【先代旧事本紀】北部九州と近畿における天神本紀の物部の住地 - 天神本紀
■ 五部人 |
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(物部造らの祖) 天津麻良 |
筑後 浮羽郡物部郷、 壱岐 物部郷 |
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(笠縫部らの祖) 天勇蘇 |
摂津 東生郡笠縫、 大和 城下郡笠縫 大和 十市郡飯富郷笠縫村 |
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(為奈部らの祖) 天津赤占 |
対馬に伊奈浦、伊那村 | 摂津 河辺郡為奈郷、 伊勢 員弁郡 |
(十市部首らの祖) 富々侶 |
筑前 鞍手郡十市郷、 筑後 三宅郡十市郷 |
大和 十市郡 |
(筑紫弦田物部らの祖) 天津赤星 |
筑前 鞍手郡鶴田 | 大和 平群郡鶴田 |
■ 五部造(伴領) |
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二田造 | 筑前 鞍手郡二田郷、 筑後 竹野郡二田郷、 筑後 浮羽郡二田郷 |
和泉 和泉郡上泉郷二田 |
大庭造 | 筑前 上座郡把伎郷大庭村 | 和泉 大鳥郡大庭、 河内 茨田郡大庭村 |
舎人造 | ||
勇蘇造 | ||
坂戸造 | 河内 古市郡尺度郷、 大和 平群郡坂門郷、 |
■ 天物部(二十五部) |
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二田物部 | 筑前 鞍手郡二田郷、 筑後 竹野郡二田郷、 筑後 浮羽郡二田郷 |
和泉 和泉郡上泉郷二田 |
当麻物部 | 肥後 益城郡当麻郷 | 大和 葛下郡当麻 |
芹田物部 | 筑前 鞍手郡芹田 | 大和 城上・城下・平群各郡芹田 |
鳥見物部 馬見物部 |
豊前 企救郡足立村富野 筑前 嘉麻郡馬見郷 |
大和 添下郡鳥貝 大和 葛下郡馬見 |
横田物部 | 筑前 嘉麻郡横田村 | 大和 添上郡横田村 |
嶋戸物部 | 筑前 遠賀郡島戸 | |
浮田物部 | 大和 葛下郡浮田村 | |
巷宜物部 菴宜物部 |
伊勢 奄宣郡奄芸郷 | |
疋田物部 足田物部 |
筑前 鞍手郡疋田、 讃岐 大内郡疋田 |
大和 城上郡疋田、 大和 添下郡疋田郷、 大和 葛下郡疋田 |
須尺物部 酒人物部 |
摂津 東生郡酒人郷、 河内 古市郡尺度郷、 大和 平群郡坂門郷 |
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田尻物部 | 筑前 上座郡田尻村、 筑後 三池郡田尻 |
和泉 和泉郡田尻、 大和 葛下郡田尻、 摂津 能勢郡田尻村 |
赤間物部 | 筑前 宗像郡赤間 | 播磨 飾磨郡英馬 |
久米物部 | 伊予 久米郡、喜田郡久米郷 | 摂津 住吉郡榎津郡来米、 大和 高市郡来米郷 |
狭竹物部 | 筑前 鞍手郡粥田郷小竹 | 大和 城下郡狭竹村 |
大豆物部 | 筑前 穂波郡大豆村 | 大和 広瀬郡大豆村 |
肩野物部 | 肥後 片野 | 河内 交野郡 |
羽束物部 | 摂津 有馬郡羽束郷、 山城 乙訓郡羽束郷 |
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尋津物部 | 豊前 上毛郡広津 | 大和 城上郡尋津、 河内 丹比郡広来津村 |
布都留物部 | ||
住跡物部 住道物部 |
摂津 住吉郡住道郷 | |
讃岐三野物部 | 筑前 筑紫郡美濃 | 河内 若江郡三野、 讃岐 三野郡 |
相槻物部 | 大和 十市郡両槻村 | |
筑紫聞物部 | 豊前 企救郡 | |
播麻物部 | 播磨 明石郡 | |
筑紫贄田物部 | 筑前 鞍手郡新分郷 |
■ 船長・梶取ら |
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(船長 跡部首らの祖) 天津羽原 |
筑前 鞍手郡粥田郷 | 河内 渋川郡跡部郷 |
(梶取
阿刀造らの祖) 天津麻良 |
河内 渋川郡跡部郷 | |
(船子
倭鍛師らの祖) 天津眞浦 |
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(笠縫らの祖) 天津麻占 |
摂津 東生郡笠縫、 大和 城下郡笠縫 |
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(曽曽笠縫らの祖) 天都赤麻良 |
