【先代旧事本紀】巻第九・帝皇本紀 - 現代語訳
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継体天皇
諱は
母を
天皇が幼年のうちに、父王は亡くなった。振媛は嘆いていった。
「私はいま、遠く故郷を離れてしまいました。どうやってよく天皇を養いたてまつることができましょうか」
成人された天皇は、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。
武烈天皇は八年冬十二月八日に崩御されたが、もとより男子も女子もなく、跡継が絶えてしまうところであった。
大伴金村大連が皆にはかっていった。
「いま絶えて継嗣がない。天下の人々はどこに心をよせたらよいであろう。古くから今に至るまで、禍はこういうことから起きている。仲哀天皇の五世孫の、倭彦王が丹波国桑田郡にいらっしゃる。試みに兵士を遣わし、御輿をお守りしお迎えして、大王として奉ろう」
大臣・大連らは皆これに従い、計画のごとくお迎えすることになった。
ところが倭彦王は、遥かに迎えに来た兵士を望んで恐れ、顔色を失った。そして山中に逃れて行方がわからなくなってしまった。
元年丁亥の春一月四日、大伴金村大連はまたはかっていった。
「男大迹王は、ひととなりが情け深く親孝行で、皇位を継がれるのに相応しいかたである。ねんごろにお勧め申しあげて、皇統を栄えさせようではないか」
「皇孫を調べ、選んでみると、賢者は確かに男大迹王だけらしい」
六日に臣・連たちを遣わし、しるしを持って御輿を備え、三国にお迎えに行った。
兵士が囲み守り、容儀いかめしく整え、先ばらいして到着すると、男大迹天皇はいつもどおり落ち着いて床几にかけておられた。侍臣を整列させて、すでに天子の風格を具えておられた。しるしをもった使いたちは、これを見てかしこまり、心を傾け、命を捧げて忠誠を尽くすことを願った。
しかし、天皇はこの願いに裏のあることを、なお疑われて、すぐには承知されなかった。
天皇は、たまたま
使いは二日三晩留まっていて、ついに天皇は立たれることになった。そして歎息して仰せられた。
「よかった、馬飼首よ。もしお前が使いを送って知らせてくれることがなかったら、私は天下の笑いものになるところだった。世に“貴賎を論ずることなく、ただその心だけを重んずるべし”というのは、思うに荒籠のようなものをいうのであろう」
皇位につかれてから、厚く荒籠を寵愛された。
十二日に天皇は樟葉宮においでになられた。
二月四日、大伴金村大連はひざまずいて、天子の御しるしである鏡と剣を奉って拝礼した。男大迹天皇は辞退して仰せられた。
「民をわが子として国を治めることは重大な仕事である。自分は才能がなく、天子を称するには力不足である。どうかよく考えて、真の賢者を選んでほしい。自分では到底できないから」
大伴大連は地に伏して固くお願いした。男大迹天皇は西に向かって三度、南に向かって二度、辞譲の礼を繰り返された。大伴大連らは皆願い申しあげた。
「臣らが伏して計るに、大王は民をわが子同様に思って国を治められる、最も適任のかたです。私達は国家のため、思い図ることを決しておろそかに致しません。どうか多数の者の願いをお聞き入れください」
男大迹天皇は仰せになった。
「大臣・大連・将相・諸臣すべてが私を推すのであれば、私も背くわけにはいかない」
そして天子の御しるしを受けられて天皇に即位された。また、皇妃を尊んで皇大夫人媛とされた。
十日、大伴大連が奏請して申しあげた。
「臣が聞くところでは、古来の王が世を治められるのに、確かな皇太子がおられないと、天下をよく治めることができず、睦まじい皇妃がないと、よい子孫を得る事ができない、といいます。その通り清寧天皇は、跡継がなかったので、私の祖父の大伴大連室屋を遣わせて、国ごとに三種の白髪部を置かせ、ご自分の名を後世に残そうとされました。何といたましいことではありませんか。どうか手白香皇女を召して皇后とし、神祇伯らを遣わして、天神地祇をお祭りし、天皇の御子が得られるようにお祈りして、人民の望みに答えてください」
