【所縁の史跡】楯原神社(大阪府)

 

■ 楯原神社 [地図]

大阪府大阪市平野区喜連6丁目に鎮座する楯原神社です。
祭神は、武甕槌命と大国主命です。

『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡に、「楯原神社」がみえます。

社伝に、崇神天皇の治世六年、当地の国造・大々杼名黒が国造館に奉斎していた国平大神と武甕槌命を同床共殿に祀るのは恐れ多いので、別殿を造営するよう詔を受けたことにより、武甕槌命を楯之御前社、国平大神を鉾之御前社としたのが創建といいます。
神功皇后の時代に、楯之御前社の社号を楯原神社に改めたとされます。

武甕槌命は神去る際に孫の大々杼命へ、自らの佩剣を霊代として祀るように命じ、子孫の大々杼彦仁は神武東征にあたって、神宣によりその十握剣を持って熊野へ赴き、これを奉ったため大和平定の功が成ったといいます。
彦仁は功績により大々杼国造に任じられ剣臣の名を賜ったとされますが、古代史上にはこのような国造の存在は確認できません。
武甕槌命の佩剣が熊野に天降り、高倉下を経て神武天皇に献上される話は『記』『紀』に見え、石上神宮の古社伝、もしくは物部氏伝承を原資料とすると見られますが、これを元に改変したか、異を唱える内容といえます。

境内にあった由緒案内碑によると、古くは字楯原にあったが兵火に罹って現社地へ遷座、字十五の龍王社を合併し境内の別殿とした。元和年間、さらに近隣の天神社を合祀し菅原道真公を祭神に加えたため、天満宮・天神社としての名称が広まり本来の祭神は忘れられていった。
楯原の社号は別殿に移って、龍王社に祀られる赤留姫命が楯原神社の祭神にあてられた。
明治四十年に至り、天神社、楯原神社、および旧東喜連村の東西神社と春日神社を合祀したのが、現在の楯原神社になったとされます。

天神社時代の祭神、あるいは合併した東西神社の媛天神の祭神には、允恭天皇の皇后にして安康・雄略天皇の生母である忍坂大中姫命がいます。
社伝にいう大々杼氏は息長氏に改称したとされ、継体天皇の母も、『紀』などにみえる振媛は継母で、実母は息長真若郎女とされます。事実とは思われない部分が多いですが、近江の名族・息長氏の影が見えかくれするようです。

境内社は複数あります。そのうちのひとつが、下の写真の神宝十種宮です。
祭神は布留御魂神で、天正年間に石上神宮が織田勢の襲撃を受けた際、十種の天璽瑞宝が流出し、生魂の杜へ奉斎されたものの、幕末の混乱のなか再度略奪され、街の古道具屋で発見されたといいます。
その後も持ち主を転々として、ようやく当地に祀られるようになったといいますが、かなり疑わしい所伝です。

この一帯は、住吉津・住吉大社から東へ伸びる、「磯歯津路」に沿った地域です。
さらに東へ行けば、平野区長吉地区(長原遺跡)や旧跡部郷の物部氏本拠地を通り、大和川水系などを経て奈良盆地へ接続することになります。

『住吉大社神代記』に、住吉神の子神が列挙される中の「件住道神達八前」に註をして、「天平元年十一月七日、託宣に依り移徒て河内国多治比郡の楯原里に坐す」とみえます。
当地は道沿いに栄えたらしく、住道の神も祀られることがあったようです。

武甕槌命の剣や十種神宝などの伝説は、付会と見られる要素を含むものの、東に物部氏の拠点を控え、その影響を受けやすかっただろう地域なのがよく現れているように思います。


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