐城王の孫、丘稚子王の娘である。
物部小前宿禰を大連とされた。

三年四月二十五日、天皇は八釣宮で崩御された。

天皇に御子はいらっしゃらない。


仁賢天皇

億計天皇は、諱は大脚。またの名は大為おおす。字は嶋郎しまのいらつこ。顕宗天皇の同母兄である。
天皇は幼い時から聡明で、才に敏く多識であった。壮年になられてめぐみ深く、へりくだった穏やかな方であった。
安康天皇の崩御で、難を避けて丹波国の余社郡においでになった。

清寧天皇の治世元年冬十一月に、播磨の国司の山部連小楯やまべのむらじおたてが京に行き、お迎え申しあげることを求めた。清寧天皇は小楯を引き続き遣わし、しるしを持たせて左右の舎人をつけ、赤石に至り迎え奉った。
二年夏四月、仁賢天皇を立てて皇太子とされた。顕宗天皇の紀に詳らかである。
五年に清寧天皇が崩御されたことにより、天下は顕宗天皇に譲られた。皇太子であることは元のままであった。
三年夏四月に、顕宗天皇は崩御された。

元年戊辰の春一月五日に、皇太子尊は即位された。石上広高宮に都を造られた。
二月二日、以前からの妃の春日大娘皇女を立てて皇后とされた。春日大娘皇女は、雄略天皇が和珥臣の深目の娘・童女君を娶ってお生みになった方である。
皇后は、一男六女をお生みになった。第一を高橋大娘皇女たかはしのおおいらつめのひめみこといい、第二を朝嬬皇女あさづまのひめみこといい、第三を手白香皇女たしらかのひめみこ[継体天皇の皇后である]といい、第四を奇日皇女くしひのひめみこといい、第五を橘皇女たちばなのひめみこといい、第六を小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせのわかさざきのみことといい、第七を真稚皇女まわかのひめみこという。
次に、和珥臣日爪の娘の糖君娘あらきみのいらつめは、春日山田皇女かすがのやまだのひめみこを生んだ。

冬十月三日、顕宗天皇を傍丘磐坏陵かたおかのいわつきのみささぎに葬った。
七年の春正月二十三日、小泊瀬稚鷦鷯尊を立てて皇太子とされた。

十一年秋八月八日に、天皇は大殿で崩御された。
冬十月五日に、埴生坂本陵に葬った。

天皇がお生みになった御子は、一男七女。小泊瀬稚鷦鷯尊。

武烈天皇

諱は小泊瀬稚鷦鷯尊。仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘という。
仁賢天皇の治世七年に、立って皇太子になられた。

天皇は長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令に詳しかった。日の暮れるまで政務に励まれ、知らないでいる無実の罪などは、必ず見抜いて明らかにされた。訴えを処断されることが上手であった。
また、しきりにいろいろな悪事をなされた。一つも良いことを修められず、およそさまざまの極刑を親しくご覧にならないことはなかった。国中の人民はみな震え恐れた。

十一年八月に、仁賢天皇が崩御された。
治世元年冬十一月十一日、皇太子は司に命じて壇を泊瀬列城宮はつせのなみきのみやに設けて、即位された。そしてここを定めて都とし、列城宮といった。
二年己卯の春三月二日、春日娘女を立てて皇后とされた。物部麻佐良連公もののべのまさらのむらじきみを大連とした。

八年の冬十二月八日に、天皇は列城宮で崩御された。

天皇に御子はいらっしゃらない。