天皇は「よろしい」と仰せられた。
三月一日、詔して仰せられた。
「天神地祇を祀るには神主がなくてはならず、天下を治めるには君主がなくてはならない。天は人民を生み、元首を立てて人民を助け養わせ、その生を全うさせる。大連は朕に子の無いことを心配し、国家のために世々忠誠を尽している。単に朕の世だけのことではない。礼儀を整えて
甲子の日、手白香皇女を立てて皇后とし、後宮に関することを修められた。
そして皇后との間に、一人の男子をお生みになった。
十四日、八人の妃を後宮に召し入れられた。それぞれの妃に前後があるが、この日に入れられるのは、即位をされ良い日を占い選んで、はじめて後宮に定められたので、文をつくったのである。他も皆これにならっている。
初めの妃、
次の妃、
次の妃に、
次の妃、
次の妃、
次の妃、
次の妃、
次の妃、根王の娘の広媛は、二男を生んだ。兄が
二年の冬十月三日に、武烈天皇を
五年の冬十月、都を山背に遷し、筒城宮といった。
八年の春一月、勾大兄皇子に命じていわれた。
「春宮にいて、朕を助けて仁愛を施し、政事を補え」
二十八年春二月、天皇の病は重く、磐余玉穂宮で崩御された。年八十二歳。
冬十二月五日に、藍野陵に葬った。
天皇がお生みになった御子は八男十二女。
皇子女の名は上の文に明らかなので、さらにまた記すことはしない。
兄に勾大兄広国排武金日尊。次に檜隈高田武小広国押盾尊。次に荳角皇女。皇女は伊勢大神を斎き祀った。
安閑天皇
諱は広国押武金日尊。継体天皇の長子である。
母を目子媛といい、尾張連草香の娘である。
天皇の人となりは幼少のころから器量すぐれ、はかることができないほどであった。いつまでも奢らず寛大で、人君としてふさわしい人柄であった。
先の天皇の治世二十五年の春二月七日に、継体天皇は大兄を立てて天皇とされた。その日に継体天皇は崩御された。
治世元年甲寅の春正月に、都を倭の勾に遷した。金橋宮という。
三月六日、役人に命じて、即位された。
春日山田皇女をむかえて皇后とされた。皇后のまたの御名は山田赤見皇女。仁賢天皇の皇女である。
別に三人の妃を立てた。許勢男人大臣の娘の
二年の冬十二月十七日に、天皇は、勾金橋宮で崩御された[年七十歳]。
この月、天皇を河内の
天皇に御子はいらっしゃらない。
宣化天皇
諱は武小広国押盾尊。継体天皇の第二子で、安閑天皇の同母弟である。
二年十二月、安閑天皇は崩御されたが、跡継がなかった。
群臣達が奏上して、神器の鏡剣を武小広国押盾尊に奉った。
治世元年丁巳に即位され、天皇の元年とされた。
天皇のひととなりは、清らかで心がすっきりとしていらっしゃった。才智で人に対して驕り王者ぶる顔をされることがなく、君子らしい方であった。
二年の春正月に、都を
三月一日、役人たちは皇后を立てていただきたいと申しあげた。
それに答え詔して仰せられた。
「以前からの正妃の、仁賢天皇の娘・仲皇女を立てて皇后としたい」
皇后は一男三女をお生みになった。長女を
前からの庶妃の
三年の春二月十日、天皇は廬入宮で崩御された[年七十三歳]。
冬十一月十七日、天皇を大倭国の
天皇がお生みになったのは二男三女。
長女を石姫皇女。次に小石姫皇女。次に稚綾姫皇女。次に上殖葉皇子、またの名を椀子[丹比・椎田君の祖]。次に火焔皇子[
欽明天皇
諱は天国排開広庭尊。継体天皇の嫡子である。
母を手白香皇后といい、清寧天皇の皇女である。
父の天皇は、この皇子を可愛がって常にそばに置かれた。
まだ幼少のとき、夢に人が現れて申しあげた。
「天皇(欽明)が
夢がさめて、驚いて使いを遣わし、広く探されたら山背国紀伊郡の深草里にその人を見つけた。名前は果たして見られた夢のとおりであった。珍しい夢であると喜ばれ、大津父に告げて仰せられた。
