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【所縁の史跡】 和田岡古墳群(静岡県)

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静岡県掛川市の市街地から見て西方、原野谷川が作り出した沖積地に望む西側の台地上に営まれたのが和田岡古墳群です。南北2.5km、東西1kmほどの範囲の中に、前方後円墳四基、円墳十五基、方墳三基が確認され、うち前方後円墳四基と円墳一基が国の史跡に指定されています。 旧和田岡村・曽我村のあったこの地域は、『旧事本紀』国造本紀に見える「素賀国造」の故地として従来から注目されており、下に写真で紹介する五世紀代に築かれた有力な古墳たちの被葬者についても、これと関係するという見方があります。 素賀国造は、その始祖を神武朝に国造に任じられた美志印命とする伝承を持ちます。この、神武朝のウマシイニノミコトについて、太田亮氏、谷川建一氏、原秀三郎氏らは、物部氏の祖・宇摩志麻治命が元になって作られたものと見ます。すなわち、物部氏の一支族だったものが大連家滅亡の影響を受け、蘇我氏の配下として命脈を永らえた結果、素賀(ソガ)の名を称するようになったとする説です。 加藤謙吉氏が明らかにした、全国的な「蘇我氏による物部の収奪」の実態と合わせて、中央政界の動きが地方に及ぼした変動を考える上で興味深い説だと思います。 なお、原秀三郎氏は和田岡古墳群を、佐野郡に本拠地を持ったと見られる、佐夜部直や佐夜直に関係するものとします。天孫本紀によると、前者は物部大小木連、後者は物部印岐美連の後裔といいます。   ■ 吉岡大塚古墳  [地図] 掛川市吉岡の吉岡大塚古墳です。茶畑の中に忽然と現われるような、強い印象を受けた古墳です。 全長55m、後円部径41.3mの前方後円墳です。前方部は低く短く、帆立貝型ともいわれます。 ↓墳頂付近の様子。 保存状態は良好。後円部側は周濠の存在がよくわかります。 五世紀中葉ころに築かれたもの見られ、和田岡古墳群の前方後円墳の中では最も新しい段階に位置づけられています。 墳丘に生えていた木は奇麗に切り取られ、切り株になっていました。近年、整備が進められているようです。 ■ 春林院古墳  [地図] 掛川市吉岡にある春林院古墳です。曹洞宗春林院の裏の台地上に位置します。 直径約30mの円墳です。 昭和三十八年に調査が行われています。主体部は粘土槨で、割竹形木棺の痕跡が残っていたそうです。 春林院さんは古墳見学者に

【所縁の史跡】己等乃麻知神社(静岡県)

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  ■ 事任八幡宮  [地図] 静岡県掛川市八坂に鎮座する事任八幡宮です。 『延喜式』神名帳の遠江国佐野郡に「己等乃麻知神社」があります。 中世の八幡信仰隆盛期に八幡神が勧請され、明治期以降は八幡神社が正式名称でしたが、第二次大戦後は古来の社名を復活・保持せんとして、現社名になったそうです。 『文徳実録』嘉祥三年七月十一日に遠江国の任事神が従五位下に、『三代実録』貞観二年正月二十七日に眞知乃神が正五位上の神階に叙せられたことが見えます。 いずれの神も、当社の祭神を指すものと見られています。 祭神は、己等乃麻知媛命。 相殿に玉依姫命、応神天皇、神功皇后を祀ります。 玉依姫命と己等乃麻知媛命とを同一視する説もあるようです。 創建年代は不詳ながら、本宮山を旧社地とし、大同二(807)年に坂上田村麻呂が勅を奉じて現在地へ遷座したと伝えられます。 東海道沿いの要地に立地するため、中世以降の歌・紀行などにもしばしば姿を現しているとか。 『枕草子』にも「ことのまゝの明神」とあります。 己等乃麻知神については、『遠江国風土記伝』が 「按称眞知者、宇麻志麻知命乎、素賀国造美志印者、美志麻遅命而三代実録記眞知神乎」 とします。 同様に吉田東伍も『大日本地名辞書』の中で、 「摩知《まち》は麻爾《まに》の音通にて、随々《まま》など云語に通ひて、太占《ふとまに》に由ある神なるにや。文徳実録に任事社とあれば、己等乃麻知と云ふも事の任《ことのまま》と伝ふも、其義は通へりとみゆ」 「さて己等乃麻知と云神は、即物部氏の祖美麻知《うましまち》命にて、其子孫の創せし神祠にや。成務帝の時に物部の連の流を以て、遠江国造、久努国造、久努直、佐夜直などに任ぜられし事、旧事紀に見ゆ」 と祭神を物部氏の祖、宇摩志麻治命のことではないかと見ます。 谷川健一氏は『白鳥伝説』でこの説を踏襲し、遠江における物部氏の展開を述べています。 境内にはご神木の杉をはじめ、大きな木がいくつもあります。上写真の楠は高さ31m、目通り6m、根回り19.3mにもなるそうです。 ↓本社左手にある境内社の五社神社。 祭神は、天照大神、八意思兼神、大国主命、火乃迦具土神、東照大権現です。 ↓同じく境内社の金刀比羅神社です。 稲荷神社です。