大和 十市郡飯富郷笠縫 | |
(為奈部らの祖) 天津赤星 |
摂津 河辺郡為奈郷、 伊勢 員弁郡 |
※鳥越憲三郎『弥生の王国』中央公論社、『女王卑弥呼の国』中央公論新社、安本美典『古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎』勉誠出版 を元に作成しました。
天神本紀にみえる饒速日尊の降臨に供奉した集団には、北部九州と畿内の地名を負ったものが多く、その中には北部九州と畿内の両方に一致する地名があるものも多く見られます。
北部九州の物部氏について、直木孝次郎氏は次にように述べます。
「六世紀の物部氏は、朝鮮問題にも目ざましい活躍をみせる。遠征の将軍として、また駐在の使臣として、その名は『継体紀』以降の『日本書紀』にしばしばあらわれる。西日本の物部のなかには、物部連の朝鮮での活動に関連して、六世紀以降におかれたものがすくなくないと思う。肥前国三根郡の物部郷(倭名抄)は、推古十年(602)における来目皇子の新羅遠征に関係して成立したという伝承をもっているが(『肥前国風土記』)、とくに竹斯物部・筑紫聞物部など九州北部の物部の成立には、朝鮮遠征との関係を考えるべきであろう。」(「物部連に関する二、三の考察」:三品彰英編『日本書紀研究 第二冊』)
亀井輝一郎氏も、「物部連は五世紀代のいわゆる第二次ヤマト王権のもとで台頭してきた」氏とした上で、「継体紀の物部至至を初めとする出兵記事や欽明紀の日系百済官人、雄略紀の筑紫聞物部大斧手の存在」から、「少なくとも五世紀後半には物部氏の北部九州への一定の展開を推定してよい」、「物部氏にとって大和川の先に難波津があり、さらにその先には九州から朝鮮等へと繋がる道が広がっていた」としています。(「物部氏の興亡と北部九州」:『東アジアの古代文化 第111号』)
また、物部氏だけでなく、紀氏、吉備氏、大伴氏、上毛野氏など、日本書紀の朝鮮関係記事に多く現われる諸氏が、瀬戸内・北部九州の臨海部に濃密な分布を見せることが明らかにされています。(加藤謙吉「古代朝鮮関係氏族に関する一考察」:『共立女子第二高等学校研究論集 四』)
一方、板楠和子氏は、九州における物部とその関係部民の分布について、「磐井の勢力範囲とされている筑・火・豊、後世のいわゆる三前三後におよんでおり、なかでも磐井の本拠地であり、また物部麁鹿火との決戦場となった筑後国には郷名・人名ともにもっとも多く関係部民が存在」し、「乱後、磐井鎮圧の最大の功労者であった物部氏に対して、九州における物部氏の部民設置が広範囲に許可されたのであろう」として、ヤマト王権の磐井の乱後の九州地域に対する政策に関連づけます。(「乱後の九州と大和政権」:小田富士雄編『古代を考える 磐井の乱』)
朝鮮半島への軍事・外交に多く関与していたこと、国造・ミヤケの設置など、政治的経済的支配体制の再編強化の契機となった磐井の乱で活躍したことが、北部九州に物部が見られる理由だと理解されているようです。このような、通説的な考え方をもとにすれば、5世紀後半~6世紀中葉ころに、畿内の地名が北部九州に移ったということになります。
これに対して、鳥越憲三郎氏、田中卓氏、安本美典氏、谷川健一氏らは、戦前の太田亮氏以来の説を継承発展させ、弥生時代に北部九州で興った物部氏の祖先が、瀬戸内海を東遷、畿内に到達し、のちにヤマト王権に臣従したとしています。 この考え方だと、逆に北部九州から畿内へ地名が移ったことになります。饒速日命の「降臨」を「東遷」として解釈し、伝承の事実性を認める、ユニークな説です。
天神本紀にみえる地名を根拠に用いたのは鳥越氏が最初のようです。『旧事本紀』を利用する上で新たなアプローチ方法を切り開いたものとして評価できます。安本氏は弥生時代末期に東遷の時期をあてる点が、弥生時代前期にまでさかのぼらせる鳥越氏と異なっています。
物部氏東遷説は、神武東征の事実性と同様、学究では皇国史観の田中氏など非主流の研究者に支持する人がいるほか、時期に言及しなかった黛弘道氏がいた程度で、広く認められているというわけではなさそうです。部民制の成立は6世紀に入ってからと考えるのが大勢で、「物部」にあっても例外ではないため、史料への残存を考えるとやむを得ないことでしょう。
反対に、わたしたち一般の古代史愛好者の間では知名度抜群で、在野研究者である安本氏や、学術論文ではなく一般向け書籍によって見解を述べた文化人類学者の鳥越氏・谷川氏たちの発信力の大きさがうかがえます。