「お前に何か思い当たることはあるか」
答えて申しあげた。
「特に変わったこともございません。ただ、私が伊勢に商いに行き、帰るとき、山の中で二頭の狼が咬み合って、血まみれになっているのに出会いました。そこで馬をおりて、手を洗い口をすすいで祈請し、“あなた方は恐れ多い神であるのに、荒々しい行いを好まれます。もし猟師に出会えば、たちまち捕らえられてしまうでしょう”といいました。そして咬み合うのをおしとどめて、血にぬれた毛を拭き、洗って逃がし、命を助けてやりました」
天皇は仰せられた。
「きっとこの報いだろう」
そうして大津父を近くに侍らせて、手厚く遇された。大津父は大いに富を重ねることになったので、皇位につかれてからは、大蔵卿に任じられた。
宣化天皇の治世四年冬十月、先の天皇は崩御された。
天国排開広庭皇子尊は、群臣に命じて仰せられた。
「自分は年若く知識も浅くて、政事に通じない。山田皇后は政務に明るく慣れておられるから、皇后に政務の決裁をお願いしなさい」
山田皇后は恐れかしこまって辞退され申しあげられた。
「私は山や海も及ばぬほどの恩寵をこうむっております。様々な政事の難しいことは、婦女の預かれるところではありません。今、皇子は老人を敬い、幼少の者を慈しみ、賢者を尊んで、日の高く昇るまで食事もとらず、
治世元年己未の冬十二月五日に、皇太子は即位された。
先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで太皇太后の号を贈られた。
二年春一月十五日、役人たちは皇后を立てるようにとお願いした。天皇は詔して仰せられた。
「前からの正妃である宣化天皇の娘の石姫を立てて皇后としよう」
皇后は二男一女をお生みになった。長子を
秋七月十四日、都を磯城に遷し、
三年の春二月、五人の妃を召し入れられた。
前からの妃で皇后の妹を、
次の妃で皇后の妹を、
次の妃、
次の妃で堅塩姫の同母妹である
十五年の春一月七日、渟名倉太珠敷尊を立てて皇太子とされた。
三十二年の夏四月十五日に、天皇は病に臥せられた。皇太子は他に赴いて不在だったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。大殿に引き入れて、その手を取り、詔して仰せられた。
「自分は重病である。後のことをお前にゆだねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。またかつてのように両者が夫婦のような間柄になるなら、死んでも思い残すことはない」
天皇はついに大殿で崩御された。時に年は若干。
五月、河内の古市に殯した。九月、
天皇のお生みになった皇子女は二十三人で、うち男子が十五人、女子が八人である。
敏達天皇
諱は渟中倉太珠敷尊。欽明天皇の第二子である。母を石姫皇后といい、宣化天皇の皇女である。
天皇は仏法を信じられず、文学や史学を好まれた。欽明天皇の治世二十九年、立って皇太子となられた。三十二年四月に、欽明天皇は崩御された。
治世元年夏四月三日、皇太子は即位された。先の皇后を尊んで皇太后といい、皇太后には太皇太后の号を贈られた。
四年春一月九日、
次に、
次に采女で、
この年、卜部に命じて、
五年春三月十日、役人が皇后を立てるように申しあげた。そこで詔して、豊御食炊屋姫尊を立てて皇后とされた。皇后は二男五女をお生みになった。第一を
十四年秋八月十五日、天皇は大殿で崩御された。よって
天皇がお生みになった皇子女は十五人で、男子が八人、女子が七人である。
用明天皇
諱は
天皇は仏法を信じられ、神道を尊ばれた。先の天皇の治世十四年秋八月、敏達天皇が崩御された。九月五日に、天皇は即位された。磐余の地に都を造り、
治世元年丙午の春一月一日、
第一を
推古天皇の御世に皇太子となられ、すべての政務を統括されて天皇の政事を行われたことは、推古天皇の記に見える。
第二を
