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【先代旧事本紀】巻第七・天皇本紀 - 現代語訳

天璽瑞宝トップ   >  先代旧事本紀   >  現代語訳   > 巻第七・天皇本紀 神武天皇 彦波瀲武鸕鷀草不葺合尊 《 ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと 》 の第四子である。 諱 《 いみな 》 は 神日本磐余彦天皇 《 かむやまといわれひこのすめらみこと 》 、または 彦火火出見尊 《 ひこほほでみのみこと 》 という。年少のときは、 狭野尊 《 さぬのみこと 》 と呼ばれた。 母は 玉依姫 《 たまよりひめ 》 といい、海神の下の娘である。 天皇は、生まれながらに賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。 成長されて、日向国吾田邑の 吾平津媛 《 あびらつひめ 》 を娶り妃とされ、 手研耳命 《 たぎしみみのみこと 》 をお生みになった。 太歳甲寅年の冬十二月五日、天皇はみずから諸皇子を率いて西の宮を立たれ、船軍で東征された。[くわしくは、天孫本紀に見える] 己未年の春二月五十日に、 道臣命 《 みちのおみのみこと 》 は、軍兵を率いて逆賊を討ち従えた様子を奏上した。 二十八日、 宇摩志麻治命 《 うましまちのみこと 》 は、天の物部を率いて逆賊を斬り平らげ、また、軍兵を率いて天下を平定した様子を奏上した。 三月七日、天皇は、命令をくだして仰せになった。 「私が東征についてから六年になった。天神の勢威のお陰で凶徒は殺された。しかし、周辺の地はいまだ静まらない。残りのわざわいはなお根強いが、内つ国の地は騒ぐものはない。皇都をひらきひろめて御殿を造ろう。 しかし、いま世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の習俗が変わらずにある。そもそも聖人が制を立てて、道理は正しく行われる。民の利益となるならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで貴い位につき、民を安んじるべきである。上は天神が国をお授けくださった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を広めよう。その後、国中をひとつにして都をひらき、天の下を覆ってひとつの家とすることは、また良いことではないか。 見れば、かの 畝傍山 《 うねびやま 》 の東南の 橿原 《 かしはら 》 の地は、思うに国の真中か

【先代旧事本紀】巻第八・神皇本紀 - 現代語訳

天璽瑞宝トップ   >  先代旧事本紀   >  現代語訳   > 巻第八・神皇本紀 応神天皇 誉田 《 ほむた 》 皇太子尊は、仲哀天皇の第四皇子である。 母は 気長足姫尊 《 おきながたらしひめのみこと 》 、すなわち開化天皇の五世孫である。 天皇は、母である皇后が新羅を討たれた年、庚辰年の冬十二月に、筑紫の蚊田でお生まれになった。幼くして聡明で、物事を遠くまで見通された。立居振る舞いに聖帝のきざしがあった。 皇太后の摂政三年に、立って皇太子となられた。ときに年三歳。 天皇が皇太后の胎中におられるとき、天神地祇は三韓を授けられた。お生まれになったとき、腕に上に盛り上がった肉があった。その形がちょうど 鞆 《 ほむた 》 のようであった。これは、皇太后が男装して、鞆をつけられたのに似られた。そのため名を称えて誉田尊と申しあげる。 摂政六十九年夏四月、皇太后が亡くなられた。 治世元年一月一日、皇太子は天皇に即位された。軽嶋の地に都を造り、豊明宮といった。 二年春三月三日に、 仲姫命 《 なかつひめのみこと 》 を立てて皇后とされた。皇后は三児をお生みになった。 荒田皇子 《 あらたのみこ 》 、次に 大鷦鷯尊 《 おおさざきのみこと 》 (仁徳天皇)、次に 根鳥皇子 《 ねとりのみこ 》 である。 これより先に天皇は、皇后の姉の 高城入姫 《 たかきのいりひめ 》 を妃として、四児をお生みになった。 額田大中彦皇子 《 ぬかたのおおなかつひこのみこ 》 、次に 大山守皇子 《 おおやまもりのみこ 》 、次に 去来真稚皇子 《 いざのまわかのみこ 》 、次に 大原皇子 《 おおはらのみこ 》 である。 またの妃、皇后の妹の 弟姫 《 おとひめ 》 は、三児を生んだ。 阿倍皇女 《 あべのひめみこ 》 、次に 淡路三原皇女 《 あわじのみはらのひめみこ 》 、次に 菟野皇女 《 うののひめみこ 》 。 次の妃、 物部多遅麻大連 《 もののべのたじまのおおむらじ 》 の娘・ 香室媛 《 かむろひめ 》 は三人の御子を生んだ。 菟道稚郎子皇子尊 《 うじのわきいらつこのみこのみこと 》 、次に 矢田皇女 《 やたのひめみこ 》 、次に 雌鳥皇女 《 めとりのひめみこ 》 。 次の妃、香室媛の妹・ 小甂媛 《 おなべひめ

【先代旧事本紀】巻第九・帝皇本紀 - 現代語訳

天璽瑞宝トップ   >  先代旧事本紀   >  現代語訳   > 巻第九・帝皇本紀 継体天皇 諱は 男大迹天皇 《 おほどのすめらみこと 》 。またの名を彦太尊は、応神天皇の五世孫で、 彦主人王 《 ひこうしのきみ 》 の子である。 母を 振媛 《 ふるひめ 》 という。振媛は垂仁天皇の七世孫である。天皇の父は、振媛が容貌端正ではなはだ美人であることを聞いて、近江国高島郡の三尾の別邸から、使いを遣わして越前国三国の坂中井に迎え、召しいれて妃とされた。そして天皇をお生みになった。 天皇が幼年のうちに、父王は亡くなった。振媛は嘆いていった。 「私はいま、遠く故郷を離れてしまいました。どうやってよく天皇を養いたてまつることができましょうか」 成人された天皇は、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。 武烈天皇は八年冬十二月八日に崩御されたが、もとより男子も女子もなく、跡継が絶えてしまうところであった。 大伴金村大連が皆にはかっていった。 「いま絶えて継嗣がない。天下の人々はどこに心をよせたらよいであろう。古くから今に至るまで、禍はこういうことから起きている。仲哀天皇の五世孫の、倭彦王が丹波国桑田郡にいらっしゃる。試みに兵士を遣わし、御輿をお守りしお迎えして、大王として奉ろう」 大臣・大連らは皆これに従い、計画のごとくお迎えすることになった。 ところが倭彦王は、遥かに迎えに来た兵士を望んで恐れ、顔色を失った。そして山中に逃れて行方がわからなくなってしまった。 元年丁亥の春一月四日、大伴金村大連はまたはかっていった。 「男大迹王は、ひととなりが情け深く親孝行で、皇位を継がれるのに相応しいかたである。ねんごろにお勧め申しあげて、皇統を栄えさせようではないか」 物部麁鹿火大連 《 もののべのあらかいのおおむらじ 》 、 許勢男人大臣 《 こせのおひとのおおみ 》 らは皆いった。 「皇孫を調べ、選んでみると、賢者は確かに男大迹王だけらしい」 六日に臣・連たちを遣わし、しるしを持って御輿を備え、三国にお迎えに行った。 兵士が囲み守り、容儀いかめしく整え、先ばらいして到着すると、男大迹天皇はいつもどおり落ち着いて床几にかけておられた。侍臣を整列させて、すでに天子の風格を具えておられた。し