【所縁の史跡】二つの「鳥見」1(奈良県)
『先代旧事本紀』は饒速日命が河内に降臨した後、大和に入り、「鳥見の白庭山」を住地にしたといいます。
「饒速日尊、天神の御祖の詔を稟て天の磐船に乗りて、河内国の河上の哮峯に天降り坐し。すなはち大倭国鳥見の白庭山に遷り坐す。」
天神本紀
また、饒速日命の墓所についても、遺体は天上へ持ち去られたものの、遺品を代わりに「登美(とみ)の白庭邑」に埋葬したとあります。
「高皇産霊尊、哀泣(あはれ)とおぼして、すなはち速飄命を使て以命(みことおほせ)て天上にひきいて上り、その神の屍骸を日七、夜七もて遊楽哀泣哭(えらきかなしみ)して天上に歛意(をさめをはり)ぬ。 饒速日尊、夢をもて妻・御炊屋姫に教えて云く、『汝の子、吾が如く形見の物とせよ』と、すなはち天璽瑞宝を授く。また、天の羽弓矢、羽々矢複、神衣帯手貫の三つの物を登美の白庭邑に葬歛(かくしをさめ)て、これをもて墓者と為す。」
天孫本紀
物部氏の祖・饒速日命がいたという「鳥見」は何処にあるのでしょうか。
奈良県にはいくつかの候補地がありますが、そのうち有力な二つの伝承地を歩いてみました。
目次
生駒市北部から奈良市西部の一帯です。現在の地図を広げてみても、登美ヶ丘、富雄、鳥見町など、かつての登見郷・鳥見郷にちなむ地名が多くあります。
『伊勢国風土記』逸文には神武天皇が大部(大伴)の日臣命に胆駒(いこま)の長髄(『古事記』の登美那賀須泥比古)の征伐を命じたとあります。生駒と鳥見は隣接する地域にあったようです。
また、饒速日命が最初に天降った哮峯を天野川の川上、生駒山の北嶺や交野市の磐船の竜王山あたりにあてた場合、ここは近くなります。
『日本書紀』に神武天皇は河内国の草香の津に上陸し、生駒山を越えようとして長髄彦に撃退されたと記されています。
これを見ると、長髄彦の本拠地「鳥見」が富雄川沿いの地域にあったほうが自然なようです。
生駒市小明町にある生駒総合公園の、北の山中にあります。
山伏塚、または檜窪塚と呼ばれているようです。
標柱があって、「饒速日命墳墓」と刻まれています。
下に紹介する真弓塚を饒速日命の墳墓に比定する説を批判する形で、大正期にここをあてる説があらわれたようです。
山伏塚を山主塚の訛りと見て、貴人の墳墓と考えられました。
幅2メートルほどの石積の塚ですが、いつ誰が造ったものなのでしょうか…
饒速日命の妻にして長髄彦の妹、御炊屋姫(三炊屋姫、登美夜毘売)のお墓といいます。
ちんまりと可愛らしい碑だけがありました。
饒速日命の妻にして長髄彦の妹、御炊屋姫(三炊屋姫、登美夜毘売)のお墓といいます。
ちんまりと可愛らしい碑だけがありました。
富雄川の東岸、夫婦塚の対岸です。出垣内のバス停を降りてすぐのところにあります。
神武紀元(皇紀)2600年記念事業の一環として、立てられたものです。
裏面に『日本書紀』を要約し、金の鵄の瑞兆によって、この地が「鵄邑」と呼ばれるようになったことが記されています。
生駒市南田原町にある、「長髄彦本拠」の碑です。
特にこのあたりからそれらしい遺跡が確認されたということもないので、これも戦前に考察されただけにとどまります。
「鳥見白庭山」の碑です。
生駒市南田原町、白谷垣内集会所の敷地内にあります。
上記の「長髄彦本拠」碑のすぐ近くです。
生垣の陰になってわかりにくいですが、「称伝」と書かれているあたり、堅実な姿勢に好感が持てます。
「浪華 藤澤章書」とありました。
付近には、白庭山にちなんで白庭台の地名がつけられています。