【所縁の史跡】可児の古墳1/3(岐阜県)


次郎兵衛塚古墳 [地図]

岐阜県可児市川合の次郎兵衛塚古墳です。木曽川と飛騨川の合流地点にほど近い位置にある、川合古墳群に属します。

一辺約30メートルは、岐阜県下の方墳としては最大級の規模を誇ります。

人頭大の川原石を全面に葺いた、築造当時の姿に復元されています。
隣接して考古資料館もあります。私が行ったときには休館日でした。

築造は6世紀末~7世紀初頭ころ。この時期の古墳としては珍しく、複数の石室を持ちます。ひとつの石室に追葬するのではなく、新たな石室を設けて手厚く葬ったんですね。

↓中央の主室です。全長15.5メートル(西副室増築後は17.4メートル)。

↓西副室です。
全長7.4メートル。7世紀末ころにつくられたようです。

東副室です。
全長1.7メートルのミニサイズ。小児が葬られたものと見られています。
もしくは白骨化するまで殯歛を長く取って、小さな棺で済むようにしたのかもしれません。
七世紀前半につくられたようです。


熊野古墳 [地図]

可児市広見の熊野古墳です。
直径31メートルほどの円墳といわれますが、盛土はかなり流失してしまって、石室が露出しています。

石室の現存全長は13.3メートル。玄室の天井が、巨大な一枚の石で築かれているのが特徴だそうです。

玄室北側からは土師器小型甕、須恵器平瓶・高杯、鉄鏃、大刀などが、南側からは須恵器高杯・提瓶などが出土しています。前者は最初の被葬者、後者は追葬者に伴って副葬されたようです。

古墳の築造、追葬ともに、7世紀前半ころと見られます。


羽崎中洞横穴墓 [地図]

可児市羽崎の中洞横穴墓です。
丘陵中腹の凝灰岩を掘り込んであります。
玄室内から、七世紀末~八世紀初頭の須恵器が出土していて、このころには築造されていたと見られます。

玄室の長さは4.7メートル、羨道の長さは9.4メートル、玄室天井高は2.9メートル。岐阜県下では最大級の規模です。
玄室の奥に、掘り残して作りつけた石棺があります。散乱する蓋の形状から、家形石棺と推定されるそうです。

フェンスがあって中には入れません。

周辺一帯には他にも横穴墓が散見され、羽崎横穴墓群を形成します。

羽生ヶ丘の羽崎寺洞1号墳・2号墳などと合わせて、羽崎古墳群とも呼ばれています。


不孝寺塚古墳 [地図]

可児市羽崎の不孝寺塚古墳です。民家の敷地内にあります。
羽崎古墳群の中の一基です。

上の写真は石棺の内部です。

もとは直径17メートル、高さ4メートルほどの円墳と考えられていますが、現在はかなり封土が流出してしまっています。

凝灰岩製の家形石棺が現存します。
築造は、6世紀末~7世紀初頭ころと見られます。

 

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