【所縁の史跡】松林山古墳・堂山古墳(静岡県)

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■ 松林山古墳  [地図] 静岡県磐田市鎌田の松林山古墳です。 磐田原台地の南東部に位置し、すぐ北を古墳をかすめるように…というか、古墳を一部分削り取って東海道新幹線が通っています。 国の史跡に指定されています。 全長110mの前方後円墳で、三角縁神獣鏡や内行花文鏡、銅鏃、巴形銅器などを出土し、四世紀後半ころに築かれたものと見られています。 前方部は、以前は茶畑として使われていたそうで、くびれ部あたりとは大きな段差があります。茶畑を造るときに削平されたようです。 墳頂には、昭和六年の発掘の後に立てられた発掘記念塔があります。 原秀三郎氏は、『静岡県史 通史編1』のなかで、被葬者を物部武諸隅連か物部多遅麻連かと推定しています。   ■ 高根山古墳  [地図] 松林山古墳の南にある、高根山古墳です。直径52mの大型円墳で、五世紀前半ころに築かれたと見られています。 墳丘の南側に天楠神社(祭神:菅原道真、楠木正成)が鎮座しています。 墳頂は結構広くて、ベンチもありました。 ■ 堂山古墳  [地図] 磐田市東貝塚の堂山古墳です。JR磐田駅の東2kmほどのところにありましたが、現在は消滅しました。 鏡、大刀、玉類のほか多量の埴輪や鉄器類を出土し、遠江地域を代表する中期古墳として知られます。 出土の鞆形埴輪は磐田市のシンボル的な扱いを受けていて、駅前には上の写真のようなモニュメントがありました。磐田駅北口広場の整備にともなって移され、現在は御厨駅前にあるようです。 古墳のあった場所には、下のような碑があります。鞆形埴輪と前方後円墳の形を合体させたデザインらしいです。 墳長約113mの、西に前方部を向けた前方後円墳で、五世紀中葉ころの築造と見られています。 消滅した、といいましたが、つぶさに見るとちょっぴり残っていると思われる部分もあります。 静岡大学名誉教授の原秀三郎氏は、『旧事本紀』に仲哀~応神朝ころ活躍したことが見える物部印葉連(印幡足尼)を被葬者にあてます。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 松林山古墳・堂山古墳

【所縁の史跡】山名神社(静岡県)

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  ■ 山名神社  [地図] 静岡県袋井市上山梨に鎮座する山名神社です。 『延喜式』神名帳の遠江国山名郡に見える、「山名神社」の論社のひとつ。 『和名抄』にも見える山名郡山名郷の地名を負った神社です。 祭神は、須佐之男命、応神天皇、速玉之男命。 社伝には養老年間の勧請で、中古以来牛頭天王社を称するようになったといいます。 近世に入ってからは式内山名神社に比定する説が有力になり、明治元年には現在の社名に改めました。 吉田東伍は『大日本地名辞書』の山名郷の項で、 「式内山名神は、今山梨牛頭天王ならん。天孫本紀に“物部山無媛連公、軽島豊明宮御宇天皇、為皇妃”、“武諸隅連弟、物部印岐美連公、志紀県主、遠江国造、久奴直、佐夜直等祖”とあれば、此物部山無媛連公は、本州に生れて、地名を以て其名とせし人なるべし、又山名神社は山無媛連公か、或は物部氏の祖神などを祀りたるものなるべし」 と、天孫本紀に見える応神妃、物部山無媛連を当地縁故の人物とし、本来の祭神であった可能性を指摘しています。 また、谷川健一氏も『白鳥伝説』の中でこの説を踏襲して、物部氏の遠江における展開を述べます。 ↓境内社の磯部神社です。祭神は天照大御神。 社宮司社です。「おしゃもっ様」とも通称されているようで、しゃもじがたくさん奉納されていました。 シャグジの名称からすると、社殿の左側にある石神で本来は祀られていたのかもしれません。 ↓同じく境内社の力松稲荷社です。 山名神社の鳥居前は公園になっていて、私が参拝したときには、周囲の住宅地に住んでいるらしい子供たちで境内もにぎやかでした。 ■ 山名神社  [地図] 静岡県周智郡森町飯田に鎮座する山名神社です。 こちらも式内「山名神社」の論社。太田川の東岸に位置し、県道58号線の目立つところにあります。 祭神は、素盞嗚尊。相殿に白山社(菊理姫命)、八幡社(応神天皇)、三壽神社(八重事代主命・宇気母智神・猿田彦神)を祀るといいます。 社伝には、慶雲三(706)年の創建とされています。近世には飯田牛頭天王社とも称しました。 明応五年に摂津の天王寺から伝えられたという舞楽で知られます。一時中絶したものの、慶長十一年に再び伝習して復興したといいます。 重要無形民俗文化財に指定されているそうです。 境内の中央