二年夏四月二日、磐余の河上で、新嘗の祭りが行われた。この日、天皇は病にかかられて宮中に帰られた。群臣がおそばに侍った。天皇は群臣に詔して仰せられた。
「私は仏法僧の三宝に帰依したいと思う。卿らにこのことを考えてほしい」
群臣は参内して相談した。物部守屋大連と
「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。もとより、このようなことは聞いたことがない」
蘇我馬子宿祢大臣はいった。
「詔に従って、お助けすべきである。誰がそれ以外の相談をすることがあろうか」
九日、天皇は大殿で崩御された。
秋七月二十一日、
天皇のお生みになった皇子女は七人。男子が六人で女子が一人である。
崇峻天皇
諱は
先の天皇の治世二年夏四月九日、用明天皇は崩御された。この時、穴穂部皇子らが謀反をおこした。
秋八月癸卯朔甲辰の日、炊屋姫尊と群臣が天皇に勧めて、即位の礼を行った。
この月に
治世元年春三月、
四年夏四月十三日、敏達天皇を磯長陵に葬った。これは、その母の皇后(石姫)の葬られていた陵である。
五年冬十月四日、猪が献上されることがあった。天皇は猪を指して仰せになった。
「いつの日にか、この猪の首を斬るように、自分が嫌いに思う人を斬りたいものだ」
多くの武器を集めることが、いつもと違っていることがあった。大伴嬪・小手子は天皇の寵愛の衰えたことを恨み、人を蘇我馬子宿祢に使いを出して告げた。
「この頃、猪が献じられることありました。天皇は猪を指差して、“猪の首を斬るように、いつの日にか、自分の思っているあの人を斬りたい”といわれました。また、内裏に多くの武器を集めておられます」
馬子宿祢は、それを聞いて驚いたという。
十日に、蘇我馬子宿祢は、天皇が仰せになったという言葉を聞いて、自分を嫌っておられることを恐れ、一族の者を招集して、天皇を弑することを謀った。
十一月三日、馬子宿祢は群臣をあざむいていった。
「今日、東国から調が献上されてくる」
そして東漢直駒を使って、天皇を弑したてまつった。
この日、天皇を倉梯岳陵に葬った。
推古天皇
諱は
十八歳のとき、敏達天皇の皇后となられた。三十四歳のとき、敏達天皇が崩御された。三十九歳の崇峻天皇五年十一月、天皇は大臣
群臣は敏達天皇の皇后である額田部皇女に、皇位を嗣がれるように請うたが、皇后は辞退された。百官が上奏文をたてまつって、なおもおすすめしたので、三度目になって、ついに従われた。そこで皇位の印である神器をたてまつって、冬十二月八日に、皇后は
治世元年の夏四月十日、
太子は用明天皇の第二子で、母の皇后を穴穂部間人皇女と申しあげる。母の皇后はご出産予定日に、禁中を巡察して諸官司をご覧になっていたが、馬司のところにおいでになったとき、厩の戸にあたられた拍子に、難なく出産された。太子は生まれながらにものをいわれ、聖人のような知恵をお持ちであった。成人してからは、一度に十人の訴えをお聞きになっても、誤られることなく、先の事までよく見通された。また、仏法を高麗の僧・
父の天皇が可愛がられて、宮殿の南の
秋九月、用明天皇を
二年の春三月一日、皇太子と大臣に詔して、仏教の興隆を図られた。このとき、多くの臣・連たちは主君や親の恩に報いるため、きそって仏舎を造った。これを寺という。
九年春二月、皇太子ははじめて宮を
十一年十二月五日、はじめて冠位十二階を制定した。それぞれ適当な位が定められた。
十二年の春一月一日に、はじめて冠位を諸臣に賜り、それぞれ位づけされた。
夏四月三日、皇太子はみずから十七条憲法を作られた。
十三年冬十月に皇太子は斑鳩宮に移られた。
十五年秋七月三日、大礼
十六年夏四月、小野妹子は大唐の国から帰国した。唐では妹子臣を名づけて、
大唐の使者・
秋九月十一日、唐からの客人・裴世清は帰ることになった。そこでまた大仁小野妹子臣を大使とし、小仁
十七年秋九月、小野妹子らは大唐から戻った。
二十年春二月二十日、皇太夫人
