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【所縁の史跡】 四天王寺(大阪府)

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  ■ 四天王寺  [地図] 大阪府大阪市天王寺区四天王寺にある、四天王寺です。 『日本書紀』は、用明二(587)年に起こった丁未の乱において、廐戸皇子が戦勝を四天王に祈願し、「今もし我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」と述べたといい、それを受けて、同じ崇峻即位前紀に「乱を平めて後に、摂津国にして四天王寺を造る。大連の奴の半と宅とを分けて、大寺の奴・田荘とす」、推古元年是歳条に「始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」という創建記事を重ねて載せます。 西大門の外には石の鳥居があります。 発心門ともいい、永仁二(1294)年に木造から石造に改め再建されたそうです。 「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」の額がかかり、夕陽を拝して西方浄土を観想する日想観の信仰を伝えます。 南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ伽藍配置は「四天王寺様式」として有名です。 昭和九(1934)年の室戸台風で倒壊した塔と中門を再建する際、塔跡が発掘されたのを皮切りに、戦後にも調査が進められた結果、伽藍の位置・配置は、はじめて建立されたとき以来、動いていないことが明らかにされました。 南大門、中門、塔、金堂が七世紀前半に建てられ、講堂と回廊は七世紀後半以降に建てられたそうです。 境内全体が史跡に指定されています。 創建瓦の年代では斑鳩寺若草伽藍より遅れる時期があてられ、『書紀』等がいうような、丁未の乱後まもなく、聖徳太子によって現在地に建立されたとする見方は否定されました。 丁未の乱で敗者になった物部守屋は、説話の中で仏敵とされ、十世紀後半には怨霊化が始まりました。 『聖徳太子伝暦』や『天王寺秘決』が引く『本願縁起』には、守屋が悪禽に変化して現れ、人心を惑わしたことがみえます。 『源平盛衰記』では、「太子、仏法最初の天王寺を建立給たりけるに、守屋が怨霊、彼伽藍を滅んが為に、数千万羽の啄木鳥と成て、堂舎をつつき亡さんとしけるに、太子は鷹と変じてかれを降伏し給けり。されば今の世までも、天王寺には啄木鳥の来る事なしといへり」と、数千万羽のキツツキとなって怨霊が襲ったことになっています。 この影響は玉造からの移転についても及び、守屋がキツツキとなって仏閣を穿ち、大魚ある

【所縁の史跡】楯原神社(大阪府)

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  ■ 楯原神社  [地図] 大阪府大阪市平野区喜連6丁目に鎮座する楯原神社です。 祭神は、武甕槌命と大国主命です。 『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡に、「楯原神社」がみえます。 社伝に、崇神天皇の治世六年、当地の国造・大々杼名黒が国造館に奉斎していた国平大神と武甕槌命を同床共殿に祀るのは恐れ多いので、別殿を造営するよう詔を受けたことにより、武甕槌命を楯之御前社、国平大神を鉾之御前社としたのが創建といいます。 神功皇后の時代に、楯之御前社の社号を楯原神社に改めたとされます。 武甕槌命は神去る際に孫の大々杼命へ、自らの佩剣を霊代として祀るように命じ、子孫の大々杼彦仁は神武東征にあたって、神宣によりその十握剣を持って熊野へ赴き、これを奉ったため大和平定の功が成ったといいます。 彦仁は功績により大々杼国造に任じられ剣臣の名を賜ったとされますが、古代史上にはこのような国造の存在は確認できません。 武甕槌命の佩剣が熊野に天降り、高倉下を経て神武天皇に献上される話は『記』『紀』に見え、石上神宮の古社伝、もしくは物部氏伝承を原資料とすると見られますが、これを元に改変したか、異を唱える内容といえます。 境内にあった由緒案内碑によると、古くは字楯原にあったが兵火に罹って現社地へ遷座、字十五の龍王社を合併し境内の別殿とした。元和年間、さらに近隣の天神社を合祀し菅原道真公を祭神に加えたため、天満宮・天神社としての名称が広まり本来の祭神は忘れられていった。 楯原の社号は別殿に移って、龍王社に祀られる赤留姫命が楯原神社の祭神にあてられた。 明治四十年に至り、天神社、楯原神社、および旧東喜連村の東西神社と春日神社を合祀したのが、現在の楯原神社になったとされます。 天神社時代の祭神、あるいは合併した東西神社の媛天神の祭神には、允恭天皇の皇后にして安康・雄略天皇の生母である忍坂大中姫命がいます。 社伝にいう大々杼氏は息長氏に改称したとされ、継体天皇の母も、『紀』などにみえる振媛は継母で、実母は息長真若郎女とされます。事実とは思われない部分が多いですが、近江の名族・息長氏の影が見えかくれするようです。 境内社は複数あります。そのうちのひとつが、下の写真の神宝十種宮です。 祭神は布留御魂神で、天正年間に石上神宮が織田勢の襲撃を受けた

