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【所縁の史跡】波久奴神社(滋賀県)

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    ■ 波久奴神社   [地図] 滋賀県長浜市高畑町に鎮座する、波久奴神社です。 『延喜式』神名帳の近江国浅井郡に、「波久奴神社」が見えます。 祭神は高皇産霊神。相殿に、物部守屋大連公を祀ります。 高皇産霊神を主祭神とすることは、明治三十四年に許可されたもの。 『三代実録』貞観十八年八月二日に、従五位下へ叙されたことが見える、「近江国正六位上天高結神」に付会したのではないかとする説もあるようです。 用明二年七月、物部守屋は河内で蘇我馬子らと対決して敗れたが、そのとき家臣の漆部巨坂という者が守屋に代わって激闘のすえ戦死。その間に守屋は巨坂の弟の小坂を伴って当地へ落ちのび、草庵を結んで定住し、自らを萩生翁と称して土地の人々に読み書きや農業技術を教えるなど恩恵を施した。守屋の死後、人々は彼を萩野大明神として崇敬し、これが当社のはじまりである―― というような創建伝説で知られます。 もとは御神木だった杉の根幹部分が、境内に保存されていました。 樹齢四百年にはなろうかという大木だったが、幹に枯傷が生じたために、倒伏の危険からやむなく伐採に至ったそうです。 特殊神事として、神迎え・神送りの神事があります。 こんにち、神社の神は常に本殿に坐ますと考えるのが一般的ですが、古代においては石や木などを依り代とし、祭りに際して来臨し、祭りが終わるとまた帰るとする考え方が広く行われていたと見られています。 波久奴神社後方の山腹には、物部守屋が隠れ住んだ岩屋とも、死後葬られた墓所ともいわれる、巨大な磐座があり、そこで神事が行われるといいます。 古態を伝える祭祀といえそうです。 鳥居と向かい合うように、道を挟んだところに御旅所があります。 隣接して西池があります。 周囲一.七km、一〇.六haの広さを持つこの池は、物部守屋が土地の人々のために造らせたものと伝えられるそうです。 水圧のかかる南が狭く、奥で膨らんでいるいるので、たくさんの水を貯え、水門となる部分は頑丈な岩の上に築かれており、農業用池としては大変すぐれた構造・工法に拠っているのだとか。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 波久奴神社

【所縁の史跡】 野洲川流域の神々1/2(滋賀県)

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野洲市歴史民俗博物館にて復元銅鐸 目次 ・ はじめに ・ 御上神社 ・ 下新川神社 ・ 新川神社(野洲) ・ 新川神社(守山) ・ 勝部神社 ・ 大宝神社 ・ 水口神社 ・ 川田神社 ・ 八坂神社 ■ はじめに   琵琶湖にそそぐ近江最大の河川・野洲川。 鈴鹿の山々を源流として下流に広大な平野をつくりだし、かつては平野を網の目のようにめぐる水路となって、湖岸からかなり離れたところまで舟で行き来ができたといいます。 豊かな水と肥沃な土地を擁するこの地は、人とものが行き交い繁栄しました。 湖南地方(栗太・野洲・甲賀)にある式内社の社号、祭神、あるいは地名のなかに、『旧事本紀』にみえる人名と重なりのあるものがみられます。 三上山の山麓に位置する御上神社の祭神・天御陰神は、天神本紀によると、物部氏の祖神である饒速日尊に付き従って降臨した神であるといいます。 饒速日尊の孫にあたる彦湯支命が娶ったのが、淡海川枯姫です。甲賀郡の式内社に、川枯神社があります。 彦湯支命の子、出石心大臣命が娶ったのが、新河小楯姫です。野洲郡の式内社に、下新川神社と上新川神社があります。 出石心大臣命と新河小楯姫との間に生まれた子が、大水口宿祢命です。甲賀郡の式内社に、水口神社があります。   大水口宿祢命の弟が大矢口宿祢命です。その子に大綜杵(おおへそき)命がいます。栗東市の地名「綣(へそ)」にもとづく人名とする説があります。 綣からほど近い場所に、物部布津神を祀る勝部神社があります。『和名抄』にみえる物部郷はこの一帯に比定されます。 大綜杵命は高屋阿波良姫を娶りますが、彼女は『和名抄』にみえる近江国神埼郡高屋郷の出ではないかともいわれます。 大綜杵命の子が、開化天皇の皇后の伊香色謎命や、物部氏の祖として名高い伊香色雄命で、湖北の伊香郡伊香郷との名称の類似が指摘されます。 伊香色雄命の子に、大新河命や建新川命がいます。新河小楯姫同様、下新川神社や上新川神社との関係が考えられます。 このように、近江国、とくに野洲川流域と、『旧事本紀』天孫本紀物部氏系譜の、欠史八代から崇神朝ころにかけてみえる人々との間には、浅からぬつ

【所縁の史跡】野洲川流域の神々2/2(滋賀県)

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  ■ 勝部神社   [地図] 滋賀県守山市勝部に鎮座する、勝部神社です。 JR守山駅の西四〇〇メートルほどのところに位置します。 『三代実録』元慶六年十月九日条に、近江国の正六位上物部布津神が従五位下へ昇叙したことがみえます。 勝部神社の祭神が、これにあてられます。 物部神社、勝部大明神とも称されていましたが、明治になってから現在の社号が正式名称に定められたといいます。 社伝には、大化五年に当地を領していた物部宿祢広国が、その祖神である物部経津主神を祀ったのが創建であるといいます。 道鏡の腹心として法参議に昇り、 物部浄之(物部浄志)朝臣の氏姓を賜った僧基真もこの地域の出身の可能性が高そうです。 一月八日に行われる、火まつりでも有名です。 当地一帯が、『和名抄』の近江国栗本郡(栗太郡)の物部郷にあてられます。 神社から一キロメートルほど西へ行ったところで、物部小学校を見かけました。 ■ 大宝神社   [地図] 滋賀県栗東市綣に鎮座する、大宝神社です。 旧称を大宝天王宮といい、祭神は牛頭天王=素盞鳴尊です。 社伝によると、大宝元年に疫病が流行した際、小平井村信濃堂に降臨し、東へ移って既にあった追来神社の境内に鎮座。 これにより疫病が鎮まったといいます。 疫病を祓う神として崇敬されてきました。 鎮座地名の「綣(へそ)」を、物部氏の祖の大綜杵命(おおへそきのみこと)に縁故ありとする見方があります。 大綜杵命は、『日本書紀』に崇神天皇の母・伊香色謎の父で、物部氏の祖としてみえる人物です。 『姓氏録』の左京神別や右京神別にもその名がみえ、大宅首の始祖・建新川命の祖父であるといいます。 『旧事本紀』天孫本紀には、宇摩志麻治命の五世孫で、開化朝の大臣。高屋阿波良姫との間に伊香色謎命や伊香色雄命を儲けたとされます。 境内社の追来神社は、『延喜式』神名帳の近江国栗太郡にみえる、「意布伎神社」の論社になっています。 社殿は鎌倉時代に造営されたもので、国指定の重要文化財になっています。 祭神の多々美彦命は、雨を呼ぶ水の神であり、地主神でもあるとされています。 湖北の伊吹山に坐す神で、強い風をおこす鍛治の神ともいわれます。 ■ 水口神社   [地図] 滋賀県