この日、軽の街中で
時の人は、「摩利勢、鳥摩侶の二人はよく誄を述べたが、鳥臣だけはよく誄をすることができなかった」といった。
二十二年夏六月十三日、大仁
二十三年秋九月、矢田部造御嬬、犬上御田鍬らが大唐から戻った。
二十七年冬三日、太子が定めて仰せられた。
「主君に仕えて忠を尽くす臣を探すのならば、心から両親を敬愛する子を求めよ。なぜなら、そもそも父は天である。そして天に従うことを孝という。また、主君は太陽である。そして主君に従うことを忠という。その后は月である。また母でもある。そしてこれに従うことを臣といい、また赤誠である。『孝経』に“忠臣を求めるならば、必ず孝行息子のいる家にいる”という。これは孝道の結果である。
幸福とは流れ落ちる泉のようなものであり、辟とは春の雨が万物を成長させるようなものである。もし、この道に逆らえば、ついには大禍をうけることになる。福を減じる契機は塩を水の中に捨てるようなものである。
すべてこのようなことを道という。
言い換えると、名づけて八義という。いわゆる八義とは、孝・悌・忠・仁・礼・義・智・信を指す。また、天地・日・月・星辰・聖・賢・神・祇は、人の道として重んじるものである。それこそが寿称・官爵・福徳・栄楽である。
貧しい人であっても大切なのは、孝道を掲げていけば、栄祥を至るというべきである。礼儀に勤めて身を立てることである。これゆえ、八義になぞらえて、よろしく爵位を定める。
孝は天であり、紫冠を第一位とする。
忠は日であり、錦冠を第二位とする。
仁は月であり、繍冠を第三位とする。
悌は星であり、纏冠を第四位とする。
義は辰であり、緋冠を第五位とする。
礼は聖であり、深緑を第六位とする。
智は賢であり、浅緑を第七位とする。
信は神であり、深縹を第八位とする。
祇は祇であり、浅縹を第九位とする。
さて、地は母である。よって立身と名づけて、黄冠を第十位とする。
今より後、不変の法とせよ」
二十八年春二月十一日、上宮厩戸豊聡耳皇太子命と大臣蘇我馬子宿祢は、詔を受けたまわって、代々の古事である、天皇紀および国記、臣・連・伴造・国造および多くの部民公民らの本紀を撰録した。
春三月一日、定めて仰せられた。
「君后に対して不忠をする者、また父母に対して不孝をする者について、もし声を上げずこれを隠す者は、同じくその罪を担い重く刑法を科す」
二十九年春二月五日、夜半に、皇太子上宮厩戸豊聡耳尊は斑鳩宮で薨去された。
このとき、諸王・諸臣および天下の人民は皆、老いた者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からないほどであった。若い者は慈父を失ったように、泣き悲しむ声がちまたに溢れた。農夫は耕すことも止め、稲つき女は杵音もさせなかった。皆がいった。
「日も月も光も失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらいいのだろう」
この月、皇太子を磯長陵に葬った。ときに高麗の僧・慧慈は、上宮の皇太子が亡くなったことを聞き、大いに悲しみ、太子のために僧を集めて斎会を催した。そしてみずから経を説く日に誓願していった。
「日本の国に聖人がおられました。上宮豊聡耳皇子と申しあげます。天からすぐれた資質を授かり、大きな聖の徳をもって日本の国にお生まれになりました。中国の三代の聖王をも越えるほどの、大きな仕事をされ、三宝をつつしみ敬って、人民の苦しみを救われました。真の大聖です。その太子が亡くなられました。自分は国を異にするとはいえ、太子との心の絆を断つことは出来ません。自分一人生き残っても何の益もありません。
来年の二月五日には、自分もきっと死ぬでしょう。上宮太子に浄土でお会いして、共に衆生に仏の教えを広めたいと思います」
そして、慧慈は定めた日に丁度死んだ。これを見て、時の人は誰もが「ひとり上宮太子だけが聖人でなく、慧慈もまた聖人である」といった。