【所縁の史跡】為那都比古神社(大阪府)

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  ■ 為那都比古神社  [地図] 大阪府箕面市石丸2丁目に鎮座する、為那都比古神社です。 『延喜式』神名帳の摂津国豊嶋郡に、「為那都比古神社」がみえます。 祭神は、為那都比古大神と為那都比古大神。 ほか、天照皇大神(神明社・大神宮社)、大山咋神(三王神社)、木花咲耶姫神(木本神社)、天児屋根命(春日神社)、火之迦具土神(愛宕神社)、菅原道真公(天満神社)が合祀されています。 当地を含む一帯は、仁徳紀三十八年七月条にみえる猪名県に含まれ、早くから王権の勢力が及んだ地域だったことが知られます。 また、新羅系渡来人を中心に組織された木工集団・ヰナベの居住地でもありました。 ヰナベの管掌者としては、『姓氏録』未定雑姓摂津国に為奈部首が「伊香我色乎命の六世孫、金連の後なり」とあります。京貫しているものでは、猪名部造が左京神別にみえ、やはり伊香我色男命の後裔を称します。 また『旧事本紀』天神本紀には、饒速日命に供奉し天降った五部人のひとりとして為奈部らの祖・天津赤占がみえ、梶取らとして仕えた為奈部らの祖には天津赤星がいたといいます。 船匠としてのヰナベを配下に持っていたことが、物部氏の伝承に影響を与え、祖神の饒速日命が磐船に乗って降臨する形態を取らせるようになったと見る説もあります。 徳川八代将軍吉宗が寺社奉行の大岡越前守忠相に命じて奉献したとする社号碑がありました。 ■ ヨーガ岩  [地図] 箕面市如意谷にあるヨーガ岩です。医王岩の意で、薬師岩ともいうようです。為那都比古神社から西へ1kmほどのところにあります。 為那都比売神を祀る大婦天王社が明治四十年に合祀されるまでこの近くにあり、大宮と称されていました。 『摂津名所図会』には「播州静ヵ窟 石ノ宝殿の類也 この所も大己貴少彦名の二神生まれた地か」とみえます。 かつて神霊の依り来る磐座だったのではないかとも思わせます。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 為那都比古神社

【所縁の史跡】須牟地三社(大阪府)

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  ■ 中臣須牟地神社  [地図] 大阪府大阪市東住吉区住道矢田に鎮座する、中臣須牟地神社です。 一帯は、『和名抄』の摂津国住吉郡住道郷に比定されます。 『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡に、「中臣須牟地神社」があります。 祭神は中臣須牟地神。神須牟地神、須牟地曽祢神、住吉大神を配祀します。 『住吉大社神代記』にも「中臣住道神」としてみえ、住吉大社の末社支社扱いを受けています。 住道神二座と須牟地曽祢神とともに、「件の住道神達は八前なり」「天平元年十一月七日、託宣に依り移徒りて河内国丹治比郡の楯原里に坐す。かれ、住道里の住道神と号く。」とあり、遷座を経験している可能性がありそうです。 『三代実録』貞観元年正月二十七日条には、摂津国の従五位下中臣須牟地神が従五位上の神階を授かったことがみえます。 本殿のまわりに朽ちかけた土壁がめぐっているのが印象的でした。 『延喜式』玄蕃寮には、新羅の客が来朝したときに神酒を給すとあり、大和の四社、河内の一社、和泉の一社、摂津の二社から合計240束の稲を住道社に送り、そこで醸した酒は難波館で給したことが規定されています。 酒を給する使いに任じられたのは神部造によって差し向けられた中臣一人だったといい、社名の「中臣」からして当社がこの住道社なのでしょう。 また、『延喜式』臨時祭には八十嶋祭に際して、住道神二座へ、住吉神・大依羅神・海神・垂水神とともに座別の幣帛として「五色帛各五色・絹五尺・糸一絇・綿一屯・倭文一尺・褁料布三尺」が記され、奉仕者の料として住道社の祝に布一端が支給されるとされています。 境内社は、猿田彦神を祀るものなど複数ありました。 ■ 神須牟地神社  [地図] 大阪府大阪市住吉区長居西に鎮座する、神須牟地神社です。 三の宮、三明神の通称があったそうです。 『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡に、「神須牟地神社」がみえます。 祭神は境内の由緒書によると、神産霊神(神皇産霊神)、天日鷲命、少彦名命。 天日鷲命は合祀された多米神社の神です。 『住吉大社神代記』に中臣須牟地神や須牟地曽祢神とともに「件の住道神達は八前なり」とある「住道神」は、神須牟地神社の祭神を指すと見られます。 住吉大社の真西、約1.5kmのところに位置します。 これは、雄略紀十四年